勝ち猫は負け犬と。 下
勝ちもしないなら負けもしない。
両手はこの躾のなってないガキをおさえるので動けない。
常連客のひとりが奥からタオルを持ってくるのを横目に、もうひとりの常連客が俺の携帯を勝手に操作していた。
常連客というよりタダ食いのやけに世話のかかる後輩だった。高速でなにかを打っているが嫌な予感しかしない。
打ちおわったのか、画面をこっちに向けてくる。ドヤ顔で。
『送信しました』
おいこらなにしやがった。
なんだそのやり遂げた顔は。
送り先は見なくてもわかる。
「あなたは、あやまりたいのかな」
ポタポタと、けして少なくはない水滴が髪を伝って机に落ちる。
とんでもない荒事にあった彼女は、知世はそれでもどこか余裕のある落ち着いた笑みを浮かべていた。
付き合いはけして浅い方ではないが、初めて見る表情だった。
いつもはもっとおとなしく、大人やほかの人間の影に隠れている子だったから。
「あやまらせたいのはそっちでしょ!?」
おっと。
気を抜くとそのまま殴りかねないやけに露出の多い格好の少女を掴み直した。
子供と侮るなかれ。火事場の馬鹿力というのは性別関係なく発揮されるものなのだ。
感情というものは体力と直結している場合がある。
運動バカは情熱的な奴が多い。怒られそうな言い方だが。
ああ、こいつがと聞いていた通りの人物で逆に安心した。
手加減しなくてもいいな。
知世の家からこの店は近い。
きっとあと数分もしないうちに
「私は別に、あなたにあやまって欲しいわけじゃないよ」
知世は、ゆっくりと静かに口を開いた。
「私は私のためにここに来たの。二年前に放り投げたことをきちんと自分で終わらせたくて、あなたを呼んだの。たしかにそれは私のわがままだろうけど、いきなりこんなことをするのはどうかと思う」
その点はあやまってもらったほうがいいよ。
私でなくても怒る人はいるだろうから。
老婦人に渡されたタオルで髪を拭いている知世はこちらに目配せしてくる。
まさかとは思うが離せというのか。
じっと子犬のように見てこられるとこっちが悪いことをしているようだ。
しびしぶだが腕の力を緩める。もしもの時はまた動けるように。
「あなたは、理不尽だね。人の話は聞かないし、聞こうとしない。二年前もね、あなたにはあやまって欲しいわけじゃなくって話をしようと思ってた。けどあなたは逃げたね。話を聞こうともしなかった」
二年前。
知世は学校の人間関係のゴタゴタで転校せざるを得なくなった。
話を聞けば、それはいわゆるサイトの乗っ取りの末に起こった出来事。
幸臣先輩たちは疎かったようだが、ネット上ではたびたび乗っ取りというのが発生する。
騙りともいわれるが、助長すれば同じこと。結果的にはそうなるのだから。
それはブログであったりサイトであったりと様々だが、ネットの悪質な弊害のひとつだ。
顔が見えないということはなりすましが容易なのである。
本人が否定しなければ平然と周囲に嘘をつき通すことができる。
中にはオフ会にも本人と偽って参加をする猛者もいるくらいだ。
バレたとしても向こうから謝ってくるほうが稀で、逃げるか逆ギレするかもしくはサイトを寄こせとまで言ってくる相手もいる。
なにを馬鹿なといわれそうだが、そんなことに振り回されて好きでやっていたはずの本人はそれに嫌気が差してサイトを閉じてしまったりすることも少なくない。
結果として、乗っ取り側の一人勝ちだ。
乗っ取りは、最初はほんの些細なことからはじまるらしい。
これいいな。こういうのいいな。
やれたらな。できるならいいな。
私も同じのしてみたいな。
でも思ったより難しいや。
皆にやってるって言っちゃった。
やってるって言っちゃったけど。
ああそうだ、このサイトは名前と性別しか書いてない。
私がやってるって言ってもバレないよね。バレやしないよね。
なんて独りよがりの思考か。
しかし、人間というのは図太いほうが生きやすいのだ。
現に、目の前の少女と知世では前者の方が器用に世の中を生きていけるだろう。
「ごめんで済むなら警察はいらないよね。その一言で済ますほど私の二年間は軽くも安くもないもの。ただ、同じことは繰り返したくないから。私は同じことがおきないように、なんでそんなことになったのかを聞きたいの。聞きたかったの。ここまではいいかな」
真面目すぎる。真っ当すぎる。
あまりにもまっすぐな言葉というのは剥き出しの凶器になる。
まあそれは意味を理解できればの話だが。
どうも、話が通じる相手とは思えないけどな。
「あなたはなんで私のサイトをあなたのものだと言っていたの?」
「………」
「あなたはなんでそうまでして私のサイトに固執したの?」
「………」
さっきの威勢はどこへやら、黙り込んだ相手にそれでも知世は口を動かした。
「そうまでして、得られるものはなに?」
「……さい」
ああこれはよくない兆候だなとまた力を入れようとする前にするっと抜けられてしまう。
しまったと思った時には知世は胸ぐらを相手に掴まれていた。
「うるさいうるさいうるさい! あんたになにがわかるのよ!」
直後にドアからチリンチリンと鉄の鈴から悲鳴のように打ち鳴らされた音が響く。
振り返れば予想通りの人物が見えた。つい目線を逸らす。
「無事か知世ー!」
なんというタイミングで来たんだ。
そこ、親指立ててガッツポーズするな。
なにいまさら一般客装ってんだ、止めるの手伝え。
「ちょっとお兄さん、お客さんの邪魔になりますって!」
次に飛び込んできたのは見たこともない少年だった。
体格的には幸臣先輩の方が大きいが力では勝っているのか、そのまま背後から掴むと店の外に押し出そうとする。
「だからおまえの兄になったつもりはない!」
「もう呼び方とかどうでもいいじゃないですか!」
「いいわけあるか! 一体お前はなんなんだ!」
「さっき名乗ったじゃないですか!」
まるで犬と猫がじゃれついて遊んでいるかのよう。
なんなんだ。
なにしに来たんだおまえら。
漫才みたいなドア付近のふたりはそのままに、知世は掴まれて軽く浮かんでも、それでもどこか冷静だった。
「わからないよ」
わからないよ、と。
わかるはずがないよ、と。
「あなたの考えていることなんてわからないよ。だから聞いているのにあなたは理不尽だね。相手のことをわかろうともしないでわかったふりをするの? わかっていないのに?」
「うるさいうるさいうるさい!」
「でも私、わかったことがひとつだけあるよ」
きっと私はあなたのことを理解することはできないのだろうということだけは。
「ふざけないでよ! 私のこと馬鹿にしてんでしょ!」
「ふざけてないよ。でもあなたにとってはそうかもね」
どこまでいっても平行線。
交わる場所はないのだと。
勝ちもしないなら負けもしない。
「この…!」
「アウトー」
振り上げた腕を止めたのは、俺ではなく一番座席から遠かったはずのあいつだった。
さりげにそのまま手首をひねって胸ぐらからもう一方の手を離させた。
「ハイハイそこのお嬢さん、いい加減やめるっすよー。ここ喫茶店なんすよ。お食事処に飲むところ。休憩はできても殴り合いはご遠慮願いますよー」
はいはい出てった出てったとくるりと背中を押してそのままドアの前まで連れていく。
ドアの前には、まだあの猫と犬がいた。
そこのふたり。邪魔だからいったん外に出ろ。
「待って、これだけは言わせて」
チリンと、ドアが開きかける。
それを止めた知世は、立ち上がって言った。
「来てくれて、ありがとう。それと、さようなら」
それは、決別の言葉なのだろう。
単純にわかれるということではなく。
それがわかったのかわからなかったのか、キッと睨んだ相手は何も言わずに店を後にした。
直後、誰ともしれないため息が聞こえてきた。
本人はともかく、ほかの客も緊張を強いられていたようだ。
「申し訳ございません、ご迷惑をおかけして」
「大丈夫っすよー」
「おまえにだけは言ってない」
妙な事しやがって。
褒める箇所は最後しかない。
「ごめんなさい咲夜さん、あとお客さんたちも空気悪くしてしまって本当に申し訳なく…」
「大丈夫っすよー咲夜さんああ見えて酔っぱらいのあしらいとかすっごいうまいし客だってお茶がこぼれたわけでもないしー」
「だからおまえが言うな」
なんでおまえが答えるかな。
睨めば、べーっと舌を出した。子供か。
「女の子にどういう状況下でも手を出したり触ったりしたら男性は警察行きになることがあるっすー。私は咲夜さんがそうならないようにそれを未然に防いだじゃないっすか」
「やかましい留年女」
「ひどいっす! 気にしてるのに!」
状況を楽しんでいたのにどの口が言うか。
そういうことばっかしてるから単位落とすんだ。
「
「おひさっすーともちゃん。ぶっちゃけカウンターの中で騒ぎまで寝てたっすー」
寝て起きて出し抜けにあれか。怒るぞ本当に。
しかし呼び出された幸臣先輩と、もうひとりは誰だろうか。
顔は覚える方だし狭いコミュニティだからわかるはずなんだが。
「お兄ちゃん、ついてこないでって言ったよね」
目を凝らして猫の方を観察していると、背後でポツリと知世が言った。
いつもより声が低い。
「いや、これはだな!」
ついてきたのではなく呼び出されたわけで。
あたふたとしている幸臣先輩から小唄が視線を外した。
よし、こいつなにかしたな。
「ついてきたらお兄ちゃんと口きかないからって言ったよね」
許されたのは一ヶ月後だったらしい。
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