暗号

6-1節

 東の尾根に柔らかな日が掛かる春暁しゅんぎょう、月桂樹の葉が静やかに揺れた。白刃に散る朝の涼気は、ぶつかり混ざりあっては止む。一定の呼吸によって生み出されるそれらは、傍目はために差異などない。けれどほんのわずか、当人にのみわかる力みがあった。無心にならねばという意識が邪念へ転ずる度、切り裂く気流の手応えとなって現れる。いくら刀を振るおうとも虚空を切るばかりだ。根源に差した一条のかげりは澱みとなり、未だ払底ふっていできずにいた。

「朝っぱらからご苦労なことだ」

 門扉からの声に、思索は中断された。

 昨晩の戦闘後、山を下るとすっかり遅い時間になっていたため、花岡は飛騨家に泊まった。遠慮する彼を麓丸が泊まらせた。そして一夜明け、庭に出た花岡は修練に励んでいたのだった。

「……日課でね。君こそこんな早くにどこへ?」

「バイトだ。新聞配達のな」

 花岡は思わず訊き返した。

「昨日の今日で行ってきたのか?」

「やすやすと穴を開けるわけにはいかん。地区で担当があるから、急に休んだら大変なんだぞ」

 どっちがご苦労なのだろう。そう思うとふいに、驚くほど柄を握りしめていた自分に気付く。

「任務の話もしなきゃならんし、ついでに朝飯も食ってけ。梅之助の料理は絶品だぞ」

「昨日はそれどころじゃなかったからね。しかし君の弟は本当に大丈夫か。あんな目に遭ったばかりじゃないか」

「心配には及ばん。偉大なる兄の背を見て育ったからな」

 軽口に笑うことなく、花岡は刀を鞘に収めた。

 居間に着くと、やがて皿が運ばれてきた。当たり前のように座る唯良乃の他、今日は師匠も一緒だ。

「すみませんな奥さん、わしまで」

「いいんですよ。いつも麓丸がお世話になっています」

 曜子は笑っているが、麓丸は内心気が気でなかった。昨晩家に帰り、無事を確かめたまでは良かったものの、緊急事態が続いたせいで忘れていたことを思い出してしまった。母のあの爆弾発言である。いくら眠っていた時とはいえ、なかったことになるはずもない。

 こっそりと秘蔵の書棚を覗いてみたが、特に触られた形跡もなく、元通りの並びだった。ならばあれは、かまかけだったのか。だとすればまずい。自らブツの存在を認めたことになる。いや、仮にも高校生の息子を持つ身として、それくらいの予想はつくのではなかろうか。だったら気にすることもないのではないか。いや、するわタコ。するに決まってるわオタンコナス。

 己にツッコミを入れながらやきもきする麓丸をおかずに、唯良乃は箸を進める。花岡は二人を見て首をひねる。言う機会を逸していたが、関係性がよくわからない。婚約者の真偽はともかく、あれほどの術者が常につきまとうというのは、尋常でない気がした。

 食後に梅之助が林檎をむいてくれた。その健気な姿に、麓丸は気を取り直す。

「梅之助、昨日は待たせてしまったな」

「いいよそんなの。おれは元気だよ」

 あくまで明るく振る舞う弟に痛み入る。

「師匠も、危ないところをよく来てくださいました」

「うむ。『僥倖』に行きそびれたのは残念じゃが、いずれ機会も訪れよう」

 師は林檎をしゃくりとやりながら続けた。

「して麓丸よ、巻物はどうなった?」

「見てみましょう」

 皿をよけ、卓の真ん中に巻物を広げると、古めかしい墨字の文が記してあった。


 ニコウハニコウニシテ

 天ナラズ空ヨリ出ズル

  悔悟かいごみちヲ渡ルナラ

 奈落ヲ行カバ良カリシヲ


「……暗号ですね」

「そうじゃな。何せ時価三億だったか、となれば容易にはいくまい」

「奈落を行けば良かったのに、とはよほど悔いのある選択をしたのだろうか」と花岡。

「その辺り、書いた本人の心情だけなのか、違う意味が含まれているかも微妙だな。あと天と空の差もよくわからん」

「ニコウとやらも何を指しておるか」

「ニコウ……ううむ」

 腕組みをして唸りはじめた男たちへ、おっとりとしたお声がかかった。お茶を飲んでいた曜子が「はい」と挙手したのだ。

「ニコウっていうのは、二荒山神社ふたらさんじんじゃのことじゃないかしら」

「二荒山神社、ですか。ああ確かに、最初の二文字はそうも読めますが」

「ううん、昔は本当に『ニコウ』って呼ばれていたの。それが『日光』の語源にもなっているのよ」

「そうなんですか! さすが神社の娘」

「待ってくれ」喜ぶ麓丸を、花岡が制止する。

「二荒の二字なら、この辺りには二つあるぞ。日光二荒山神社にっこうふたらさんじんじゃ宇都宮二荒山神社うつのみやふたあらやまじんじゃだ。文字で判断するなら後者も捨て置けない」

「それは日光の方に決まって……るわけでもないか。他の部分がまだ読み解けてない以上、どちらも調べる必要があるな」

 すこし考え、麓丸は横を向いた。

「師匠」

「よかろう。二手に分かれるのだな」

「さすがです。では組み分けですが、まずうちの使用人たちは置いていきます。自宅にまで押し入る奴らの非道さは許しがたくも、こうなった以上、家を守る人員は厚くしておきたい。よって我々三人になりますが」

 そこまで言って、麓丸は疑念の眼差しを送った。敵じゃないと判明したのはいいとして、だったらあの宝物庫での一件は本気だったということになる。胴体を真っ二つにされる危機など、金輪際味わってなるものか。機械というだけであれほど不具合が生じるなら、任務に支障をきたす前にただしておく必要があった。

「おまえ、携帯電話は持ってるのか?」

 離れて行動する場合、通信手段は必携だ。まさか狼煙のろしで伝えるわけもなく、忍であれど持たぬ理由はない。

「失敬だな。それくらいはあるさ」

 その回答に麓丸は胸を撫で下ろしたが、花岡が取り出した物を見て、撫で上げずにはいられなかった。

 まず形状に違和感があった。新型か? と騙されかけたほどだ。やけに小型なのである。手元のスマートフォンと比べてみてもひと回り小さい。しかし液晶部分はさらに小さく、文字にして三行しか入らない。昔のテレビ番組か何かであろうか、ほんのかすかな記憶が呼び覚まされた。

「ムーバじゃねーか!」

 叫ぶ自分の方が現実味のない単語だった。

「携帯電話だろう?」

「いや、まあ、そうだが、おれも実物は初めて見た……」

「なんだ、きみも人のことは言えないじゃないか」

「やかましい。とにかくこれは旧型だから使えないんだ」

 真剣な顔で「なるほど。通りで繋がらないわけだ」と言う花岡に戦慄を覚えた。

「では、こっちなら代わりになるか?」

 今度のはすぐにおかしいとわかった。ボタンがやけに少ない上にタッチパネルがあるわけでもない。本体はさらに小さくなり、見るからにアナログだ。確かに電話もできるしメッセージも送れよう。ただ、そういうことじゃなかった。

「ポケベルじゃねーか!」

「これも駄目なのか? まったく現代社会はどうなってるんだ」

「おまえがどうなってる。なぜコギャル文化を継承した。九十年代の何がおまえをそうさせる」

 必死の形相で詰め寄ったが、花岡は怯まない。

「かくなる上は」

「待て。これ以上何を出す気だ。置き去りにして悪かった。現代社会を代表して謝る。おれの負けだ」

「そうか。きみもやはり僕と大差ないんだな」

「くそ、なんたる屈辱……」

 敗北を認めざるを得なかった。しかしこの場合の敗北とはなんだろうか。自分は間違っていない。なぜ勝ち誇られなければならないのか、麓丸は理解に苦しんだ。

「ん、茶番終わった?」

 朝のニュースを見ていた嵐蔵が言った。その言い草も致し方ない。

「おれとこいつが同じ組です。師匠を一人にするのは申し訳ないですが、戦力の偏りも避けられます」

「わしは構わんよ」

「ありがとうございます。では、おれたちが宇都宮二荒山神社に行き、師匠には」

「それはならん」

 師は厳かに断じた。

「日光へはおまえたちが行け」

「なぜですか。おそらく本命は日光です。敵に場所が割れていないとはいえ、またあの男が現れたら」

「仮に部外者であるわしが宝を見つけ、おまえたちに渡したところで、任務達成と言えるのか?」

「それは……」

「なに、案ずるな。あいつだけはわしが止めてやる。わしはとうに前線を退いた老骨だが、それは奴とて同じこと。次の世代の邪魔だけはさせんよ」

「師匠……」

 二手に分かれれば、すぐに助けは来ない。それに昨日はまともに動けなかった。斑鳩だっている。しのげるか、と自問自答しても答えはない。だが麓丸は腹をくくった。

「わかりました」

「うむ。よくぞ言った」

 三人は互いに頷きあった。

「ところで、あの男は何者なんです?」

「……名は真雁。宮の忍と争い続けた忍じゃよ。わしも戦場で刃を交えたこと数知れず。奴の雷遁は凄まじく、氷が砕かれた光景は今でも覚えておる。結局分かり合えないまま、互いに第一線を退いた。そのはずが、また顔を拝むことになろうとはな」

 遠い寂寥せきりょうを宿した瞳は、すぐに消えた。

「今ごろになってなぜ動きだしたかはわからんが、奴は強い。心してかかれ」

 師の警告に足る覚悟が必要だった。

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