リキと出会うまで(アリアローゼ視点)




今朝、ご飯と一緒にデニーロさんが嬉しい報せを持ってきてくれた。

やっとわたしにも仕えるご主人様が決まったらしい。


お母さんが先に買われてから3年、デニーロさんが持ってきてくれる本で言葉や文字とかの知識を学びながら待っていたけど、6歳になってやっとわたしを買ってくれるご主人様が現れたことがとても嬉しい。


奴隷はご主人様に尽くすことのできる素晴らしい職業だと教わっていたのに誰もわたしを買ってくれないから、わたしはダメな子なのかと思っていたけど、なんと侯爵様がわたしを買ってくれたらしい。


デニーロさんがわたしは物覚えがよくて賢いなんて褒めてくれたけど、お世辞じゃなかったのかも。


やっと今まで教わったことを活かせるんだな。


ここでの生活も楽しかった。

デニーロさんは毎日いろんな本を持ってきてくれたし、檻の前の椅子にいつも座ってるお兄さんたちは1日に2回代わっていたけど、最近はみんなお話し相手になってくれたし、わからない文字や言葉は丁寧に教えてくれた。


デニーロさんがいざという時のためといって、簡単な礼儀作法やバケツじゃないトイレの使い方やお風呂の使い方まで教えてくれたのは、侯爵様のように偉い人が買ってくれると信じていたからなのかな?


夜伽についてはわたしのような子どもは知らない方がご主人様は喜ぶだろうといって何も教えてもらえなかった。どういうことかよくわからなかったけど、それについては誰も教えてくれなかった。


他にはキッチンを使って料理をしたり掃除や洗濯の仕方も教わったり、本当に楽しかった。


それでも、自分が仕えることのできるご主人様に会えるのはそれ以上に幸せだ。


早く会えないかな。


あと3日が待ち遠しいよ。








「着替えは三着用意した。これは私からの贈り物だ。他にもこの部屋内にあるもので欲しいものは持っていってもかまわない。」


デニーロさんが大きめなカバンをわたしの前に置いた。

奴隷のわたしは普段はただの布切れを二着で着まわしているんだけど、デニーロさんが侯爵様のところに行くのだからと新しい服を用意してくれた。今着ているのと他に三着の合計四着も。

昨晩はお風呂も使わせてもらえて凄く体が綺麗になった。これなら侯爵様に不快な思いをさせなくても大丈夫だよね。


「…何から何までありがとうございます。」


わたしは教わった礼儀作法の通りに頭を下げた。


「本当に6歳とは思えない話し方と身のこなしだな。ほとんどを本だけで学習させてしまった弊害か、ここ一年程度の会話では返答が遅いのは直せなかったみたいだが、それを補って余りある出来にはなっているか。これなら最悪の扱い方をされる可能性は低いだろう。」


デニーロさんが呟くようにいった言葉がよくわからなかった。


「いや、気にするな。侯爵様の奴隷になれるなんて名誉なことだから、一生仕えられるように努力を続けなさい。」


「…はい!」


デニーロさんが用意してくれたカバンを持ったら準備は終わりだ。わたしの私物は何もないから、持っていくものなんてないからね。



部屋の外で控えていたお兄さんが入ってきて、デニーロさんになにかをいった。


「そうか。…どうやら侯爵様の使いが到着したみたいだ。行くぞ。」


「…はい。」






初めて見るお部屋の前でデニーロさんが立ち止まり、ノックをしてから入っていった。

わたしは姿勢を意識しながら、その後ろについて入った。


装飾品がいっぱい飾られてる綺麗なお部屋の真ん中にはガラスでできたテーブルがあって、そのテーブルを挟むようにふかふかしていそうなソファーが2つある。その1つのソファーには綺麗なお姉さんが座っていた。

お姉さんが着ているのはメイド服だ。わたしもデニーロさんから1着もらったけど、作りが少し違うのか、それともお姉さんが綺麗だからか、別物のように見える。


「お待たせいたしました。こちらがヤイザウ侯爵様に購入していただきました、アリアローゼという奴隷でございます。」


デニーロさんが綺麗なお姉さんにわたしを紹介した。ここはわたしもちゃんと挨拶しなければいけない場面だ。


「…アリアローゼと申します。よろしくお願いいたします。」


わたしが喋りはじめた瞬間にお姉さんの眉毛がピクリと動いたのが気になったけど、最後までいいきって、お辞儀も習った通りにできた。


お姉さんがニコリと笑った。


よかった。失敗してはいないみたいだ。


でも、お姉さんの笑顔はなんだかお客様を前にしたデニーロさんの笑顔に似ている気がした。


「初めまして。私はマリアンヌと申します。よろしくお願いいたします。」


お姉さんは立ち上がって左手を胸の前に置いて深くお辞儀をした。

わたしが読んだ本では大人の女性はスカートを少し摘んで膝を曲げるのが正しい挨拶って書いてあった気がするけど、お姉さんの動作は見惚れるほど様になっていたから、きっと本が間違っていたか古い情報だったんだろう。


本はいつ誰に書かれたものかわからないから、そういうこともあるよね。


その後デニーロさんとマリアンヌさんが契約の話をして、デニーロさんがマリアンヌさんにわたしを譲渡した。


今は仮契約でマリアンヌさんの奴隷になっているけど、屋敷に帰ったら侯爵様に譲渡してくれるらしい。


楽しみだな。


自然と頰が緩んじゃうのを必死に堪えながら、ここでのやることを終えて、マリアンヌさんについて屋敷に向かった。






侯爵様の屋敷に着いたけど、侯爵様はお仕事で王城に行っているらしい。

だから先にわたしが住む檻に荷物を置いてくるようにいわれた。だけどほとんど荷物がないからすぐに終わっちゃった。


どうしよう。


ただ待っているのはイケない気がする。


…。


そうだ!料理を作ったら喜んでくれるかも!

デニーロさんも最近は美味しいっていってくれてたし。


マリアンヌさんは外にいるから用があったら呼ぶようにいわれたけど、なんて呼べばいいんだろ?


えっと…。


「…マリアンヌさん?」


小さい声で名前を呼んでみたら、すぐにマリアンヌさんが扉の前に現れて驚いた。


「どうしました?」


「…あの…キッチンを使わせてもらうことは出来ますか?」


「なぜですか?」


「…新しいご主人様に料理を作ってあげたいと思いました。」


「………そのくらいならいいでしょう。ついてきてください。」


マリアンヌさんは少し怖い顔でしばらくわたしを見た後に許可してくれて、檻の鍵を開けた後に歩きだした。

わたしは置いていかれないように早足でその後をついていった。








料理をしている間はずっとマリアンヌさんに見られていて緊張したけど、手際がいいって褒められちゃった。


ご飯は料理人の人たちが既に作り始めているといわれたから、簡単に摘めるものがいいかな。

屋敷のキッチンにはたくさんの材料があったから、何を作ろうか迷ったけど、変に拘らずに小麦粉とバターと少し多めの砂糖を使ったクッキーにした。いつ侯爵様が帰ってくるかわからないから、冷めても美味しいものがいいよね。

料理人の人たちの邪魔にならないようにキッチンの隅っこを借りて作ったクッキーが焼き上がったときにちょうど侯爵様が帰ってきたらしい。急いでお皿に盛り付けて、お湯と茶葉と一緒にサービスワゴンに乗せて侯爵様の執務室に持って行った。






マリアンヌさんと一緒に侯爵様の執務室の前まで来たけど、凄く緊張する。


これから一生仕えるご主人様との初対面だ。緊張しないわけがない。


「マリアンヌです。奴隷のアリアローゼを連れてまいりました。」


マリアンヌさんが執務室の扉をノックしてから声をかけた。


「入れ。」


「失礼します。」


「…失礼します。」


侯爵様からの返事を聞いて、マリアンヌさんとわたしは中に入った。


中には執務机で書き物をしていた膨よかな男性が1人だけいた。この方がわたしのご主人様になってくれた侯爵様なのだろう。


わたしたちが入ったことで侯爵様は顔を上げた。


お金持ちを体現したようなとても膨よかな肉体に大人の男性らしい光るほどに整髪料をつけた髪、偉い人だと一目でわかる姿勢。


さすがは侯爵様。


顔にも何かを塗っているのか、光を反射している。油かな?お金持ちの方々の流行だったりするのかな?


侯爵様はマリアンヌさんの胸部を見た後、わたしに視線を移して、爪先から頭頂部までじっくりと見てきた。


わたしみたいな子どもでもマリアンヌさんに向けるのと同じような目で見てくれるのは心が広いからなのだろう。ちゃんと女性として扱ってくれる紳士なお方だ。


でも、なぜか侯爵様は最後に眉毛を寄せてため息をついた。何かイケないことをしてしまったかな?


「珍しく子どもを入荷したと聞いて楽しみにしていたのに子ども過ぎるではないか。これだとあと8年………いや、せめてあと3.4年はやれなさそうだな。」


「旦那様は立派なものをお持ちですからね。」


「男としては自慢なんだがな、相手を選ぶのが悲しいかな。こいつが育つまではマリアンヌに相手をしてもらうしかなさそうだな。」


「喜んで。」


2人が何を話しているのかはわからないけど、マリアンヌさんがさっきと同じ笑顔で話しているからきっと楽しいことなのだろう。でも、わたしが成長するまで出来ないことみたいだ。早く大人になれるように頑張らなきゃな。


「とりあえず奴隷の譲渡だけしておくか。」


「かしこまりました。」


マリアンヌさんがわたしを侯爵様に譲渡してくれた。これで侯爵様がわたしのご主人様だ。嬉しいな。


「ん?なんだか甘い匂いがするが、何か持ってきたのか?」


「はい。紅茶とクッキーをお持ちしました。」


「そうか。ちょうど甘いものが欲しかったところだ。またあのクソ女が余計なことをいったせいで仕事が増えてイライラしてたからな。」


ご主人様がお怒りのようだ。ご主人様ほどの方を怒らせるなんて、その女性はとても性格が悪いんだろうな。


「それではすぐに用意いたします。」


「あぁ頼む。…はぁ〜。思い出したら本当に腹立たしい。いつ召喚されるかわからない勇者の嫁になるくらいしか価値がない女のくせに生意気なことばかりいいやがって…王の前でなければいいくるめてやるというのに。いや、いっそぶん殴ってやりたいわ。」


マリアンヌさんが紅茶を入れている間にご主人様が怒りだした。よっぽど嫌なことをいわれたのかな。


「お待たせいたしました。」


「あぁ。ん?いつもと違う香りだな。ずいぶんと美味そうだが、お前が作ったのか?」


「いえ、アリアローゼが作りました。」


わたしは姿勢を正してから、肯定するようにお辞儀をした。


「…は?」


「…え?」


ご主人様が怒った顔でわたしを睨んできたから、何故かわからず疑問の声が漏れてしまった。


「ふざけるな!」


ご主人様は執務机に置かれたクッキーをお皿ごと払って床に落とした。

お皿は割れてクッキーが散らばった。


なんで怒ったのかわからない。わたしはまだ何もやっていないと思う。もしかしてさっきからいっている性格の悪い女性のせい?


ご主人様が凄く怖い。でも泣いたらダメだ。


「俺に奴隷が作ったものを食べろというのか?」


ご主人様は今度はマリアンヌさんを睨みつけた。


「申し訳ございません。」


「…も、申し訳ございません。」


マリアンヌさんが謝罪をしたので、わたしも深く頭を下げて謝罪をした。


この屋敷では奴隷は料理をしてはいけなかったんだ。わたし以外に奴隷がいないからマリアンヌさんも知らなかったのかな?わたしのせいでマリアンヌさんまで怒られてしまった。ごめんなさい。


「食材を無駄にしおって。…いや、そうだな。おい、アリアローゼといったか?」


「…はい。」


ご主人様はわたしの名前をもう覚えてくれたみたいだ。怖くて泣いちゃいそうだけど、とても嬉しい。


「お前が食え。」


「…え?」


聞き間違いかと思ってまた疑問の声が漏れてしまった。


「なんだ?お前は自分が食えないものを俺に食べさせようとしたのか?」


「…い、いえ。」


「じゃあ食え。これは食べ物を粗末にした罰でもあるから手は使うなよ。」


ご主人様は口だけ笑った。


わたしが落ちたクッキーを食べるだけでご主人様の機嫌が直るのならやるべきだよね。


「…かしこまりました。」


わたしはクッキーが散らばったところまで歩いて膝をつき、絨毯に顔を近づけてクッキーを食べた。


この部屋はとても綺麗に掃除されているようで、埃一つなく、クッキー以外の味はしなかった。落ちたせいで形が崩れているのもあるけれど、ちゃんと美味しい。

さすがに落ちてしまったものはご主人様には食べてもらえないけど、いつかは食べてもらいたいな。それで褒めてもらえたら嬉しいな。


手を使えないから食べるのがちょっと大変だ。もうすぐご飯だからと作るのを少量にしといてよかったな。


クッキーの残りがあと2枚分となったところでご主人様が近づいてきた。


どうしたのかと顔を上げたら、目の前が光った。


床を転がってから遅れて痛みが出てきて、蹴られたのだとわかった。でもなんで蹴られたのかわからなくて、痛みよりも困惑してしまった。


「遅い!食材だけでなく時間まで無駄にする気か!」


頭の中は疑問だらけだったけど、ご主人様が遅いと怒っているなら急がなければと体が勝手に動いた。でも、顔を蹴られたからか少しクラクラとして気持ち悪い。


急いで食べるために手を使おうとしたら、今度はお腹を蹴り上げられた。


「お前は俺の命令を無視する気か!」


「う、…おぇ。」


気持ち悪かったところでお腹を蹴られたら、食べたクッキーを戻してしまった。

すぐに掃除をしなければ。だけどお腹が痛くてすぐには立ち上がれない。


「お前…絨毯を汚しやがって!」


「すぐに掃除いたします。」


「待て!」


ご主人様が怒鳴ってきた。


怖い。


怖くて声が出ない。


わたしが声を出せないことに気づいてくれたのか、マリアンヌさんが即座に返答してくれた。


だけど行動しようとしたマリアンヌさんをご主人様が止めた。


「アリアローゼ。お前が汚したんだ。お前が掃除しろ。それと、食べ物を粗末にするな、手を使うな、急げ、これらの命令に今度は背くなよ。」


「…。」


ご主人様がいいたいことはすぐに理解できた。でも行動は出来なかった。


冗談であってほしい。聞き間違いであってほしい。勘違いであってほしい。


「チッ。マリアンヌ、鞭だ。」


「かしこまりました。」


わたしが動けず床に手足をついたまま無言で戻してしまったクッキーを眺めていたら、ご主人様がマリアンヌさんに何かを指示した。


なにかと思って顔を上げたら、マリアンヌさんが何もないところから黒い持ち手と紫色の長いトゲトゲした太めの縄がくっついているものをご主人様に渡した。


ご主人様がその黒い持ち手を持って、右手を振った。


床に垂れていたトゲトゲしている長い縄部分が宙に浮いたと思ったら一瞬目で追えなくなって、気づいたらまたご主人様の足元に垂れていた。


「っ!」


何をしたんだろうと思った瞬間、背中が焼けるように熱くなった。


痛すぎて動けない。


なんで?わからない。痛い。熱い。痛い。


「俺は急げといったはずだ。痛めつけられないとわからないのか?」


ご主人様は言葉は怒っているのに顔が笑っている。その笑顔はなんだかとても不気味で、背中が熱いのに冷たい何かが流れるような気がした。


もうこんな痛いのは嫌だ。


急がないとまた怒られる。


痛いのは嫌だという思いでわたしは必死に食べた。


食べて、食べて、食べて……それでも遅いからと何度か背中を叩かれた。


もう痛くて動けないと倒れ込んだときには床が綺麗になっていた。


必死だったからあまり覚えていなかったけど、とても気持ち悪いからさっきのは夢ではなかったのだろう。


もう怒らせないように気をつけなくちゃ。







ご主人様に初めて会ってから10日ほど経った。


わたしは廊下とお庭の掃除以外の仕事はさせてもらえなかった。だからその仕事だけはちゃんとやらなきゃと一生懸命やった。やっていたはずだ。

だけど、廊下でご主人様とすれ違うと急に叩かれたり、蹴られたりすることが何度かあった。


何か間違えてしまったのかもしれないけど、わからない。


それでも最初の日ほど痛い思いをすることはなかったからよかった。


ご主人様に会うたびに痛い思いをすることをマリアンヌさんが気にしてくれたのか、ご主人様がお屋敷にいる間は檻にいるようにいわれた。


なんでわたしはご主人様を怒らせてしまうのだろうかとマリアンヌさんに相談したこともあった。


そのときいわれたのは第三王女のローウィンス・アラフミナ様がご主人様を怒らせているのであってわたしのせいではないといわれたけど、立派な大人のご主人様が王族の人と喧嘩なんてするはずがない。

きっとマリアンヌさんはわたしを庇ってくれたのだろうけど、さすがに不敬すぎると思う。


でも、庇ってくれたのは嬉しかったから、このことはわたしとマリアンヌさんだけの秘密にしておこう。





お屋敷で住み始めてから6ヶ月が経った。


わたしはご主人様に仕えているはずなのにほとんどご主人様と会ってすらいない。


叩かれたり蹴られたりするのは嫌だけど、これだとわたしの存在する意味がなくなってしまう。


だけどわたしがいくら悩んでも、決められた仕事以外をやることはマリアンヌさんに禁止されているから、勝手なことは出来ない。


そんなモヤモヤとする気持ちで今日まで生活していたら、荒々しい足音が聞こえてきた。その足音は徐々にこの部屋に近づいてくる。


「あのクソ女が!ふざけやがって!子を成すことしか出来ないカスのくせに調子に乗りやがって!」


扉の前で怒声が聞こえた。


久しぶりに聞いたけどすぐにわかった。これはご主人様の声だ。


久しぶりのご主人様の声が聞けて嬉しいはずなのに身体が震える。


怖い。


一瞬、足音も怒声もなくなって静かになったと思ったら、扉が勢いよく開かれた。


驚きすぎて心臓が爆発するかと思った。


扉から入ってきたのはとても怒っているとすぐにわかるほどの表情をしたご主人様だった。


またわたしは何かをしてしまったのかな?


怖い。


ごめんなさい。


「アリアローゼ。後ろを向け。」


扉から檻まで近づいてきたご主人様がわたしに後ろを向くように命令してきた。


ご主人様の手には前に本の挿絵に書いてあった剣に似たものを持っていた。でも剣にしてはとっても細かった。


もしかしてレイピアかな?それともバスタードソード?

この2つは話には出てきたけれど挿絵はなかったから違いがよくわからない。


ご主人様にいわれたようにわたしは後ろを向いた。


「もっとこっちに来い。」


よくわからなかったけど、ご主人様のそばまで歩いて格子に背中をつけた。


「声を出すなよ。あと、死にたくなければ動くなよ。」


何をするのかなと思ったら、後ろから鉄が擦れるような音が聞こえた。


なんの音だろうと思ったが、すぐに剣を鞘から抜いた音だとわかった。

聞いたのは初めてだけど、音の表現は本に書いてあったからきっと間違っていないはず。


…あれ?なんだろうこれ?


お腹に違和感があったから見てみたら、お腹から何かが生えていた。


あまりに細くて赤いから一瞬わからなかったけど、これは剣だ。でもなんでこんなところに剣が?


その剣は赤い液体を滴らせながら怪しく光っていた。


「急所は外したから死にはしないだろ。」


「っ!」


え?痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い熱い痛い……………………。


「いつかあのクソ女もこうしてやるからな!いや、あいつにはもっと苦しませてやる。死なないように何度も何度も刺してな。」


なんで?どうして?背中とお腹が痛いよ。なんで?刺されたの?ご主人様が?わたしを?なんで?なんで?今日はお庭の掃除と廊下の掃除をしたけど失敗してないよ?なんで?ご飯も残さず食べたよ?どうして?なんで刺されたの?なんでご主人様は怒ってるの?なんで?どうして?


「チッ。本当に声を上げなかったな。つまらん。床は自分で掃除しとけよ。」


カランッ。


頭が真っ白になりそうだったところで、何かが転がる音がして現実に戻された。


痛い…。


あれ?お腹に生えてた剣が短くなっていく。


同時に何かが体から抜けていく感覚がして気持ち悪い。


お腹の剣が完全になくなったら、今度は赤い液体が溢れた。


…。


あっ…ダメだ。これはこぼしちゃダメだ。死んじゃう。これはわたしの血だ。ダメ。どうしよう。何か。塞ぐもの。


視界の隅に映った丸い缶。見覚えがある。傷薬だ。


薬は安くない。でも塗らなきゃ死んじゃう。死にたくない。あとで怒られるかな?でも塗らなきゃ死んじゃう。ダメ。これ以上溢れないで。死にたくない。


気づいたらわたしは傷薬の缶を取って開けていた。

開けるときにお腹に力が入ったのか、どぷりと音を立てて血が溢れた。


急いで服をめくって傷薬を塗るととても染みた。


それでもいっぱい塗った。


勿体無いなんていっていられない。

いっぱいお腹にも背中にも塗った。


血が溢れてこなくなったことに気づいてお腹を見ると、白かった傷薬がピンク色になっていた。血と薬が混じって固まり、ちゃんと止血してくれたみたいだ。


白い傷薬はとても高価なものだったはず。


だから1日もすれば治ると思う。でもいっぱい使っちゃったけど大丈夫かな?


また怒られたら剣で刺されるのかな?


怖いよ…。


ふと誰かがいる気がして振り向くと、檻の前にマリアンヌさんが立っていた。


「大丈夫ですか?」


いつも心配してくれるのはマリアンヌさんだけだ。でも甘えたらダメだ。もう血も止まったのだから、ちゃんと仕事はしなくちゃ。


「…はい。」


「でしたら、こちらを使ってください。」


そういってマリアンヌさんは手に持っていた水の入ったバケツと雑巾をわたしの前に置いた。


わたしは意味がわからなくて首を傾げてしまった。


「旦那様の話を聞いていなかったのですか?」


どうしよう。痛さのあまり聞き逃してしまっていた。

ご主人様が話していたことすら知らない。もしかしてまた怒らせちゃった?嫌だよ。もう痛いのは嫌だ。


聞いてなかったなら考えるんだ。


マリアンヌさんが用意してくれたのは水の入ったバケツと雑巾。


これですることといったら掃除だろう。


どこの?


可能性がありすぎて絞れない。


…。


「…掃除の件ですか?」


「ちゃんと聞いていたようですね。掃除の仕方の指示はなかったので、これを使ってその血を綺麗にしておいてください。」


「…かしこまりました。ありがとうございます。」


わたしが流した血だまりの掃除だったようだ。


なんとか怒られずに済みそうだ。


よかった…。


わたしは少し安堵しながら、汚れた床を綺麗にした。







「アリアローゼ。今日はお喋りしようか。」


そういってヤイザウ侯爵に呼び出されたわたしは檻から出されて、部屋の壁に裸で貼り付けにされている。


全く身動きが取れないほどに両腕と両足と腰を壁を向いた状態できつく固定されている。


最近はこんなことばかりだ。


剣で刺されてからはご主人様の歯止めがきかなくなったのか、ただただわたしを傷つけるのが楽しくなったのか…ここ6ヶ月は痛い思い出しかない。


デニーロさんは奴隷はご主人様に尽くすことができる素晴らしい職業だなんていっていたけど、嘘だ。


わたしはここで学んだ。


奴隷はご主人様の玩具だ。


人間ですらない。


ご主人様を楽しませるためだけに存在する玩具。


このご主人様は人を傷つけるのが好きだった。ただそれだけ。


ご主人様はこの6ヶ月でずいぶん慣れたようで、わたしが傷薬を使わなくても死なず、それでいて最も苦しむように上手く調整している。


だからいつまでも痛みに慣れることができない。


全て諦めてしまいたいと思っても、許容できない痛みのせいで現実逃避もできない。


今日もご主人様は棘のついた鞭でわたしの背中を打ちつける。


ご主人様が楽しそうに説明している。


今日の鞭には特殊な薬が塗ってあるらしい。


傷口に入ると激痛が走るんだってさ。


いわれなくてもわかってる。だって昨日の何倍も痛いから。


なんで剣で刺されたときにわたしは生きようとしたんだろう。死んでしまった方が楽だったのに。





「フーッ、フーッ、フーッ…。」


わたしは必死に声を出すのを我慢した。


泣き叫んだらヤイザウ侯爵が喜んでもっと痛くされるだけだから。


もうこの男を喜ばせたいなんて思わない。


怒りたければ怒ればいい。


殺したければ殺せばいい。


わたしはもう生きたいとは思わない。


「…。」


ヤイザウ侯爵が鞭を打つのをやめた。


今日もなんとか声を上げずに我慢できた。


歯が砕けそうなくらいに噛み締めていたからか、口の中が血の味がする。


「ダメだ。こいつはもう面白くない。…マリアンヌ。」


「はい。」


「こいつを売ってこい。」


「よろしいのですか?当初の予定では…。」


「かまわん。こんな傷だらけのやつなど抱く気にならん。」


「かしこまりました。」


それだけいうとヤイザウ侯爵の足音が離れていき、マリアンヌさんがわたしを拘束している金具を外してくれた。


「奴隷市場に向かいます。準備してください。」


「…はい。」





お屋敷を出て、マリアンヌさんと奴隷市場に向かって歩いている。


ヤイザウ侯爵からは解放されたけれど、わたしが奴隷である限り、どこにいってもたいして扱いは変わらないだろう。


それでも次はもう少しマシなところだと嬉しいなと思ってしまう。


そんなことを考えながら隣のマリアンヌさんを見上げた。


ヤイザウ侯爵は嫌いだが、マリアンヌさんにはとてもお世話になったなと思う。


きっとマリアンヌさんがいなかったらわたしは壊れていただろう。その方が楽になれたのかもしれないけれど、正気でいられたからこそこれからの可能性があることを思えば感謝しかない。


さすがにヤイザウ侯爵よりも酷い主人に出会うことはあまりないと思いたい。


「…マリアンヌさん。今まで本当にありがとうございました。」


小走りで少し前まで行き、振り返って立ち止まり、深く頭を下げた。


頭を上げてあらためてマリアンヌさんを見上げると、顔が歪んでいた。こんな顔は初めて見る。


「何がありがとうだよ。感謝してるならもっと耐えろよ。早々にダメになりやがって。お前が壊れないように話聞いてやったり、クソ野郎に内緒で本を読ませてやったりと優しく接してやったっていうのにたった一年かよ。今までの労力が無駄になったじゃねぇか。これからあのクソ野郎の相手をしなけゃならないと思うと憂鬱だ。本当にどいつもこいつも使えねぇな。」


コノヒトダレ?


わたしが頭を下げてるうちにマリアンヌさんはどこかに行ってしまったのだろうか?


急な変化にわたしの頭が追いつかない。


「あとちょっとで借金返し終わるっていうのによ。せめてあと1年くらいは我慢しろっていうんだよ。しかも変な性癖まで目覚めさせやがって、どうせなら剣で刺されたときに潔く死んどきゃよかったんだよ。」


「…。」





「ごめんな。」


気づいたらわたしはデニーロさんの隣にいた。


マリアンヌさんと奴隷市場に向かっていたはずなのに途中からよく覚えてない。


今デニーロさんになにかをいわれた気がしたけど、デニーロさんはこっちを見ずにわたしの手を引いて歩いている。


デニーロさんは昔から余計なことはほとんど喋らないから、今も2人とも無言だけど、わたしの速度に合わせて歩いてくれている。


この通路は覚えている。


6歳まで住んでた檻に向かう道だ。


急にポロポロと涙が流れ始めた。


空いてる片手で何度も涙を拭っているのに止まってくれない。


なんでだろう。


…デニーロさんの手が温かいからかな。

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