side β-1
"先生"を自称する謎の女のバイクに同乗し、ホームセンターやリサイクルショップを見送りながら幹線道路を走ること約20分。見たところ築40年くらいの、看板も表札も付いていない小さなビルの前に停まったかと思うと、僕はそのまま地下室へと案内された。ここが彼女の拠点らしい。
廊下の左右にはたくさんの部屋が並んでおり、地上の建物を見て想像したよりも地下の空間はずっと広いことが分かった。恐らくは駐車場の地下も含め敷地全体を利用しているのだろう。"先生"に導かれその部屋の中のひとつに入ると、中央には天板がガラスで出来たローテーブルと、それを挟んで向かい合うようにソファが2つ置いてあった。応接間のように見えるが、部屋の隅に流し台があったりその横の棚には電気ケトルが置いてあったりと、生活感も感じられる。
「はいこれ。奥にシャワーがあるから浴びてきなよ」
そう言うと彼女は僕にバスタオルと着替えを手渡した。僕は言われるままバスルームを借りて、雨で冷えた体を温めなおした。鏡には小さく細い体が映っていた。顔はまだ直視することが出来ない。
彼女はこの罪の償いかたを教えると言い、僕はそれに従ってここに来た。しかし、僕は彼女のことを何も知らない。僕は差し伸べられた手を無差別に掴んだだけで、また自分で考える事を放棄して他人に操られようとしているのだろうか。いや、今回は違う気がする。なんとなくだが、彼女からは人を利用しようという気配が感じられなかった。代わりに感じたのは…………懐かしさ?その正体は分からないが、彼女が何かを知っていることは確かだ。バスルームを出たら話を聞いてみよう。
「コーヒー飲むかい?インスタントだけど」
部屋に戻ると、”先生”はマグカップに茶色い顆粒を注いでいた。あのタイプのコーヒーはつい最近出てきたものだったと思う。商品名は…………なんだっけ?インスタントとかじゃなく、もっと短い名前だったような。とにかくこの時代には無いはずのものだ。入鹿は僕を30年代後半の日本に送ると言ったが、僕の元居た世界の同じ時代とは所々違いがあるらしい。マグカップに熱湯を注ぐと、スプーンでかき混ぜるまでもなく顆粒が溶け出し、一瞬でコーヒーが2杯できあがった。彼女はテーブルに1杯を置き、もう片方に息を吹きかけながら向かい側のソファに座った。カップの置かれた側に座りそれを口にすると、以外にも甘かった。いつの間にか砂糖を入れられていたらしい。ブラックは苦手なので助かったが、何も言っていないのに好みを見透かされているようで少し気味が悪くもある。
「落ち着いたかな?」
そう問われて思い出した。彼女は自分のことを『βの住人』、『君たちの作戦目標』と言った。つまり、僕がこの世界の外から来たことと、その目的を知っているのだ。コーヒーに入れた砂糖はすなわち『お前のことは何でも知っている』という威嚇なのだろうか?しかし、彼女から敵意は感じられない。
「あなたは何者ですか?どうして僕の世界のことを知っているんですか?」
「ああ、君のようなやつを2人捕まえて、ちょっと体に聞いたら教えてくれたよ」
突然むき出しにされた悪意に驚いて、僕は音を立てながら立ち上がった。
「はははっ、冗談冗談」
彼女はさっきの迫力が嘘だったみたいにケラケラと笑っている。雨の中僕の顔を覗き込んだ時と同じ、こちらの事情を無視しているような、やたらと嬉しそうな表情だ。
「本当は、全部君に教えてもらったんだよ」
「?」
独りよがりな冗談に半ば呆れていると、今度はやけに含みのあることを言った。今日僕と会ってからの会話で全てを知った…………というわけではないだろう。会話の端にうっかりこぼれるような情報量ではないし、そもそも僕たちは殆ど言葉を交わしていない。
「まあ、複雑なことだ、ゆっくり話した方がいい。お腹空いただろう?ピザでも頼もうか」
「いえ、別に。それより何で僕のことを知っているのかを…………」
断ったにも関わらず、彼女は既にスマートフォンを取り出して電話をかけ始めていた。彼女の正体は不明だが、人の話をよく聞かない性格だということは分かってきた。
「もしもし。いつものやつと、テリヤキチキンのLサイズを1枚ずつ。うん、よろしくね」
彼女はそれだけ言って電話を切った。宅配ピザを「いつものやつ」で頼む人は見たことがないし、僕が聞き漏らしていないのであれば、住所も名前も告げていなかった。声だけで通じるほど頻繁にピザを注文しているのだろうか。だとしたら、お腹が減ってピザを食べたくなったのは彼女の方なのではないか?
…………予想外の言動に振り回されるうち、さっきまでうるさく鳴っていた心音が落ち着いて、細かい情報が頭に入ってくるようになった。”先生”を名乗った目の前の女性は、その余裕綽々とした態度に反してずいぶん若く見える。成人しているかどうか、少なくとも元の僕よりは年下だろう。それなのに彼女の瞳からは、老衰で息を引き取る間際の祖母の目に見たような深遠な気配を感じる。彼女は僕の視線に気づいてこちらの顔を見たかに思えたが、ピントはもっと遠くのどこかに合わせているようだった。マグカップを置いて深く息を吐くと、さっきの意味深な言葉の続きを語り始めた。
「そうだな、何から話したものか。…………私と君は以前にも会ったことがあるんだ」
僕がこの世界に来たのは今日のことだ。彼女の言う”君”が僕のことを真に指しているのなら、以前会ったというのはあり得ない。待てよ、出会ったのがこの世界じゃないとしたら?βに送られるより前、僕が元の世界に居た時の知り合いなのだとすれば…………いや、その仮説も彼女の発言と矛盾している。彼女はβの住人を自称した。それに、彼女が僕と同じあのバイトの参加者なのだとしたら、僕が知っているくらいのことは入鹿に説明されたはずだ。
「やっぱり、僕のことを他の誰かと勘違いしてるんじゃないですか?」
「いや、間違いないよ。あれだけの時間を一緒に過ごしたんだ、君のことを間違えるはずがない。今回もかなり待ったんだよ。君を見つけられた時は本当に嬉しかった…………と言っても君には何のことだか分からないだろうけど」
「??」
本当にさっぱりだし、むしろ更に謎の情報が増えてしまった。『あれだけの時間』、『今回も』…………彼女は僕にとっての何なんだ?混乱した思考にタイムをかけるように、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「ピザが来たみたいだね」
「さすがに早すぎないですか?」
「キャサリンは早いんだよ」
キャサリン?聞いたことないが、この世界ではそういう名前の配達ピザチェーン店があるのだろうか。”先生”がインターフォンのボタンを押すと、スピーカー越しにビル入口の自動ドアが開く音がした。
「アリガトゴザイマース」
それに続いて、典型的な外国人のするようなカタコトの挨拶が聞こえてきた。店ではなく配達員の名前がキャサリンか。僕は何故こんなどうでもいいことを真面目に考えているのだろう。
ほどなくして、すりガラス越しに赤い制服を着た人のシルエットが見えると、ドアがノックされた。”先生”は、はーいと答えてドアを開けに行った。心なしか足取りが軽いように見える。
「ドーモー」
現れた配達員は金髪で顔の彫りが深く高身長の、これでもかというほどステレオタイプなイメージの白人女性だった。しかし、声に元気がないのが気になった。その顔でキャサリンならもっと陽気であって然るべきだ、というのは流石に偏見が過ぎるが、先入観を抜きにしても不自然に委縮しているような…………いや、怯えている?不自然な挙動を訝しんでいると、突然、配達員の後ろから大柄な男が現れた。
「死にたくなかったら質問に答えろ。ここに人工臓器なんてものを作ってるバカは居るか?」
男は右手に拳銃らしきものを持っており、それを見せつけるように配達員の側頭部に押し付けている。
「居るよ。でも紹介は後で良いかな?ピザが冷めてしまう」
銃声が4発鳴り、果敢にも口答えをした”先生”は床に崩れ落ちた。彼女の服に血が滲み、首からも出血しているのが見てとれた。配達員はピザを持ったままただ震えている。何故この現代日本に本物の銃を持った強盗が存在する?
「フゥー…………。俺は気が短いんだ。お前は死ぬ前に答えてくれるよな?」
「あ…………あ、えっと…………」
男は弾を装填しながらこちらに近づいてくる。『今日ここに来たばかりで何も知らない』なんて本当のことを言っても殺される未来しか見えない。かといって、男を満足させる答えの用意もない。
「だんまりか?3,2…………」
どうしてこうなった?今日だけで僕の処理能力を超えることがいくつも起こりすぎだ。頭を休める時間が欲しい…………そう考えると、さっきまで”先生”と話していた数刻は本当に貴重だった。僕に今後の展望と幾ばくかの時間を与えてくれた彼女はしかし、床に伏して動かない。ああ、もう考えるのをやめて楽になりたい。かといって生きるのを簡単に諦めるわけにはいかない。この命は僕の物ではないのだから。
「後で教えるって言ってるのに、話を聞かないやつだなあ」
僕も、恐らく強盗の男にとっても予想外の方向から聞こえた声に振り向くと、銃弾をいくつも食らって生きているかどうかも怪しかった人間が、何事もなかったかのように立ち上がっていた。出血は止まっており、首に穴が空いていたはずの場所では歪な形の肉が蠢いている。男は顔を青くして、こちらに向けていた銃を彼女の方に向け直した。
「なんで生きているのかって?それは私が不死身の化け物だからさ」
「は!?なんだてめえは!わけ分かんねえこと言ってると殺すぞ!!」
男はそう言いつつも引き金にかけた指を引きあぐねている。本心では、もう自分の武器が役に立つとは思っていないのだろう。あれだけ銃弾を食らってもピンピンしており、傷口が再生するのを目の前で見せつけられている。化け物とは全く相応しい表現である。
「詳しい解説が必要かな。私の血液には、出血に反応し急速に分化、増殖する特殊な細胞を循環させている。私の体をいくら傷つけても、損傷個所はすぐに塞がれて元通りということだ。このような幹細胞の設計は容易じゃない。私はね…………」
「ああ!?何言ってるか分かんねえんだよ!!」
「フッフッフ、でも、私に敵わないことは分かってるじゃないか。銃を捨てて降参したらどうだい?」
冗長な解説を披露しながら、”先生”はこちらをちらりと見たような気がした。それでようやく彼女の意図に気が付いた。男の注意は彼女に向いているが、ピザの配達員は片手で首根っこを掴まれ震えている。今自由に動けるのは僕だけだ。彼女が銃に撃たれても死なないのは事実らしいが、銃を持った大男を取り押さえる方法を持っているわけではないのかもしれない。彼女が時間を稼いでくれている今、何としてもこの状況を生き延びなければならない。義務感に駆られてか、竦んでいた僕の体は驚くほど素早く動き、男に飛び掛かった。そして、男の持っている銃を後ろから両手で掴み、全力で奪い取った!
──自分ではそのつもりだったのだが、結果は男をほんの少しよろけさせただけで、男の手から銃を引きはがすことは出来なかった。子供になって筋力が落ちていることが頭から抜け落ちていたのだ。男は怒り狂って力のままに僕の手を振り払い、銃口をこちらへ向けた。
「お前も化け物か!?死ね!死ね!死ね!!!」
選択を誤った。生きようと努力はしたが、今度こそこれでおしまいだ。
「メーーーーーン!!!!!」
死を覚悟したその時、いつの間にか男の手から逃れていた配達員が、ピザの入った箱を上段から男の後頭部に勢いよく振り下ろした。男の体は箱の中心を器用に突き破り、2枚のピザに腕を巻き込まれ拘束される形になった。
「はあ!?あっつ、熱い!!」
ピザの配達員はヤクザみたいな前蹴りで男を転ばせると、銃で脅された恨みを晴らすかのように踵で頭を蹴りまくった。
「能アル鷹ハ爪ヲ隠ス!!子犬ノゴトク震エテイルワタシニ一瞬デモ油断シタノガ貴様ノ敗因デース!!!!!」
「キャサリン、あんまり頭を蹴りすぎないでね。こいつには色々聞きたいから」
男は既に泡を吹いて痙攣していた。思わぬ形で拾われた命にホッとすると同時に、とんでもないものを見てしまって僕の体は興奮したままだ。この凶暴なピザ配達員は”先生”と知り合いで、どういうわけか彼女の再生能力に驚く様子を見せていない。だが、こんな超能力じみたオーバーテクノロジーがこの世界の常識とはとても考えられない。
「さて、犬養くん」
「!」
突然本名で呼ばれて驚いた。やはり、彼女は元の世界の僕を知っている。
「察してくれたかもしれないけど、私はここで幹細胞と臓器培養の研究をしているんだ。君にはそれを手伝ってほしい」
「いや、あれは幹細胞ってレベルじゃ…………」
「臓器の生産体制はもう整ってるんだ。あとはこれを必要としている人に送り届けるだけ。もちろん、君の妹にもね」
「えっ、なんでそれを知ってるんですか!?」
この少年の妹が心臓病を患っているというのは僕も母親に聞いて初めて知ったことだ。この人は僕に関することなら本当に何でも知っているのか?
「病院から情報を得て君を追いかけたんだ、そのくらいは聞いてるよ。」
なぜ僕を探していたのか、どのような手段を使ったのか、それらはひとまず置いておくとして。心臓病の妹と、世界の人々に希望を届ける手伝いができるのであれば、なるほどそれは償いになるのかもしれない。
「でも、手伝いって言ったって…………細胞とか詳しくないですし…………」
「そんな難しいことを最初から要求するつもりはないよ。君も見たように、私の研究にはさっきのような邪魔がたびたび入るんだ。彼らの動機は、君にも心当たりがあるだろう。君はそれを撥ね退けるボディーガードになってほしい」
「…………!」
『簡便で低コストな臓器培養を実現する人工幹細胞』、その持ち主を狙う暴漢たち。心当たりはありすぎるほどにある。
「分かりました。…………僕は、あなたの下で罪を償いたい」
「うん、ありがとう。これからよろしくね」
半分は彼女の提案で、半分は自分の意思だ。この世界は、僕の世界からの侵略を受けている。罪のない一般人に憑依して、あまつさえ、βの住人たちが築き上げた技術を盗むために彼らを脅かす人外たちが居る。これ以上、この世界から何も奪わせてはいけない。これは僕に課された義務だ。この世界を守るため、1つの人生を奪った責任を取るために、僕は全ての侵略者を打ち滅ぼす。
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