俺のお嬢様は逃亡者!……と、本人がなぜか思い込んでいる。

居孫 鳥

第1話

「ハイヨゥ!ハイヨーゥ!」


 夜更けの暗い道を、俺はひっきりなしに馬に鞭を当て、四輪馬車クーペを飛ばしている。


 御者台に掲げたランタンを頼りに馬の様子を見ると、次の宿場でも馬を変えねばならないのは明らかだ。

 旦那様からは十分すぎるほどの金子を預かっているからそこは問題ないが、乗っていてお嬢様は疲れないのだろうか?


 お嬢様。


 アイエンシー侯爵のご令嬢、レディ・イルシュドラだ。

 この秋で学業を終えられてこれからは花嫁修行をなさる予定だが、今は三年間の学園生活の疲れを癒すため、バカンスに向かっているところだ。


 そう、バカンスのはずなんだよな。


 俺がレイムルブルーに駆け落ちするカップルも真っ青の速度で馬車を飛ばしに飛ばしているのは、お嬢様のご命令だ。

 お嬢様は普段、俺たち使用人にも優しく接してくださり、わがままや無茶などほとんどおっしゃらない。

 だが、今回の旅が始まってから……いや、実はかなり前から、お嬢様の様子はおかしかった。


 そもそも、第一従僕ファーストフットマンとして日々、お嬢様の通学にお供して見てきた範囲では、どうも非常にご心痛の多い学園生活だったようなのだ。

 朝はどんより帰りはハツラツ、休暇明けには地獄の門をくぐるようなお顔でいらっしゃった。


 学園にお供する他の学生付き使用人からの噂では、ご学友との付き合いにはなんら問題はかったようだし、成績も上位で卒業なさった。

 強いて違和感をあげるなら、何故か異様に神経質に男性を避けておられたという話なのだが、それ自体は貴族のご令嬢として慎み深い態度であるといえるので、咎められるようなものではない。

 まあ、そのように完璧なご令嬢として振る舞うことそのものが心身に負担をかけていた可能性はある。


 他に考えられる原因としては、入学前に持ち上がったルーフレン王子との婚約話を辞退なさった件だ。


 面識のほとんどなかった王子との婚約は、旦那様への打診があった段階で、お嬢様の強いご意志で辞退なさることになった。

 公表はされなかったので、その後同級のご学友となった王子との関係にも大きな影響はなかったと聞き及んでいる。

 とはいえ、心優しく繊細なお嬢様のことだ、気まずい思いを味わわれたのかもしれない。


 とにかく、お嬢様にとっては試練であったらしい学園生活がめでたく終了し、あとは良いご結婚相手が決まるまで悠々自適となるはずなのだ。

 バカンス出発前の数日間の沈鬱なご様子からは、とてもそんなふうには見えなかったが。


 はっきり言えば、このバカンス計画そのものも妙なことがたくさんあった。


 今向かっているのは、温泉保養で有名なシャウワという街だ。

 お嬢様のような立場の方がそういった場所に出かけるなら、普通は侍女を始め幾人もの使用人とお衣装の大荷物を満載した大型馬車ランドーを二台か三台は仕立ててゆくものだ。

 また道行きも、こんな風に夜を徹してぶっ飛ばすのではなく、二日か三日かけてゆっくりと向かう。


 だが、最初お嬢様ご自身が立てていた旅行のご計画は、単独で辻馬車を使うという、許容しがたいものだった。


 単独で!


 辻馬車!


 正直、お嬢様が何を言っているのかわからなかった。


 百歩譲って、限界まで身軽にしたお忍び旅行であっても、最低でも侍女と、御者を兼ねた男性使用人が一人ずつ、滞在先には付き添いの婦人シャペロンを手配するものだ。

 俺はお嬢様からシャウワ行きを聞かされた際、もちろんご不自由のないよう万事整えるつもりだった。

 だが、大仰にせず、ひっそりと静かに過ごしたいというご要望には、そこまでお疲れになっているお嬢様に同情を禁じ得ず、なんでも叶えて差し上げよう、と決意した。


 それで打ち明けられた計画が、単独での辻馬車行だというのだから、決意なんか犬に食わせちまえ、と思っても仕方あるまい。


 お嬢様が自分で手配なさったという宿も、率直に言ってロクでもない安宿だった。

 それはすぐさまキャンセルして、新たに郊外に、お嬢様が滞在するのにふさわしい別荘を手配した。

 俺があり得ない速度で馬車を飛ばしているせいで、滞在の準備が全く間に合わない点を除けば、完璧だ。


 もちろん付き添いの婦人も、奥様経由で申し分ない女性を確保した。奥様のご実家の親戚筋にあたる高齢の未亡人で、シャウワでの社交界の人間関係や世知に長けているとの評判だ。

 お嬢様は旅先で結婚相手を見つけるようなお立場ではないので、現地での交友関係は極めて慎重にしなければならない。

 実質的に別荘を取り仕切る立場となる俺と、後続の馬車であとを追っている侍女のマリフレイスと、付き添いのエレンニーツ夫人。この三人で周囲に十分目を光らせることができるはずだ。


「お嬢様、今夜の滞在先に到着しましたよ」

 馬車の到着を見て出てきたらしい、眠そうな目をした宿屋の若者に二部屋用意するよう命じて、お嬢様に声をおかけした。

 お嬢様は当初、御者すら変えながら先を急ぐと主張した。だが臨時雇いの御者なんてものにお嬢様を任せるなんてとんでもないし、かといって本当に徹夜で走らせたら俺が死にます、と訴えたところ、途中で一泊は宿を取ることを了承してくださった。

 お優しい。

 というか少々ちょろいので、今後お嬢様が妙な計画を思いついたら、この手で乗り切ろうと思う。


「ありがとう、降りるわ」

 女性にしてはやや低めの、涼やかで耳に快い声で返答があった。

 馬車の扉を開くと、多少疲れた顔ながら、それでも損なわれることのない美貌の女性が現れた。

 ランプの灯りの下でも輝きのわかる豊かな黒髪に、瞳は明るいところで見れば神秘的な青みがかった灰色だ。薄化粧でも唇は魅惑的に赤く、白い肌はくすみひとつない。

 深い青色の短い上着付きの旅装に包まれているのは、出るところ出て引っ込むところ引っ込んだ、震いつきたくなるようなーーおっと失礼、どこをとっても素晴らしいーーええとそう、健康的で女性らしい(これだ)、肉体である。

 温泉地になど行くまでもなく、俺の目はいつもお嬢様のおかげで保養されている。

「暗いですから足元お気を付けて」

 内心の色々は声にも顔にも出さず、お嬢様の手を取って馬車から降りるのを手伝う。

「フレドリト、あなたも疲れているでしょう。今夜は休めるように部屋をお取りなさい」

 お嬢様が呼ぶと、俺の平凡な名前も神に祝福された土地の名前のように聞こえるぜ。

「お嬢様とマリフレイスで一部屋、あとの男性使用人で一部屋押さえましたから。ああ、後続がやっと着いた」

 侍女が来なくてはお嬢様に休んでいただくこともできないからな。


 俺はお嬢様とマリフレイスに用事がないか確認したあと、隣に取った部屋に入った。

 着いた時間もいい加減遅かったので、俺の他の男性使用人二人は、すでに眠り込んでいる。

 椅子に腰を下ろして耳をすませていると、隣からは物音やかすかな話し声がしばらく続き、やがて静かになった。

 それからしばらくのあいだ根気強く待っていると、隣から再び、ごく小さな物音がし始めた。

 身支度に不慣れな高貴な女性が一人でやっと着替えを整えるくらいの時間がすぎ、隣の扉が静かに開く音がした。

 そしてひそやかな足音が響き、俺のいる部屋の扉の下の隙間から、白い封筒が差し込まれた。

「何やってるんです?」

 俺はドアノブをつかんで待ち構えていたので、扉を引いて開くと、しゃがんだ姿勢から立ち上がろうとしていたお嬢様が、ぎょっとしたお顔で俺を見た。

 素朴というか簡素というかはっきりいうと野暮ったい、古びた外出着に身を包み、傍らにはこれまた古ぼけた、小さな旅行鞄まである。

「どういうことか、教えてくれますよね?」

 にっこり笑って差し上げると、お嬢様は途方に暮れたようなお顔になった。

 

 


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