Fragile

情報過多

Fragile

 春と冬の間に挟まれた今日という空間は、化学平衡に達していない水溶液のように乱れている。

 昨日は温暖な気候だった。無数の氷晶は日光を分光し虹色に輝き、それを見た眩しそうに目をしかめる人々はしかしどこか嬉しそうだった。だが、今日の空は灰色の雲に覆われ地上には水と雪の混合物が降り指先が痛くなるほどに気温は低い。歩道の中央は水分を含んだシャーベット状の雪がぬかるみのようになっていてとても歩けるような状態ではなかった。僕はできるだけぬかるみの部分を避け、路傍に積まれている数ヶ月溶けずに硬化した鉛色の雪山の上を飛び移るようにして移動していく。そうしてなんとか横断歩道の前までたどり着き、僕は信号が青になるまで待機する。目の前の横断歩道を見ると全面に大きな茶色い水たまりができていて、それを避けて渡るのは難しそうだった。水たまりに落ちて消えていく雨雪を眺めていると、ふいに僕は徐々にその勢いを増す雨雪が大気の密度を上げ地上の空気を圧迫しているかのような感覚に襲われ、精神的な息苦しさを感じた。そしてまた、アルゴンガスのような自問自答を始めるのだった。


 どうして僕がこんな目に合うんだ。希望していた会社の内定ももらっていたというのに。どうして僕が卒業できないんだ。研究をろくに行わず僕が研究室に来なかったからだと教授は言う。確かに僕は研究室に行かなかった時期がある。しかしそれも教授の僕に対するパワハラのせいじゃないか。研究に関する質問をしてもろくに答えてくれなかったくせに。ゼミで僕が発表するたびに長時間に渡ってネチネチと執拗に僕の研究を否定しやがって。

「この実験データにはなんの意味もありません。」

「なんでこんな実験をしたんですか。やり直してください。」

 僕はこの実験を行う前にこういう方向性で研究を進め、そのためにこの条件で実験を行うと報告し、教授もそれに許可を出しましたよね?そう指摘しても覚えていない、そんな許可は出していないの一点張り。これらの実験を行うのに一体どれだけの時間がかかっていると思っているのだ?はっきりとしたパワハラではなく指導ともパワハラとも言えない曖昧な仕方で人を追い詰めるところが実にあなたらしい。教授は僕の成長のため、教育のためにこうした指導を行っていると言うが、教授は指導という名を借りて僕を叱責することで自分のストレスを発散させているだけじゃないか。ゼミに限らず、日常的な度重なる嫌がらせのせいで僕の神経は衰弱し研究室に行くのが億劫になってしまった。それでも冬からは頑張って研究室に行き、できるだけの実験を行ったのだから卒業させてくれてもいいじゃないか。他の研究室の同期にはほとんど研究を行っていないのに卒業させてもらっているやつもいるというのに。なのにどうして僕だけが留年しなければならないのだ。不公平だろう。こんな不条理、あっていいはずがない。


 これまでの僕の人生は順風満帆そのものだった。中学受験を成功させ、地元でトップの大学にも進学できた。浪人も経験していない。今まで親のアドバイスどおりにやってきたし、みんなが憧れる大企業への内定も決まっていて勝ち組の人生を歩んでいける、そのはずだった。


 今の僕の目に映る未来は磨りガラスのフィルターを通したようにぼやけている。僕の両親や学校の先生たちは正解の道順は何度も丁寧に教えてくれたが(それこそ執拗に)、道を間違えたときにどうしたらいいのかは教えてくれなかった。僕自身もそういう状況に陥ったときにどう対処したらいいかは考えてこなかった。なぜなら、まさかこの僕が道を踏み外すなんて思っても見なかったから。いや、もしかすると無意識のうちにその可能性から目をそらし続けていたのかもしれない。僕が成功を重ねるたびに、失敗したときのリスクが膨らんでいったことにも気づかずに。 

 これまで僕の周りにも、道を踏み外しているものがいた。犯罪を犯して捕まる者、フリーターになる者、退学する者、そして、留年する者。

 僕はそんな人達を見るたび自分とは違う世界の人だと思ったり、反面教師にしたり、あるいは軽蔑していた。そして今まで卑下していた者たちと同じ立場に自身がまわったとき、どうしようもないほどの自己嫌悪が僕を襲った。


 僕が負け組になってしまったことが未だに信じられない。いや、信じたくない。今の僕には留年という事実を受け止めることができない。どうして僕は留年したのだろう。どうして僕はあの研究室に入ってしまったのだろう。どうしてもっと研究室配属のときに情報を集めようとしなかったのだろう。過去と現在の断絶をこれほど意識し、恨めしいと思ったことはかつてなかった。どうして僕は生まれてきてしまったのだろう。今なら反出生主義者の気持ちがよくわかる。負けたときに初めてこの社会がいかに生きづらい構造になっているのかが理解できた。勝ち組になるために勉強し高学歴の肩書を手に入れ、無事大企業に就職したあとも子会社に左遷されないように上を目指す努力を続けなければならない。それでも日本の終身雇用は崩壊し、倒産やリストラされるリスクに常に怯え続ける。そもそも生きている限り、精神的に安定した生活が保証されるなんてことはありえないことなのではないだろうか。現在安定した生活を送っている人も少なからずリスクを抱えており一歩道を踏み外すだけで転落し、僕のようになる可能性を秘めている。努力して努力してやっとのことで得た安定も、必ず不安定の種子を孕んでいる。いつまでも失うリスクに怯え続けなければならない仮初の安定した生活を追い求めるよりも、もういっそのこと死んでしまうほうがマシなのではないか?死ぬことこそ究極の安定ではないか。


 僕の所属する研究室は研究所の8階にある。飛び降りるにはちょうどよい高さだった。僕が死を選ぶ理由は2つある。一つは僕が理想と現実の乖離に耐えることができないからであり、もう一つは僕の両親と教授に対する復讐である。僕の人生をこんな結末にしてしまったのはすべて彼らのせいである。僕に勝手な理想を押し付けた両親には取り返しのつかないことをしたのだと後悔してほしい。教授も僕が研究室から飛び降りれば何らかの責任が問われるだろう。僕を留年させ人生を狂わせた元凶である教授にはぜひ不名誉な辞職をしていただきたい。正直辞職ぐらいでは割りに合わないが、教授の生きがいである研究を奪えるのであれば少しは気が収まるというものだ。不幸になった彼らの姿を想像するあいだだけ、僕の心は晴れやかになるのだ。

 日曜日の午後1時の研究室には誰もいなかった。昼間であるというのに部屋の中はうす暗い。僕は部屋の電気をつけると窓際まで歩いていき、鍵を開け窓を開けた。ベランダに出ると前方に大学構内に生えている林が、更に遠くの方ではマンションや住宅の連なりが見えた。ベランダの縁には手すりが備え付けられていて、僕は手すりによじ登り、両足を外側に投げ出すような格好で手すりに座った。手の甲の骨が浮き出るほどに強く手すりにしがみつきながら真下を見下ろす。下にはぬかるんだ地面と整列して駐輪されている自転車が数台見えた。下をじっと覗いていると頭がグラグラと揺れ目眩に似た感覚に襲われる。僕のすぐ真下に死がある。僕がこの手摺を飛び越えると僕の体は重力によって加速を付けられ、速度の自乗のエネルギーをもって地面に衝突する。そして反作用を全身に受けた結果、骨が砕かれ内蔵が破裂し死に至る。そんな思考を張り巡らせていると死ぬということがどういうことなのか今更になって実感が湧いてきた、と同時に死への恐怖がこみ上げてきた。心臓の鼓動が大きくなるのがわかり、呼吸も荒くなる。飛ぶぞ、飛ぶぞと何度も頭の中で念じてみたが、その意志よりも死への恐怖のほうが勝ってしまい、僕はなかなか飛び降りることができない。ああ、負け組の人生のまま生きるのは恐ろしい。だが、死ぬのはもっと恐ろしい。僕は生きることも、死ぬこともできない半端者だ。僕が軽蔑してきた人たちよりもくだらない人間だった。彼らは道を踏み外した今も前向きに人生を過ごしているだろう。いや、そもそも道を踏み外したという認識すら持っていないかもしれない。でも僕には彼らと同じように生きることができない。ただ人生に絶望し、他人に責任をなすりつけるだけ。生きる気力もなければ死ぬこともできず、この世に生まれてしまったが為に仕方なく生命活動を維持しているだけの存在。僕はこの世界という永久に平衡状態に達することのないフラスコの中で、正常な精神を保ったまま人生を終えられる自信がなかった。

 

 どのくらい時間が立っただろうか。いつの間にか午前中から降り続いていたみぞれは止んでいた。僕の体は芯から冷え上がり、手足の末端の感覚が殆どなくなっていた。暗澹たる思いの中、取り敢えず部屋の中に戻ろうと体を持ち上げひねり返そうとした瞬間、体の全体重を載せていた両手が手すりからするりと、まるで摩擦係数がゼロになったかのように滑った。瞬時に僕は手すりを掴み直そうとしたが、長時間冷たい外気にさらされていた体は思うように動かず、かじかんだ手は手すりを掴みそこねた。

 そして僕は、8階のベランダから地面に向かって落下していった。


 落ちながら僕は考えた。僕は数秒後に落下死する。他の選択肢はない。

 そう思うと死への恐怖心が和らいだ。

 



 地面が迫ってくる。風圧で目が乾いた。



 

 

 意識を失う間際、ガラスの割れる音が聞こえた気がした。 


 


 


 

 


 

 

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