第132話

 今日は家にサルビアと二人きりだ。他の全員が出払うのは珍しく、俺たちは二人の時間をゆっくりと楽しむ事にした。


「よいしょっ――――っと」


 まずはサルビアの家事手伝い。これだけの人数の洗濯物は干すのでさえ一苦労だ。これをほぼ毎日こなしているのだから頭が上がらない。


「どうしたんですか? 兄さんが家事を手伝うだなんて」


「偶にはいいだろ? 村に居た時は結構手伝ってたんだしさ」


「今の兄さんにはお仕事があるじゃないですか」


「昔にもあったさ。忙しさは変わったけどな」


 手際よくシーツ類を干していく。今日は俺が手伝うという事もあり、家中の物を粗方洗ってしまおうという寸法だ。


「暫くは家に居るんですよね?」


「どうだかな……魔王様は待ってくれないからなぁ」


「兄さんなら何とかなりますよ」


「――――」


 そのサルビアの何気ない言葉にほんの少し息が詰まる。


「……だな。そろそろ、さくっと討伐してやるかぁー」


 何とか誤魔化せただろうか。サルビアの顔を密かに伺うが何の反応も示していない。ただの世間話の一環として受け止められたそうだ。


「これで……終わりっ。ほら、そっちも貸せよ。やるから」


「えっ? ああ……えっと……兄さんはお茶の準備でもしておいて下さい。私、喉乾いちゃいました」


「遠慮するなよ、あと少しじゃねぇか。サクッと――――」


 サルビアが手に持っている生乾きの洗濯物を俺の顔に押し当ててくる。程良く香る石鹸の匂いが俺の鼻を擽る。


「あ、あの……? サルビアさん?」


「残ってるの……下着だけですから」


「――――なるほどね」


 ならば言葉は不要だろう。いくら家主とはいえ住人の、しかも女性の下着を好き放題する訳にはいかない。きちんと自粛し、餅は餅屋へ任せるとしよう。


「最高のお茶を淹れてくるよ」


「あはは……お願いします」


 その場からすぐに退散しキッチンへと向かう。


「優雅な一時を……」


「いつも飲んでるじゃないですか」


「いいだろ別に。雰囲気だよ、雰囲気」


 戻ってきたサルビアへといつも愛飲している紅茶を差し出す。


「買い出しとかは大丈夫か?」


「それはレイちゃん達に任せてます。後はお掃除ぐらいですね」


「オーケー。どこからだ?」


「地下からにしませんか? 色々と物が溜ってきてますから」


 俺たちは肩を並べて地下へと向かう。小さなワイン蔵の他には物置として利用している。小さな物から大きな物まで、多種多様な用途の雑貨が転がっている。


「うわっ、何だよコレ。全自動卵割機? 何が全自動だよ、ハンドル回さなきゃ割れねぇじゃねぇか」


「一体誰が貰ってきてるんでしょう……?」


「俺かぁ……? サリィとシエルは無いだろうしな。誰かからの貰い物とか」


 こんな物、一体どんな物好きが作り上げるというのか。少なくとも我が家では使い道が無い為、ゴミ箱へと投げ込んでいく。


 そんな折、雑貨品の影から手の平サイズはあろう蜘蛛が飛び出してくる。


「どっから入ったんだー。まったく……」


 カサカサと逃げ惑う蜘蛛を軽く手掴みで持ち上げる。


「……そういえば、サリィは蜘蛛駄目だったよな?」


「昔の話ですよ。今はもう大丈夫ですよ? 触れはしませんけど」


「蜘蛛を見る度俺に抱き着いてきてな。いやぁ、可愛かった」


「結論はソコなんですね……」


 昔を思い出せばよくもまあここまで成長したものだ。小さい頃は本当に俺から離れない寂しがり屋さんだったっていうのに。


「私と違って兄さんには弱点らしき物が無かったですよね?」


「俺の弱点は今も昔もサリィだけさ」


「ゴキブリでさえ瞬殺ですしね」


「無視かい? それとも照れ隠し? お兄ちゃんの心が砕けちゃうぞー?」


「はいはい、自慢の兄さんですよ」


 少し困り笑いをするサルビア。どこか儚げなその表情は世の男が見れば即座に求婚する程に美しい。


 しかし好きな子には悪戯をしたいというのも男として当たり前の感情なのだろう。手に捕まえている蜘蛛をそっとサルビアの眼前へと晒す。


 ――――飛び込んで来たのは光速だった。今まで受けたどんな攻撃よりも鋭い右ストレートが俺の鳩尾に突き刺さる。


「――――二度とやらないで下さい」


「す――――すいません」




――――


 夕暮れ時の明かりが差し込むリビングの中、俺とサルビアは優雅なティータイムと洒落込んでいた。


「許してくれって……。ほんの出来心だったんだよ……」


「…………」


 先程からだんまりだ。俺の謝罪など聞き入れてくれず、目すら合わせてもらえない。


「宝石でも化粧品でもなんでもやるからさ? なんなら現ナマ直で渡すのもやぶさかじゃねぇぞ?」


「兄さん……最低すぎるので私以外には言わない方がいいですよ?」


 ため息混じりの落胆した声。少し頬を緩ませながらサルビアは悪戯っぽく笑ってみせる。


「もう怒ってないですよ。たまには慌てている兄さんを見たかっただけです」


「ほ、ホントか?」


「はい。ただし条件があります。これが果たせないのなら兄さんを許す事が難しいかもしれませんねぇ」


「現ナマかっ!?」


「本気で怒りますよ?」


 優しき地母神の眼の中に阿修羅のソレが伺えた。テメェふざけるな次はねぇぞと視線だけで訴えられる。


「こっちに来て下さい」


 サルビアの座るソファの方に手招きされ、言われるがままに側で止まる。


「本当に……これでいいのか?」


「はい……ありがとうございます」


 手を引かれサルビアの隣に座る。そこから更に俺の脚の間にちょこんと座るサルビア。


「久し振りじゃないですか。こうやって甘えられるのは」


「そうかもな」


 そのまま彼女を後ろから抱きしめる。サルビアの温かな体温と鼓動を感じ取れる。少し熱くて鼓動が煩いのは年甲斐も無く甘えてしまった照れからなのか。


「覚えてますか? 昔は毎日の様にこうしてもらってましたよね?」


「ああ。起きてる間は俺の側を離れなくてさ。仕事で出掛ける時はいっつも泣いてな」


「今にして思えばかなり成長しましたよね。今ではたまにこうしてもらえるだけでいいんですから」


「完全には離れられない訳だ?」


「そうです。私の人生には兄さんが必要なんですから」


 そんな短い言葉だけで俺の心を幸福感が満ちていく。


 幸せだ。この旭光が愛おしい。終わって欲しくない、まだ皆と共に生きていたい。


 終わって欲しくない。まだやりたい事が沢山あるというのに。


 ――――終わって欲しくない。


 ――――終わってくれ。


「――――、ッ」


 そんな心の中の闇を一瞬で消し去り、見えない振りを続ける。


「いつもありがとな……サルビア」


 目の前の愛しい存在を強く抱き締める。傷付けない様に、それでも精一杯にサルビアという存在を感じられる様に。


「どうしたんですか……?」


「俺も甘えたくなったのかもな……こういう日々の感謝は言える内に言っておこうと思っただけさ」


「何だか不吉ですね」


「ははっ。まっ、そうとも聞こえるよな。それでもやっぱり区切りというか、こんな時でもなきゃ言わないだろ?」


「こんな時って……どんな時ですか」


 呆れた渇き笑いをしながらサルビアは更に俺の胸へと体重を預けてくる。たったそれだけの動作で彼女からの信頼感が痛いほど伝わってくる。


「私も……ありがとうございます。愛していますよ、兄さん」


「ああ。俺の家族として生まれて来てくれてありがとう――――」


 ――――これでお別れだ。


 最後の一言だけ伝えられないまま、優しい時間は過ぎていく。

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