6日後はデッドエンド ~世田高生は、死の運命を受け入れない~

とりくろ

第一部 お支払いはあなたの命で

第1話 貪食の楽園

 明人あきとは思わずよだれを垂らしそうになった。胃を絞られるような空腹感にとらわれた。


 こんがり焼けた霜降りステーキの香ばしい匂いが食欲をそそる。

 琥珀色こはくいろをした東坡肉トンポーローは舌の上でとろけそうだ。

 すしゲタのうえのにぎり寿司も色とりどり。


 目の前が食べものと飲みものでいっぱいだ。

 熱々の唐揚げが、厚切りのローストビーフが、はなやかなサーモンのカルパッチョが、みずみずしいオリーブのサラダが、深紅のテーブルクロスでおおった広いテーブルの上で、大皿に盛られ、積まれ、重ねられ、ちりばめられている。

 料理同士のあいだにも、冷えたコーラ、果物ジュース、ビール、日本酒、ワイン、ウイスキー、ウーロン茶が、ところ狭しと並んでいる。


(うまそう……!)


 夜空のもと、グルメイベントの会場のただ中で、明人はゴクリとつばを飲みこんだ。

 今すぐ手当たり次第にかぶりつきたいとさえ思った。

 いけないだろうか。

 そばの見知らぬ大人たちは皆そうしているのだ。

 サラリーマンらしき中年、ホステス風の若い女、部屋着の老婆などなど、年も格好もさまざまな人々が、おかしなワッペンを胸につけて、高級料理をモリモリとかっこんでいる。椅子に座って、あるいは立ったままで、イベントテントの下でも露天でも、超一流のグルメをみな豚のようにがっついている。

 『たおれるまでくいだおれ』と、周囲のノボリに記されているとおりに、だ。


 明人は食べてはいけないのだろうか。

 いけないのだろう。なぜなら利用料を払ったおぼえがない。

 だから、待てを食らった犬のように、大人たちが夢中でかっくらうのをひもじい思いで眺めているのだ。だが、


(気にしないで俺も食べていいんじゃないかなあ。だってこれ、たぶん夢だし)


 とも思った。


 明人は気がつけばここにいた。来た経緯はおぼえていないが、直前までベッドの中で携帯をいじっていた記憶がある。これだけでも夢と断じるには十分だろう。


 頭上に浮かぶ無数の提灯ちょうちん不可思議ふかしぎだ。

 蠅のマークを描いたそれには、吊るすためのロープがない。まるで鬼火のように宙に浮いて、夜の会場を明るく照らしている。


 しかも広い。わかる範囲だけでも、明人が通っている高校の運動場が3つは入るだろう。

 会場は、左右を岸壁に、一番奥を巨大な大門にかこまれているのだが、それらはずっと遠くにある。そして残る大門の反対側は果てが見えない。これほど広大なグルメイベントの会場などありえないだろう。


 だから十のうち九まで、これは夢のはずなのだ。夢とわかった上で、夢を見ているわけだ。珍しいが、時にはそういうこともある。いわゆる明晰夢めいせきむと言われるものだ。

 そう考えれば、数々のおかしな点も一気に説明がつくではないか。


 夢にしては現実感がありすぎるのが、ひっかかるにせよ。


(ああ、やばいな。お腹がすいてしょうがない。この際、夢ってことにして、勝手に食べちゃおうか)


 いよいよ空腹感がひどくなって、そんなことをくわだてた。

 学生服の上からお腹をなでた。

 あちこちから漂ってくる美味そうな香りも、テーブルの上の鮮やかな彩りも、そばで大人たちがうまそうに飯を食う音も、夢とは思えないほど圧倒的な現実感を感じさせてくる。

 その現実感がこれでもかというほど誘惑してくるのだ。


 食べてごらん、と。


 これ以上我慢していると、胃袋が反乱はんらんを起こして食事に出かけてしまうかもしれない。


「どうなさいました、お客様?」


 とつぜん色っぽい声を後ろからかけられた。


「え」


 ドキッとして振り返った。

 まだ盗み食いしていなかったのは幸いだ。


 黒のレディーススーツを着た麗人が、妖しい微笑をたたえて明人のほうをうかがっていた。

 きっとこのグルメ会場の運営者だろう。

 エロティックな姿であった。といってもかっちりしたレディーススーツを着ているだけなのだが、その下の体が肉感的すぎるのだ。布地があちこち体に張りついていて、服の上からでも体のラインを想像できてしまう。腰にまきつけた黒革のウエストバッグも蠱惑的こわくてきなくびれを強調している。


「あ、いや。ええと」


 明人は思わず慌ててしまった。

 明人とて健全な男子高校生だ。強烈な大人の色気にあてられれば落ち着かなくもなる。

 それに自分でも客なのかわからないのだ。なにしろ気がつけばこの地にいたのだから。


(どう答えようか)


 と困っていると、スーツの女は切れ長の目を細めてくすりと笑った。


「あら、まだお客様ではないようですね。ここは初めてでいらっしゃいますか」


「実はそうなんです」


「では、恐れ入りますが、右手のひらをお見せ下さい」


「え? いいですけど……」


 ぬらつく声で要請され、明人はなんのことかよくわからないまま、言われたとおりに右手を差し出した。

 そして、


(あれ? なんだこれ)


 眉をひそめた。

 いつのまにか、手のひらに【6】と大きく描かれている。このような奇妙なペイントをした覚えは明人にない。

 太い線で黒々と描かれたそれは、どことはなしに不気味な感じがした。


 だがスーツ女は小さく口元を歪めて笑い、うなづいた。


「結構です」


 なにが結構なのか明人にはさっぱりだが、彼女は満足したらしい。ウエストバッグのサイドポケットからワッペンを取りだした。


「ではこちらをおつけ下さい。失礼いたしますね」


 と、これも【6】と書かれたワッペンを両手で持ち、慣れた手つきで明人の心臓のあたりに近づけた。

 おおきな胸となだらかな肩のラインが、明人の胸元に近づいた。


(おおっ?)


 思わぬ役得だ。すこしばかり香水の匂いがきつかったが、その程度はご愛敬だろう。

 しかしあまりまじまじと見るのもよろしくない。そう思って明人は目線を上にあげた。


 それで気がついた。

 見慣れた制服を着た女の子が、遠くを歩いている。

 ちらりと見えたその後ろ姿は、しかし、すぐに人ごみとノボリにまぎれて見えなくなってしまった。


(今の、世田谷高等学院うちの制服だったな)


 もしかしたら知り合いかもしれない。

 そう思って明人は首を伸ばそうとしたが、思わぬ力強さで胸のあたりをぐっと押された。


「これでよし」


 とスーツ女が明人から身を離した。

 明人の胸に、【6】と書かれたワッペンがぴたりとくっついていた。


「これで貴方はお客様となりました。どうぞお好きな物をお召し上がりください。食べ放題ですよ――しかもタダ」


「えっ。いいんですか?」


「はい、もちろん。よろしければなにか取って参りましょうか?」


 スーツ女は微笑を浮かべてすこし首をかしげ、うわ目づかいで明人を見た。

 ズキュンと来る色っぽいしぐさだ。計算ずくなのか天然なのか、明人には判別しかねたが、どちらでもよかった。大人の色気のなんたるかを見た思いがした。女子生徒の行方を追うのも忘れた。


「じゃあ……」


 お願いします、と言おうとしたら、とつぜんガタンと派手な音が起きた。

 重い物体が落っこちたときの、低音と振動がすぐに続いた。

 ビールジョッキが明人の足元に転がり、中に残っていた液体と泡を床にまきちらした。


「なんだ?」


 見れば、太鼓腹たいこばらの中年男が、【2】とある手のひらを天に向け、大の字になって地面に倒れていた。そばに椅子も転がっていた。手の平と同じように【2】と描かれたワッペンをつけたシャツも、こぼれたビールでべたべたに汚れていた。

 どうも酔い潰れたらしい。いったいどれだけ酒を飲んだのか、ハゲあがった頭がてっぺんまで真っ赤になっていた。まるで茹でダコだ。


「あら、あら」


 スーツ女が失笑した。いびきをかきはじめた茹でダコを、右手で指し示した。その手のひらには客と違ってなにも描かれていない。


「ごめんなさいね。こちらのかたを裏で休ませないといけなくなってしまいました」


「あ、いえ。おかまいなく」


「おそれいります。どうぞお好きなものをお召し上がり下さい。……心ゆくまで」


 スーツ女はぬらりと笑って明人に会釈すると、転がっていたイスを直した。

 そして、細身の体のどこにそんな力があるのか、まるまる太った中年男を片手で起こし、そのままひきずるようにして奥へと連れていった。つまり、大門があるほうへと。

 おそらく門の向こうが彼女の言う『裏』なのだろう。

 男の引きずられていくさまは、なんだか魚市場のマグロのようであった。


 なんとなく見ているうちに、女とマグロが人ごみとノボリの向こう側へと消えていった。


 と思うと、今度は遠くで食べていたOLがあおむけにぶっ倒れた。

 ほどなくして、その隣のサラリーマンが机に突っ伏した。

 酔いつぶれて酷いことになる客は珍しくもないようだ。

 スーツ女とはまた別の店員が、驚いた風でもなく近よって、やはり大門のほうへと二人をまとめて引きずっていった。


(よし)


 明人は一人うなづいた。

 これは夢かもしれない。むしろ夢でなければ異常事態だ。しかしなんであれ、これほどのご馳走が目の前に並んでいる。楽しまないと損だろう。細かいことは、食べてから考えればよいことだ。


 さっそく明人はすぐそばの空いていた椅子に座り、そなえられていた箸と取り皿を手に取った。

 ご馳走の山盛りはすぐ目の前だ。

 さっそく、厚さ3センチはあるであろう、琥珀色こはくいろ東坡肉トンポーローかたまりを箸でつまんだ。

 いざ、とばかり口に入れようとした。


「はー……」


 あやしいうめき声がした。


(今度はなんだ)


 と思って声のしたほうを見ると、ニットを着たぱっとしない中年女が放心していた。

 だいぶ汚い食べ方をしたらしく、服や体のあちこちが汁で汚れていた。だが幸せそうにしているし、でっぷりした腕で白飯大盛りの茶碗をしっかりと確保してもいる。

 病気の発作が起きたとか、そういうわけではないのだろう。


(気にしなくていいな)


 そう判断して、今度こそ東坡肉を口に放りこんだ。肉の塊をかみしめた。

 とたん、豊潤な香りと、濃厚な肉汁と、とろける脂の甘みが、口いっぱいに広がった。

 背が痺れた。

 ただちにそばの白飯を取ってかきこみ、肉と一緒に飲みこんだ。

 豚の脂のよく染みたごはんが、口の中で醤油の旨みと混じりあい、えも言われぬ美味となって舌の上をすぎ、喉を通っていった。


「うおお……」


 声が出そうになった。

 むしろ出た。

 さきほどの中年女もこれにやられたに違いない。

 しかも驚いたことに、まったく腹に持たれる感じがなかった。

 むしろ、より腹が減る気さえした。

 明人はまた肉の塊を丸ごと口に入れた。


(おおー……)


 たまらない至福の瞬間が、ふたたび訪れた。

 いよいよ腹が減ってきた。

 また口に入れた。

 さらに腹が減った。


(やばい、止まらない)


 食べれば食べるほど、さらに食べたくなった。

 えもいわれぬ美味をもう一度。

 また、もう一度。

 また、また、もう一度。


 いくらでも食べられた。

 だから他のご馳走も食べた。

 寿司も、霜降りステーキも、ローストビーフも、唐揚げもだ。

 どれもこれもうまかった。食べても食べても、いよいよ食べたくなって、終わりがなかった。


 食べる。

 腹が減る。


 だから食べる。

 また腹が減る。


(うまい。うまい)


 どれほど食べても、腹が満ちなかった。

 いや、それどころか空腹感がさらに強くなった。


 だから食べる。いくらでも食べる。ずっと、ずっと食べ続ける。


 食べて、食べて、もう何皿目か、明人自身わからなくなってきた。ただ腹が減るばかりだ。考えるのもおっくうになってきた。


 だから食べた。腹をすかせた。


 食べ、食べ、食べ、また食べる。

 腹が減り、減り、減り、また腹が減る。


 唐揚げが山と積まれていたはずの大皿が空になった。スシ下駄の上も空になった。


 それでも食べた。

 口も手も止まらなかった。


 やめられなかった。

 やめなければと思っても、やめられなかった。


 誰かが唐揚げと寿司を補充した。


 だからひたすら食べた。自分に食べさせられた。

 そのうちやめなければとも思わなくなった。


 ブウン、ブウンと明人の頭上で羽音がうるさく鳴った。

 大きなハエが、あざ笑うように明人の上を飛びまわっていた。

 それでも気にせず食べ続けた。


(うまい、うまい、うまい……)


 だが突然、そのハエが逃げるように飛び去った。


古宮ふるみやくん。隣、いいかな?」


 澄んだ声がかけられたのは、そのすぐ後だった。

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