第66話 アーレンビー家への訪問 2

 ソフィアがとこしてから3日が経った。


その間、シンは正に言葉通り“付きっ切りで”看病し続けていた。

 快方に向かうにつれ、ソフィアは何度かシンに「せっかくとった休みなのだから、後はもうシンの好きな事をして過ごして欲しい」と伝えたのだが、彼は相変わらず揺るがぬ笑顔で「これが僕が一番好きな事だから」とのたまい、がんとして彼女の傍から離れようとしなかった。


 そのお陰かどうかは分からないが、当初は思いがけない高熱だったにも関わらず、熱が下がる速度は予想外に速かった。

 現在、熱はほぼ平常に戻っており、いつもであれば大分失われてしまう体力も、寝込んだ期間が少なかったお陰か、それほど損なわれずに済んだのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 その日は朝から暖かな日差しが窓から差し込み、部屋の中は柔らかな光で包まれていた。


 日が昇って少し経った時刻、ソフィアは明日からティラーダ神殿の仕事を再開すべく、神殿に迷惑を掛けた旨の詫びと挨拶へ行くつもりで、久しぶりに生成りのワンピースに着替え、出かける準備をしていた。



 そこへ、階下の酒場に朝食を頼みに行っていたシンが部屋に戻って来た。着替えたソフィアに目を留めて、シンは相好を崩すと口を開いた。


「ソフィア、今日はちょっと、僕に付き合ってもらっても良いかな」


 思いがけない言葉に、ソフィアは思わず「はぁ?!」と素っ頓狂な声を上げてしまった。きょとんとしたシンを見て慌てて咳ばらいをすると、眉間に皺を寄せながら改めて抗議する。


「何を言ってるの、無理に決まってるでしょ? あたし、神殿の仕事をかなり休んでしまったのよ。すごく迷惑を掛けてるはずだわ。まず謝罪に行って、仕事を続けさせてもらえるようお願いしないと」

「ああ、神殿には1週間くらいはお休みするって話してあるから大丈夫」

「んなっ?!」

「あ。あと、宿代の心配はしなくていいよ。どうせ1ヶ月分、まとめて僕の方で払ってあるから」

「1ヶ月!? 聞いてないわよ! 何を勝手に……っ」

「だって、1ヶ月まとめ払いした方が安くなるんだよ。だったら、払える方がまとめて払っておいた方がお得じゃない」


 仰天するソフィアに、シンは平然と返した。一瞬ぽかんとしたソフィアだったが、ハッとして慌てて更に目くじらを立てる。


「そ、そういう問題じゃ……! そもそも、あたし、1ヶ月とか、そんないつまでもルームシェアするつもりはないわよ?!」

「えー、良いじゃない」

「良くない!!」


 やはり変わらずにこにこと微笑むシンに、ソフィアは頭を抱えた。己の与り知らぬ間に、まさかそんな事になっていたとは……――しかし、そんな彼女の苦悩にお構いなしにシンは「それでね、さっきの話だけど」と話題を元に戻した。


「ソフィアが動けるようになったら、ちょっと行きたいところがあって。あ、孤児院ぼくの方もお休みするって伝えて快諾もらえているから安心して」

「安心って……あのね、出来るわけないでしょ! あなたは休んでも良いかもしれないけど、あたしは仕事するわよっ」

「まぁまぁ」


 のんびりと笑って手を振るシンを、ソフィアは眦を上げて睨んでから「冗談じゃないわ!」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。しかし、次のシンの言葉に勢いが弱まる。


「キャロルさんの家に行きたいんだよ」

「……は……え? キャロルさん?」


 想定外の名前がシンの口から出て、思わず間抜けな声で聞き返す。彼は真面目な顔でこくんと頷くと言葉を続けた。


「うん。……ちょっと、色々気になる事があるんだけど、正直、僕の頭では解決の糸口がつかめなくてね。キャロルさんの力を借りられたらと思って」

「……それって、この前からシンが気になってる事?」

「うん」


 ソフィアの視線を真正面から受け止め、シンは迷いなく頷いた。その碧の双眸は強い意志を宿しているように見て取れる。

 彼が色々と抱え込んでいるのはソフィアも分かっていた。確かにキャロルであれば、シンの持つ情報が例えどんな些細なものであったとしても、何かを導き出せるかもしれない。そして、そのを解決へと導いてくれる可能性が高い気がした。


 何より、思い悩むシンなどという“らしくない”姿は、見ていて気持ちの良いものではなかった。いつもは柔らかく……いや、どちらかと言うとに緩んでいた眉間には大小の皺が寄り、明るい緑碧玉の色の瞳が昏く影を落とす……彼のその、苦悩する姿を見るにつけ、ソフィアは胸の中央が強く押さえつけられているような、――咽喉が何だか締まるような、何とも言えない苦い味が口の中にいっぱいに広がるような……経験した事の無い感覚に襲われるのだ。


 それでも、自分がそんな風に思っているのをシンが知れば、彼はまた自分を責めたり、明後日の方向に努力をしかねないので、出来る限り平然とをしてはいたのだが……――隠しきれていたのかどうかは分からない。


 ――真っ直ぐにこちらを見つめたままのシンに「1人で行けば」と言いかけて、ソフィアはそんな言葉に頷くような彼ではない事を、今更ながらに思い出して苦虫を噛み潰した。


 そのまま逡巡してから、ため息と共に承諾の意を伝えたのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 クナートの南の森の木々は常緑樹は少ない。その為、冬の間は葉を落とした枝が寒々しく風になびいていたものだったが、近ごろは新芽がところどころ芽吹いており、春の気配を感じる事が出来た。

 うららかな早春の日差しの中、シンとソフィアは細い森の小道を歩いていた。病み上がりのソフィアを心配してか、シンは何度もソフィアを気にかけ、その端麗な顔だちに疲労の影が無いか確認していた。



 アーレンビー家への道のりを半分ほど過ぎた辺りで、既にソフィアにとって耳にタコの台詞がシンの口から発せられた。


「ソフィア、大丈夫? 辛くない?」

「あのね……もう治ったって言ってるでしょ、何度も」

「そうは言っても、病み上がりなんだから」

「大袈裟なのよ」

「そんな事ないよ。ソフィアに何かあったら、僕、後悔してもし切れないもの」

「……はぁ」

「ん? どうかした?」


 ソフィアが重々しくため息を吐くと、きょとんとした顔でシンは歩みを止めて彼女の顔を覗き込んだ。急にシンの、やや垂れた目がすぐ目の前に現れたため、ソフィアはぎょっとして、それから取り繕う様に語気を強くして文句を口にした。


「ちょっと! 顔が近い」


 むっとした顔のままシンの顔から身を引くと、彼は心外そうに肩を竦めた。


「そう? もう……そろそろ慣れてくれてもいいのに」

「慣れるわけないでしょ! っていうか、慣れたくないわよ!」

「え、どうして?」

「“どうして”って……あのね、あなたは何も考えていないかもしれないでしょうけど、さっきの、顔、距離おかしかったから! 絶対!! 大体あなた、目が悪いわけじゃないでしょ? あそこまで顔を近づける事ないじゃない」

「んー……まぁ、確かに僕、視力は結構良い方だけど」

「じゃあ何でよ?!」

「どうせなら近くでソフィアの顔を見たいから?」

「……そんなに顔を近づけてまじまじ見なくても、体調はもう元通りだわ」


 シンの言葉を、体調を気遣って“顔色を見る為”なのだと受け取ったソフィアがぶつくさと文句を言うと、シンはごく小さな声で「体調を見る為じゃないんだけど」と呟いた。

 聞こえなかったソフィアは、膨れた顔のまま話題転換とばかりに、今まで聞きたかった事をつい口にしてしまった。


「そもそも、キャロルさんに何を確認したいの? ……まだ言えないの?」

「んー……うーん、そういうんじゃないけど、何というか……僕自身がどう話したらいいかすら分からなくて。キャロルさんに話すときにソフィアも隣で聞いててくれたら、とは思うんだけど」


 微苦笑しながら頬を掻き、シンは歯切れ悪く言った。彼が言いたい事は皆目見当がつかないが、それでも、少なくともソフィアにわざと話さないわけでは無い、という事は分かった。

 そうとなると、彼を責める訳にも行かず、ソフィアは不貞腐れた様に「そう」とだけ口にすると、歩くのを再開したのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 そのまま、他愛のない事を話しながら進む事1時間。アーレンビー家に到着した。


 着いてから、今更ながらに何か手土産でも持ってくるべきだった、とソフィアは顔を顰めて後悔した。その様子を横目で見て微笑んでから、シンはドアをノックした。


「はーい!」


 明るい声が直ぐに応じ、次いで軽やかな足音が近付いてくるのが分かった。ほどなくして、ドアが勢いよく開き、栗毛の柔らかな髪を後頭部に編み込んでまとめ、肩に大きな茶色い梟を乗せた格好の女性がひょこっと顔を出した。そして、尋ねてきた2人を認めるとパッと破顔した。


「おっ なんだ、シンとソフィアじゃないか! 久しぶり!」

「こ、んにち……は」

「こんにちは、突然ごめんね。キャロルさんって今ご在宅かな」

「へ? キャロル?」


 ぎこちなく挨拶するソフィアを家の中へ招きつつ、彼女は長い睫毛に縁どられた空色の大きな瞳を丸くした。それから、やや神妙な顔をしてシンの双眸をじっと見つめた。


「んー……急ぎ?」

「あ、お仕事中なら改めるよ。急に訪ねてしまったから」


 慌てた様にシンが応えると、彼女――アレクは「仕事っつーか」と口元に細い指を当てて小首を傾げた。


「石化中?」

「え」


 ――以前も説明した通り、キャロルは己の思考の中に入り込むと、どんどん深く沈んで行き、そうなると誰が呼んでも、大きな音を出しても、揺さぶっても、彼の気が済むまでは戻ってこない。その状態を、アレクは「キャロルの石像」――つまり、石化中と呼ぶのだ。


「仕事以外でも、最近ずっとなんか別口で調べものしてるみたいでさ。な?」


 肩に乗せているふくろうに相槌を求めると、彼(?)は律儀に頷いた。


「少し経てば仕事に戻る為に切り上げて、お茶飲みに来ると思うから、それまで待てる? 時間とか」

「それは……出来たらお願いしたいけど、良いのかい?」

「良いに決まってんじゃん! ホラ、シンも中に入った入った……――あっ」


 シンを家の中に招こうと彼の手を引っ張ったアレクだったが、丁度間が悪くシンが遠慮しようと身を引いたタイミングにかぶってしまった。バランスを崩したアレクは、そのまま家の外の段差の方へ身体が傾き、彼女の肩に留まっていたルーフォスが音も無く飛び立つ。瞬時に察したシンが更に慌ててその手を引っ張った為、何とか家の外へ転がり落ちるのは防ぐ事が出来たが、勢い余ってアレクはそのまま床にぺたんと尻餅をついた。

 ――と、次の瞬間、家の奥から物が倒れる音や重い書物が床に落ちる音が、そして乱暴にドアが開いた音がした。何が起こったか分からず固まっていたソフィアは、その大きな音に反射的に竦み上がり、シンも吃驚びっくりとして思わず音のした方向をさぐった。

 その音の発生原因は、血相を変えて家の奥から走って来ると、アレクの傍までそのまますっ飛んでいき、ペタペタと身体を触って無事を確かめ始めた。


「サンディ! 怪我は!?」

「おい、ちょっ」

「痛みは? おかしなところなどありませんね?」

「いや、だいjy」

「自覚症状が無いと困りますね、ルーフォス、施療院に行ってセラフィア女史を……」

「コラァ!!!」


 ゲシッ とアレクのチョップが取り乱した様子のキャロルの後頭部を直撃した。


「大丈夫だっつってんだろ! この過保護亭主!!」

「いや、ですがサンディ、」

「来客だよ! 来客! ったく、ホラ見ろ! ソフィアもシンも、固まっちまってるだろ?!」


 ホラ! とアレクが示す先を見て、キャロルは視線を動かし、2人に目を留めると微笑した。


「ああ、失礼。ご挨拶が遅れました。ようこそお出で下さいました。今少し取り込んでおりまして」

「あ、それは僕が……申し訳ない」

「いや、シンは別に悪く無いよ。タイミングの問題だし」


 謝ろうとするシンに軽く手を振って制し、起き上がろうとするアレクに、キャロルは流れる様に手を貸して、立ち上がった彼女の腰に手を回して寄り添い、念を押す様に確認する。


「本当にどこも問題無いんですね?」

「くどい!」

「くどくもなりますよ。貴女の身体は、もう貴女一人のものではないんですからね」

「えっ」


 キャロルの言葉に、思わず反射的にシンは驚きの声を上げてしまい、慌てて口を片手で覆う――が、勿論既に遅い。アレクは「ほら見ろ」と言わんばかりに呆れを含んだ顔でキャロルをジロリと見た後、シンへ、そしてソフィアへと視線を移して肩を竦めて笑った。


「いやー、悪いね。来たばっかりなのに、騒がしくって」

「あ、うん、いや、あの、もしかして」


 口を片手で覆ったまま、シンは目を真ん丸にして呆然と言葉を切った。対して傍らのソフィアは、血相を変えていたキャロルという非常に珍しい――というか、初めて見る姿と、シンの狼狽しているような困惑しているような姿の意味が分からず、きょとんとしている。そんなソフィアを見てアレクは破顔一笑すると、シンの方へ顔を向けアッサリと頷いた。


「うん、そうだよ」

「!! おめでとう!」

「あはは、ありがと! まさか玄関先で報告する事になるとは思わなかったけどな。ったく、こいつ、分かってから過保護に輪が掛かっちゃってさ」

「そりゃあ……当然だと思うよ?」

「そうだ、シンもだった」


 ニヤリと笑って返すアレクに、シンは先ほど事故とはいえ転ばせてしまいかねなかった事を思い出し、青くなって慌てて頭を下げた。


「さっき、ごめんね。本当に大丈夫だった?」

「尻餅つく瞬間、シンが手を引いてくれただろ? だから、実際はゆっくり床に尻から着地した様なもんで、痛くもなんともなかったよ。気にすんな!」


 笑いながらアレクはシンの二の腕をバシバシと叩く。彼女の元気な姿にほっとして、シンは微笑んだ。そのやりとりを柔らかく目を細めて見守っていたキャロルは、会話の切れ目を見極めると3人へ声を掛けた。


「春近いとはいえ、まだ冷えます。――特にサンディ、身体を冷やすのは良くありません。中へ入って話しをしましょう」


 アレクの腰に手を回したままキャロルが先導し、4人は居間へと続く廊下を歩き始めた。未だに会話について行けていないソフィアは、歩きながら頭の上に疑問符を浮かべて小首を傾げた。すると、隣を歩いていたシンがクスリと笑ってソフィアにそっと耳打ちした。


「アレクのお腹に、キャロルさんとの子どもが出来たんだよ」

「? え?」

「子ども。赤ちゃんだよ」

「……え?!」


 青天の霹靂の事実に、ソフィアは目を瞠ったまま思わず大きな声を上げてしまった。驚いた様に前を歩くアレクが振り返る。――キャロルの方は微笑んだまま悠然としていたが。


「どした?」

「あ、え、あの……あの、あ、あかちゃ……」

「ああ、うん。さっき……あ、そっか。はっきりとは言ってなかったもんな」


 ははは、と笑いながらアレクは頷いた。


「そだよ。まだちっちゃいけどね、ここに」


 言いながら、己の腹を両手で大事そうに包み込む。傍らに寄り添うキャロルも見るからに幸福そうに微笑んでいる。


「……あ、え、ええと、あ、あたし、あのっ で、出直すわっ」

「ん? なんで?」

「どうしたの?」


 おろおろとするソフィアに、不思議そうにアレクとシンが目を丸くする。キャロルもほんの僅かに小首を傾げている。3人の視線を浴びて、ソフィアは盛大に「しくじった」という表情で情けない声を上げた。


「だ、だって……っ その、て、手土産とかっ あたし何も持ってきてないっ」

「ぶっ」

「そこ?!」


 アレクが噴出し、シンが思わず突っ込んで、2人同時に笑い出した。


「な、なんで笑うのよっ」

「ご、ごめんごめん、ソフィアが可愛くてっ ははははは」

「んなっ」

「サンディ、ホラ、そんなに笑いすぎない……ふふ」

「お前だって笑ってるじゃねーか!」

「いえ、これは……つい、ふふっ……ソフィアさん、今日はお気持ちだけ受け取りますので、またいずれ」


 クスクスと笑いながらアレクに答えてから、キャロルはソフィアに視線を向けて微笑んだ。それから、ほんの僅かに笑みを収めてシンの方へと視線を動かす。


「見た所、何か私にご用があっていらしたご様子。まずはそちらをお伺いしましょう」

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