君と月

Re:over

序章


 体中から血を流している兄を目の当たりにした。家へ帰る途中で兄が呻き声を上げたので、振り返ってみると、兄の体に無数の穴が空いていた。服が体の血で滲んでいる。一寸先は闇だか赤だかわからないが、俺はただ絶望を突きつけられ、兄は力なく倒れた。直後、兄は光の粒となって散っていく。


 この瞬間から兄である「相原 賢人」の存在歴が世界から消えたと理解するのに、そう時間はかからなかった。両親、近所のおばさん、近所の友達、学校の先生……みんなの記憶から兄の記憶がなくなっていたのだ。


 まず、俺は慌てて帰り、兄が消えたことを母親に伝えると、「なんのこと?」と言った。近所の友達と会っても「けんにぃは?」と聞かなくなったし、中学校の先生が兄の話をしなくなった。


 兄は頑張り屋で、自分を犠牲にしてでも他人の幸福を望むような人であった。人望も厚く、倍率の高い高校に行けるだろうと言われていた。


 俺も兄を見習って勉強だけでなく、人のためになることも率先して取り組んでいた。しかし、兄の存在歴がなくなった世界の理不尽さに生きる意味を見失った。


 まだ中学校一年生とはいえ、泣こうに泣けない日々が続いた。食卓に食事が並ぶ度に、兄の分が置かれず、食欲が失せた。そんな生活も数週間続き、慣れてきたら、今度は自分自身が嫌になった。


 兄のいない世界を認めようとしている自分が嫌いだった。兄の部屋だった物置部屋に入っても、兄を感じる術はなく、ただ虚しいだけで、それ以外のものは何もない。


 生きるために頑張るのは、他人のために生きることは無駄なことなのか。


 兄の消失を特に感じてしまう家を飛び出して、夜の公園に一人で佇んでいた。ブランコに座り、その歪で不気味な金属音を響かせる。その動作にも意味はなかった。それでも、今できる世界への抗いなんてこんなものだ。月も雲に隠れて上手く輝けていない。


 遠くにある光るビルを眺める。あそこの屋上から落ちれば、ここからでも見えるだろうか。落ちたら両親は何と思うだろうか。やはり、生きる意味なんてないのだろうか。


 冷たい風が頬を撫でる。ブランコの鎖もひんやりとして鳥肌が立つ。明日起きる意味も、学校へ行く意味も、何もかもわからない。ふとした瞬間に世界が理不尽を押し付けて来たら意味は消失する。絶望が怖くて、逃げたい。しかし、逃げ場なんてこの世界にはない。


 数学の公式が導くわけでも、過去の教訓が生きるわけでも、化学反応で解決するわけでもないのだから、俺には落ちる以外の考えがなかった。


 落ちたいと思っていてもお腹は空く。真っ白なため息が暗闇に溶けた。足元を見つめ、いつ立ち上がろうかと悩んでいた。


 砂を踏みしめる音が聞こえたので顔を上げる。そこには一人の少女がいた。俯き、顔は見えなかった。ただ、涙が街灯の光を反射した。俺の隣のブランコに座り、彼女も金属音を奏で始めた。涙を流している割に唇を噛み締めている様子はない。


「この世界って無慈悲で理不尽で、嫌になっちゃう。ゴミみたいに燃やせたらいいのに」


 少女は言う。俺と同じように世界の理不尽さに辟易しているのだと思った。


「何をしても生きている限り報われないのは、かわりない。俺は文豪でもなんでもないが、一緒にこの世界から逃げる?」


 提案を受け入れてくれるとは思えなかった。なんなら、嫌だと拒否してほしい。そう願う間もなく彼女は答える。


「悪くない話ね。でも、知らない人と心中なんてクソ喰らえ」


「自分から提案しといてなんだけど、俺も嫌だね」


 口の悪さは世界一を狙う勢いである。それ故に俺も彼女に対する態度が鋭くなってしまう。それはそれでいいとして、彼女との会話が楽しくなってきた。


「馬鹿みたい。でも、君のおかげで楽になった。ありがと」


 彼女は立ち上がり、涙を拭いた。少し名残惜しいが、自分自身が必要としていたものを得れた気がする。


 雲のあちらこちらに穴が空いて月の光が零れる。それでも世界は闇に勝つことはできない。


「どうも。暗いし、送っていこうか?」


「ストーカーって言って訴えるよ」


 善意のつもりが軽くあしらわれた。彼女は長い髪を耳にかけ直し、口元を緩める。呼吸を忘れるほど美しい仕草だった。


「じゃあねイケメンくん」


「俺はイケメンくんじゃない。竜人だよ。縁があれば、またよろしくね」


「死ぬ前に会えたらいいね」


 そう言って彼女は手を上げた。僕も手を振ったが、彼女は最後の最後まで振り返ることなく公園を出て行った。


 名前くらい聞いておけばよかったと後悔した。

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