ぷちぷち、邂逅。

 今日もあなたとすれ違う五分間。


 九月は旧暦の上ではとっくに秋である。

 が、現代日本においては七月よりも厳しい照りと蒸し暑さで人を苦しめる季節だと私は思う。気を抜いた時にぶり返してくるのだ。

 クーラーの効いた部屋から出てしばらく、ゴトゴトと中を捨てて軽くなったゴミ箱の底を地面に何度か当てながら歩くとあらためてそう実感する。

 それでも夏至は越えてしまっているのでどんどんと昼から夜の時間が増えていくのだろう。

 大きく傾げた夕日は色濃く時間の移り変わりを示していた。


「あめこ、まだ帰ってなかったの?」


 ちょうど夕日の沈む方向からかけられた声に私は立ち止まって振り返る。まぶしい。


「カナちゃん、部活は?」


 制服を着ているということは練習中ではないのだろう。

 目を細めながら見ると、私と同じ制服を着ているはずなのになぜかまったく違うものに見えるほどに着こなした人がそこにはひとり。

 いいなあ。手がすらりと長くて足も細くて、それで出るとこは出てるし引っ込んでるし。


「今日は総会だから部長だけが集まるんだよ。あたしは委員会。部員ヒラはさっさか帰ってると思うけど」


 近づいたカナちゃんが私の横に並ぶと黒い影が階段のようになる。それを横目に私はようやく気づいた。


(ああ、そうか)


 私は縦長のゴミ箱を見やる。

 そんな私からカナちゃんはため息をつきながらゴミ箱をぶんとった。


「あっ」


「まーたあんた、教室掃除おしつけられてバカじゃないの」


「だって、部活があるっていうから…」


 早く行かないと先輩に怒られるから交代してくれないかなあ、と。

 私は別に急いでもいないし帰宅部だったので簡単に「いいよ」と言ってしまった。

 実は、こういうことは私にはよくあることだ。

 女の子というのはズルいなあ、と私は思う。

 人の弱いところを見つけるのがすごい上手い。

 どうしてまず断れないだろうという人間がわかるのだろう。


「あ、でもね、倉田さんとか山根さんたちは残ってくれてね」


「一番面倒なゴミ捨てやらされといてよく言えるね」


「ええと」


 昔は学校内でゴミを燃やしていたようだが、いまは業者に頼んで焼却してもらっている。

 回収されるまで一時的にゴミを置いているのはそんな元焼却炉として使われていた建物だ。

 中学校と高等部の間にあるので、本校舎からとても離れている。もちろん上靴では行けないので外靴に履き替えなければならない。

 さらにいうならば私のクラスは四階にある。荷物用エレベーターはよっぽどのことがなければ使えない。

 春からこちら、中等部からの持ち上がり組は元より私みたいな高校からの編入組も嫌がるゴミ捨ては罰ゲームのような立場にある。


「別に、私、急いでもないから…」


「そんなんだからなめられるんだよ」


 びろん、と私の頬を空いているほうの手でつねりながらカナちゃんは歩きはじめた。片方はゴミ箱を持ったままだ。


「カ、カナひゃん!」


 足の方向は本校舎のほうへと。

 カナちゃんはリュックを背負っているのでもう帰るだけなのだろう。私の荷物は教室に置きっぱなしだ。

 ゴミ箱の中身は空だし、ひとりでも大丈夫だと取り返そうとするのだがなにぶん腕のリーチが違いすぎる。

 悔しい。息を吸うたびに縮めばいいのに。ああでもそうすると私も縮む。それは困る。

 しばらくはそのまま遊ばれる。いつものことだ。

 カナちゃんは優しい。まだ半年ほどしか一緒にいないけど、そうなんだろう。


「さっさと戻して帰るよ」


 ぶっきらぼうな言葉。

 顔は見えないけれど。


「…うへえへへ」


 はじめは、知らない人ばかりでどうしようかと思ったけれど。

 カナちゃんのような人に会えて、よかったと心の底から思う。


「その笑いかたは正直キモイ」


 訂正。カナちゃんひどい。


 私の通う秋桜子しゅうおうし女学院は県下最大の女子校である。

 それは学校の規模としても、人数にしても、という意味でだ。


「すべての子女に分け隔てない教育を」を校訓とした学院のはじまりは明治まで遡る。

 当初は女子の寄宿学校として開校され、少しずつ大きくなっていった。

 女学校、そして女学院と名称を変えていき四年制の専門部を設立。これは後の大学部となる。

 そしてさらに学科、学部を増やして門戸を開いた。

 昭和前期には戦火を避けて、都市部から僻地へと移転。以後そのまま戻らずに居を構えた。

 付属の幼稚舎、初等科、中学校に高等学校。

 さらにその先の短期大学に大学。それらに付随する様々な設備がその広大な土地に集まっている。

 問題があるとすれば、ひとつだけ。


「次に逃すと三十分後…」


 間に合ってよかった。

 無人の駅でダイヤグラムを指でなぞりながらタオルハンカチで額の汗を拭う。

 日の当たったベンチは温かを通り越して火傷しそうなほどである。

 私は座らずに白線の内側で鈍行の電車を待つ。急行はこの駅には止まらない。

 待てば五分ごとにはバスが来るようなところに住んでいた私はこの学校に通うようになって時刻表を見る、読む、所持することの大切さを知った。

 一本逃せば、次は下手をすると一時間後など、ざら。

 近くに住んでいるカナちゃんはこんなものだというけれど、当初は面食らったものである。

 学校に隣接する路線はふたつ。

 ひとつは正面門から一番近いがその前にとても長い坂を歩く路線。

 ひとつは裏門から出てすぐ、喫茶店やファーストフードなどが近くに建っている路線。

 学生がよく利用するのは後者である。そのぶん利用者も多い。道草率も強い。

 私は前者だ。後者は近くのショッピングモールを経由するのでそっちだと複雑な乗り継ぎが発生してしまう。

 それに、そっちに乗ると楽しみも消えてしまうので却下だ。


「あ、きたきた」


 二両編成の電車が陽炎の先にゆらりと姿を現した。

 空いている座席の中でも、私が座るのは目の前で扉の開閉する場所。

 日に焼けた柔くもないベルベットに身を沈めて一時間後に期待して目を閉じた。


 がくん、と電車が停まる衝動で目を覚ます。

 いつもはここまで深く寝ないのだが、連日のテスト対策の勉強で睡眠時間が削られたせいか睡魔に負けてしまったようだ。危ない危ない。

 特有の聞き取りにくいアナウンスが告げる駅名で完全に覚醒した。

 本当に危ない。

 姿勢を正して、私はドアが開くのをいまかいまかと待つ。

 私が降りるのはあと三十分は後の駅なので、本来なら放っておけばいい。

 それこそ目を閉じて夢でも見ていれば。

 この駅は客のために停まる、というよりは運転手の交代のために停まっているようだった。

 なので、この駅に限り五分間ドアが開いたまま待たされる。

 反対の路線にはすでに電車が停まっていた。

 ゆっくりと、ドアが開く。


(わあ、いた!)


 思わず、声をあげようとした口を手で隠す。

 遭遇率は、そこまで高くはない。

 週に何度か見られたらいい、それくらいの頻度。

 ドアだって同じ場所で開くわけではないし。

 今日はとりわけてバッチリだ。運転手さん、グッジョブ。


 ホームをはさんで反対側の電車。ドアの前の席に座るのは同じ年くらいの制服を着た男の子。

 ぴんぴんと跳ねた髪は自前なのだろうか。ああいうファッションなのだろうか。

 女の子と男の子の美的感覚は違うよね、と私は思う。寝かしつけたいなあ、あの髪。

 猫のように、くるくるとよく動くつり目がちではっきりとした瞳はいまは手元へと落ちている。

 男の子の、手元。

 それは電車乗りによくある文庫本やゲーム機ではなく。


(ぷちぷち、だ!)


 今度は本当に口に出すところだった。

 ぷちぷち――正確にいうなら気泡緩衝材。

 薄いビニールに無数の丸いふくらみ。

 見つけたら思わず、ぷち、とつぶしたくなるが本来は運搬時の緩衝材だ。

 わざわざつぶすために購入するすることは稀で、普通の人ならば商品に使われていた梱包材で遊ぶ程度だろう。

 私は、買う。買っている。

 ぷちぷちは大好きだ。趣味だといっていい。

 最近だとぷちぷちつぶし専用に開発された気泡緩衝材がたくさんあるのである。なにも私だけの特異なものではない。ないったらない。

 実際にぷちぷちはストレス発散によいという記録がはっきりと残している。

 外国の落盤事故によって閉じ込められた鉱員へとストレス解消のために贈られたこともあるのだ。

 ぷちぷちは偉大である。

 さらに驚くことなかれ、実はぷちぷちを疑似体験できる玩具やゲームソフトも発売されているのだ。

 カラーも豊富、形も様々。

 私は小さいやつよりも少し大きいくらいのものが好きだ。指からはみ出るくらいのふくらみが。

 シートを片手で持ち、ふくらみのひとつひとつを親指と人差し指ではさんで「ぷちっ」とつぶす。

 ひとつひとつ。これがいいのだ。

 なので、彼がやろうとしたことはあまりにも邪道であった。

 どうもひとつずつにつぶすのに飽きたのか、彼はシートを畳めるだけ畳み――雑巾のように絞ろうとしたのだ。

 あれでは「ぷちっ」ではなく「ぶちっ」という音が鳴るだろう。

 確かに、それはそれで爽快だろう。だろうが私は許せない。

 それはもう「ぷちぷち」ではなく「ぶちぶち」ではないか。

 気づけば私は口元をおおっていた手を外していた。


「ぷちぷちがっ」


 別にそれは、彼を止めようとして放ったものではない。

 いや、止めたいとは思ったが伝えようと放ったものではない。純然たる呟きのつもりだった。

 しかし、結果としてその声は想像以上に大きかったらしい。

 鋭さのある私の声にゆっくりと、本当にゆっくりと彼は手元に落としていた顔を上げた。

 私は正面からまじまじと彼の顔を見たことはない。

 彼はいつもなにかしら手遊びをしていた。それこそ今日のぷちぷちのような。

 毎回手を変え品を変えて暇つぶしを続ける人物を見つけたのは電車に慣れてきた春。

 私はそれがなにかを見るのが好きで、習慣で。でもそれはささやかなもののはずで。

 面と向かって、非難できるような間柄でも人間でもない。

 そもそも彼からすれば私はまったく知らない赤の他人である。

 目を丸くした彼と、私のうろたえる目が合う。


「…………」


「…………」


 互いにしばし、沈黙。


 これからどうしたものか。

 とにかく「意義ありっ」と某ゲームのように言えばいいのだろうか。

 それとも「本日はお日柄もよく」と言えばいいのだろうか。

 もしくは「ごめんなさい、なんでもないんです」と言えばいいのだろうか。

 たぶん、最後が正しい選択だろう。なぜ最後に出てくるんだ。相も変わらず頭の回転が遅い。

 ああ、もう。私はいつもこうだ。いやになる。


(言わなきゃ、よかった)


 口は災いの元、だ。

 知っているのはずなのに、わかっているはずなのに。

 しかし、いつまでも無言でいるわけにはいかない。


「あの」


「あの」


 被った。

 なぜか被った。

 彼は、間違いなく私に話しかけていた。

 表情的に、怒っているわけではなさそうである。いい人そうだ。明らかに爽やかな好青年ならぬ爽やかな好少年だ。

 もう、ここは謝り倒して許してもらおう。


「あ」


 ピーッと、音が私の声をかき消した。

 呆気にとられている私の前で、自動でドアが閉まる。

 彼のほうのドアも閉まる。

 そして動き出す。逆の方向へと。

 いつの間にか、葛藤している間に五分経っていたらしい。


 弁明をする前に。

 弁明をする前に。


「ふおおおお!」


 人がいないことをいいことに。

 私は思いっきり声を上げて顔を伏せた。


 降りるときに気づいたのだが、あの時「確かに他にお客さんは乗っていなかったが運転手さんはいた」のである。


「うわああああ!」


 叫びたい。叫びます。申し訳ありませんでした。

 自室のベッドに寝転がり、枕に顔を押しつける。

 ビーズクッションのうさぎを抱きしめて、足をどたばた。


「…はあ、よし」


 ひとしきり、暴れると熱も冷めてきたので勉強机に向かう。

 パソコンを立ち上げ、ディスプレイにあるアイコンをクリックする。

 時計の針は大きいのも小さいのも天辺を向こうとしていた。今日が終わろうとしている。

 急いで今日一日の出来事を思いつくままに打っていく。ざっと最初から最後まで目を通して、終了。


 最後にエンターを押すと、浮かび上がる文字列。


『公開しますか?』


 私は迷わず『いいえ』にカーソルを向けた。

 次に浮かんだろう『完了しました』の画面を確認せずにパソコンを閉じる。

 これで、私の一日は終えた。日課もこなした。

 あとはもう寝るだけ。

 心のうちは、全部文字にして吐き出した。


(なんでだろう)


 いつもならこれですっきりするはずなのに、なぜか寝つけないでいた。


 朝に乗るものは始発と決めている。

 本当なら時間的には、二本目でも三本目のやつでもいい。

 学校側から乗る電車と違って家から近い駅からならそれなりの本数があった。

 ただ、始発を逃すとそれなりに混んでくる。はじめの一週間で懲りた。

 朝ごはんは学校に着いてからおにぎりを食べるので、実質朝の支度はすぐに済む。

 席も空いているので指定席のようにドア正面の席につく。

 下校時と違い、朝の電車内はそれなりに乗客がいるので呑気に周囲の観察はしていられない。

 なので、朝は漫画本を一冊鞄に潜ませている。

 自慢ではないが私は速読ならぬ遅読だ。文庫本ではなく漫画本を選ぶのはそういう理由でもある。

 さらにいうなら食べるのも遅い。なにをするのも遅い。

 だから人より先回りに動いて合わせるしかない。

 私なりの人生適応術である。


 がくん、と電車が停まる衝動で目を覚ます。いつの間にか意識が飛んでいた。

 なかなか寝つけなかったからか、今朝はどうにも眠い。

 手元の漫画も最初の数ページしか進んでいなかった。

 顔を上げれば、まだまだ。

 学校まであと一時間はかかる。

 乗客も増えてきたなあと視線を泳がせた先。


 固まった。


 文字通り、固まった。

 思考も視線も、固まった。


(よくよく考えればそうだった)


 帰りにニアミスするということ。

 それは行きにもあり得たということ。


 ピーッと、音が鳴りドアが閉まる。


 ホームをはさんで向こう側。

 郊外に行く私とは逆に都市部へと行く電車はこの時間から混んでいる。

 ぷちぷちの彼も座れなかったのか、ドア付近に立って間違いなく。


 間違いなく、私を見ていた。

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