8-2節

 小夜子の案内で訪れたのは、山中にひっそりと佇む古井戸だった。外壁があちこち欠けている上、内部にまで草が蔓延はびこっている。汲みあげるための管や桶は見当たらず、打ち棄てられているのは明らかだが、太陽が届かない奥はまったくの暗闇で、どこか深淵に通じていそうな気配はあった。

 いわく、井戸とは、古来より冥土への道となり得る。小夜子が言うには、唯良乃の魂は完全に冥土に行ったわけではなく、どうにかこちらに戻ろうとしている状態らしい。だが、肉体が完全な死に近づくにつれ、現世とのつながりが断たれていくのだという。いつまで持つかわからず、じかに連れ戻すくらいの力技が必要なのだと。そう、麓丸は冥土に行くつもりだった。

 ともすれば、ニ度と戻ってこられないかもしれない。しかし他に手段がないのもまた事実。麓丸は迷わなかった。唯良乃を井戸にもたれさせ、自身も横に並んだ。

 小夜子が体に手を入れ、引っ張ると、霊魂だけがとぅるんと抜け出た。ちょうどパックからこんにゃくを出すような塩梅あんばいだった。無防備に寝る自分の姿というものを初めて見たが、なんとも不思議な感じがする。

「しかし、こんな芸当ができるなら、実はおまえって最強なんじゃないか」

「ところがどっこい、本人が強く望まないとできないんすよ。それはもう強くね」

 にししと笑う小夜子に、麓丸はつられない。

「……人道的な観点からいって、当然の行為だろう。おれのような聖人だからこそできることだが」

「ちぇー。しょうがないっすね、まあ二人の体はあたしが見とくんで、とっとと行くがいいっす、よ!」

 どんと体当たりされ、麓丸は井戸の中へ真っ逆さまに落ちた。霊体になった自覚がなく、小夜子に触れられた驚きはあったものの、それより一応女子の柔らかさをしていたのがちょっと悔しい。

 地上の光は消えさり、一切が闇に閉ざされていく。周りに壁のある感覚もしなくなってきた。多く見積もっても、とっくに井戸の深さは超えている。ただ奇妙な落下の感覚があるばかりだ。どこまで行っても何も見えない。どこまで行ってもどこにも着かない。

 仕方なく、麓丸は現状こうしている目的を思い浮かべた。といって、目的意識なんてなかった。世話のかかる奴だと思うのは、今に始まったことじゃない。つけ回してほしいわけでもないし、腹の立つことだってしょっちゅうある。何を考えているんだか、と思う。昔からそうだ。変わらない。くだらないことでよく笑っている。しょうもないものを楽しそうに見つめている。それじゃなくたって。何をそんなに、と思う。でもやめない。永遠の謎である。謎ったら謎である。

 ただまあ、だからといって別に……。

 たいした理由もないが、まあ……。

 闇がはじけた。眩しさにうすら目を開くと、荒涼とした大地が映った。草木の一本さえ生えておらず、煉瓦れんが色の岩肌がむき出しになっている。冥土と呼ぶだけあるが、意外と暗くない。太陽はないだろうに、薄雲の奥で灰色の光がにじんでいた。

 地上へ達する手前で減速、停止した。足がないのは妙な感覚だ。膝から下がちぎれた紙切れみたいにひらひらしている。道中に唯良乃はいなかったが、遠くに人影を認めたので浮遊していった。

 声をかける前にぎょっとした。全身が濃い青緑色をしていたのだ。

「見かけない顔だな」

 振り返ったのは、一本角タイプの鬼だった。筋骨隆々、芦屋のヨットハーバーほど濁った色をしていて、接地していない麓丸が見上げるほどの巨体だ。ふだん自宅の餓鬼や、陀羅を見ているため、鬼自体は見慣れているが、ここまで大きいのは初めて見た。

「新入りなもので。とんだ失礼をば」

 からまれても良いことがないと判断し、腰を低くして通り抜けようとしたが、案の定止められた。

「待て。ほう、確かに死にたてのようだな。現世の匂いがする。どれ、今あちらはどうなっている?」

「わざわざ申し上げることはございません。水面下のやり取りはあれど天下泰平。あなたのような御仁には、退屈きわまりないことでしょう。ではこれにて」

「待てというに。我は青緑鬼という。そなたの名を申してみよ」

 なんて安直で語呂が悪い名前なんだと思ったのはさておき、これ以上付き合っていられない。うまい方便を探さなくては。

 しかし、鬼は急に不機嫌になった。

「……今、安直で語呂が悪いと思っただろう」

 どきりとした。妖術の類か、冥土という土地柄のせいなのか知らないが、確かにさておいたはずなのに。さておき引きとは卑怯なり!

 そう啖呵たんかの一つも切れればよかったのだが、金棒を構えて「食うことにした」などと言われては、引き下がって差し上げるしかあるまい。いつも物理攻撃に対して余裕しゃくしゃくな小夜子を見ていても、ここは冥土。現世とは法則が違う可能性が高い。何より先人が明確に食うと仰っている以上、霊体でも食す手段があるというわけで、さしずめあの武器は、一口サイズに砕くための物なのだろう。

「清廉潔白な私を食べてしまえば、あなたはきっとお腹を壊す。それでもいいんですか」となだめてみても、「どういう意味だ!」とさらなる怒りを買う。やはり逃げ出した。

 土煙を上げ、猛然と鬼が追いかけてくる。上に飛べば安全と思いきや、甘かった。軽々と金棒をぶん投げてくるのだ。しかもブーメランのごとく、きちんと手元に戻ってくる。めちゃくちゃだった。

 小夜子を見ている時は気づかなかったが、速く飛ぶにもコツがあるようで、思うように速度が出ない。癪でしかないがとにかく逃げることだ。霊魂のまま死ねば、おそらく存在が無に帰す。そしてそれ以前に、やるべきことがまだある。

 死後の世界では、時間の概念がほとんど意味をなさないので、いつまで追ってくるか知れない。要するに暇なのだ。これが平均的な冥土の日常だとしたら嫌すぎる。時間がないのに暇人に追われることほど嫌なことはない。とはいえ、こちらからの攻撃手段を持っていないため、逃げながら策を講じるしかないのだが、こうも絶え間なく鉄の塊を投げられては思考が遮断される。その汚い体ごとドラム式洗濯機にぶち込んでやりたかった。

 いらいらが頂点に達し、身悶えしていた麓丸の怒りは、しかし突然のうめき声により終わった。振り返れば鬼がくずおれ、戻ってきた金棒が頭に直撃して伸びていた。そして近くには人がいる。人の形をしている。

 呆気にとられて見ていると、刀を腰に下げたその人物がやってきた。

「災難だったな。この辺りは治安がよくない。こっちだ」

 足のある人間だった。むろん、冥土にいるからには死人だろうが、壮年で練達者らしい雰囲気がある。逃げている最中に見かけたのも魑魅魍魎ばかりであり、人間というだけで安堵する。話が通じそうなので、素直についていくことにした。

 野を駆け地を蹴り谷を越え、老齢なはずなのに、身のこなしが只者ではない。礼を述べても「気にしなくていい」とスマート。鼻筋の通った顔立ちは、若年時の色男ぶりを思わせた。

 小高い丘の上に着いた。崩れた骨が集められており、赤い息を吐いている。ゆらめく篝火かがりびの傍らには、忍装束をまとい、あぐらをかく男がいた。こちらも老人だが、うってかわって目つきがよくない。

「なんだそいつは」

 いぶかしげに男が訪ねると、刀の男が説明した。補足として、麓丸は探し人がいることを付け加えた。

 聞いている最中の興味のなさから予想はできていたものの、男は「知らん」と言って、棒で骨をいじくった。

「探したければ勝手に探せ。なんでもかんでも人に頼るな」

「そんな言い方はよさないか」

 刀の男が諌めてくれたが、麓丸は「いえ」と手を伸ばした。

「その通りです。ここにくると決めたのはおれの意志なんだから、行きずりの人に甘えてはいられない。自力でどうにか見つけてみせます」

 ところが麓丸が辞去しようとすると、男が呼び止めた。

「なかなか殊勝な奴だ。お主、名は?」

 あまのじゃくな態度に思うところがないわけではなかったが、一応答えた。

「……飛騨麓丸といいます」

 なぜだか男たちは一瞬目を合わせた。あきらかな驚きの色が見てとれる。

「お主の父、それから祖父と、さかのぼって何人か挙げてくれんか」

 意図がわからない。刀の男までじっと見つめている。

「彦市、長嶺、弥次郎、呉竹くれたけ、義勇……」

「義勇!」

 その名を聞いた途端、男たちは肩を叩き、笑いあった。何がなんだかわからない。

「すまんすまん、こっちの話だ。おい、館に行って訊いてきてくれ」

「ああ、こればかりはな」

 くつくつと笑いながら、刀の男は丘を降りていった。事情は飲み込めないが、助けてくれるようだ。

「向こうの方に領事館があってな、現世からこちらに来た者の管理をしておる。我らはお館様に顔が利くのでな」

「そうですか。すみません、結局お世話になって」

「構わんよ。我らの役目だ」

 首をひねっていると、男はふと麓丸を見やった。

「ところでお主、妙なことになっておるのう」

 指差したのは麓丸の左手だった。今まで人に看破されたことはなかったのに、魂になればそんなところまで透けてくるのだろうか。あらためて言われると、すこし恥ずかしい。

「これは幼少の頃からで。どうにもならないようです」

「ふむ……」

 男は麓丸の手をとった。やはり冥土の住人には触れられるらしい。

「馬鹿にされたりするだろう。つらくないか」

「言わせておけばよいのです。おれは負けません」

「頼もしいな」

 ふっと笑ってから「だがな」と続けた。

「お主の周りにいる者を、どうか忘れないでほしい。いま頑張れているのは、支えてくれる者がいるからだ。忘れるはずがないと思うか。わしもそう思っていた。しかし、邁進まいしんとは時に視野を奪う。意地を張り続ければ、己が見えなくなる。自らを蔑ろにする。それで手に入れたものはうつろだ。わしは死んでから気づいた。遺された者の声は、ずっと近くにあったというのにな……」

 優しくうら寂しい瞳をたたえていた。心のどこかで思い当たる節はある。けれどそれ以上に、なぜか他人の気がしなかった。記憶の断片に血潮がたぎった。

「任せてください」

 麓丸の力強い返事に、男もまた強く握りかえした。それから手を離し、印を結んで再度手をかざした。

「意気込みだけで言辞げんじろうしても、戯言たわごとに過ぎん。お主の力を見せてやれ」

 青白い紋様がいくつか浮かび、ひとつずつ左手に吸い込まれていくと、内側で静かに弾けた。何か湧き上がる感覚がある。最初は与えられたものだと思った。けれど違う。これは、遠い昔に持っていたものだ。とうに失くしたと思っていたものだ。いつしか強がりを言うのに慣れていた。どれだけ望んだ。どれだけ追い求めた。叶わぬ願いと、そうずっと、思っていた。思っていたんだ。

 万感の想いがこみ上げ、目頭が熱くなったが、麓丸はかろうじて耐えた。泣くのはまだ早い。まだ何もやっていない。

 刀の男が戻ってきた。

「待たせたな。どうも、そんな女性は来ていないらしい。行き違いにでもなったんじゃないか」

「え」

 めまいがした。冥土くんだりまで来てその顛末てんまつとはひどい。また力を失いかけたが、無脊椎むせきつい動物のごとき体勢をどうにか直立させ、麓丸は二人に向き直った。

「帰ります……お騒がせしました」

「さすがに同情するが、あまり女を恨むなよ」

 ぽんと肩を叩かれ、送り出された。なんの時間だったんだろう。どっと疲れたが、高高度まで上昇して振り返ると、二人はずっと地上で手を振っていた。

 麓丸は左手を固くにぎった。

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