第64話 手掛かり

 ――その日は、朝から強い風が吹いていた。



 元々クナートは港町だけあって、通常の町よりも度々強い風が吹く。しかし、この日は格別だった。ソフィアなど、油断したら飛ばされるのではないか、と本気で思う程だ。


 ティラーダ神殿へ向かう途中、シンがこの風について、この時期になると必ずといって良いほど吹く、特別強い風であるという事を教えてくれた。

 それは春風ヒュッリテと呼ばれ、“豊穣神エルテナの息吹”とも言われているそうだ。



(“息吹”と呼ぶには、強すぎだと思う)


 ティラーダ神殿の中に入り、吹きつけられた風でぼさぼさになった髪を両手で何とか直しながら、心の中で文句を漏らした。冷えた風を吸い込んだせいか、咽喉がざらつく。振り払おうと小さく咳ばらいをしてから、ソフィアは受付へと向かった。



「おはようございます、ソフィアさん」


 受付に立っていた赤茶色のセミロングをしたティラーダ神官の女性が、微笑みながら会釈してくる。挨拶を返すと、今日の仕事の説明を受けた。彼女が言うには、用意していた仕事は随分片付いたため、後はこまごまとした蔵書整理や、希望があれば神官の手伝いの仕事もあるそうだ。どれでも構わないという事だった為、蔵書整理の仕事をさせてもらう事にした。――しばらく通った神殿とはいえ、自分自身のコミュニケーション能力に自信のないソフィアは、出来るだけ人と関わらない仕事の方がありがたい。

 女性から仕事のある場所を教えてもらうと、ソフィアは早速書庫へと向かった。



 ティラーダ神殿には建物中央に位置する吹き抜けの大書庫の他に、そこから放射線を描くように廊下があり、それぞれの分野の書庫が連なっている。ソフィアのあてががわれた書庫もその一つだ。

 扉を開けると、薄暗い書庫の中は、扉の両脇と正面の壁に、書物がこれでもかと詰め込まれた書棚がそびえ立っていた。書棚の高さはソフィアの背丈の倍ほどはあるのではなかろうか。高い位置の段には手が届かない。だが、視線を動かすと、書棚と書棚の間に梯子が立てかけてあるのが見えた。あれを使えば問題ない。

 ソフィアは自然と小さく一つ頷くと、腕まくりをして蔵書のチェックを開始した。



 いつの日か、森に住む彼女の自称“師匠”のキャロルが感心した様に、ソフィアは整理整頓が得意だった。物理的にはもちろん、情報に対しても、だ。誰に教わった訳でも無く、まず現状把握、次に大きくカテゴリに分け、更に細分化……と、てきぱきと見極め、整理を進めていく。ソフィアは元から空腹を感じる事が無い。その為、高い集中力を維持したまま夕方まで書庫にこもり、作業を行い続けた。


 ――その結果、



「えっ もう終わられたんですか?」


 日が傾いた頃、帰り支度を終えて受付に仕事の報告をしたところ、受付けの女性に大層驚かれた。彼女は朝、ソフィアに仕事を説明した女性だった。その為、どのような仕事量なのか、どういった内容なのか、十分把握していた。だからこそ、思わず驚きの声を上げてしまったのだ。

 しかし、ソフィアの方は驚かれる理由が分からないため、困惑気味に眉を寄せて尋ねた。


「……あの……駄目、でしたか?」

「え?」


 ソフィアの言葉が予想外だったのか、女性は僅かに瞠目する。それから表情を和らげると「とんでもない」と優しく声を掛けた。


「通常ですと2日は掛かる量だったので、驚いてしまったんです。随分頑張られたんですね。ですが、無理は禁物ですよ」


 言いながら、女性は給金をソフィアに手渡した。礼を述べて受け取ると、ソフィアは神殿を後にした。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ――さて、時刻はこの日の昼間に巻き戻る。



 孤児院での仕事を早めに終わらせたシンは、その足で東区にあるオーディアール家の屋敷に向かった。東区は通称“貴族区”とも呼ばれ、豪奢な家屋と美しい植栽や噴水のある庭を持つ貴族の邸宅が立ち並んでいる。真っ白な化粧しっくい仕上げの壁に、青い屋根瓦が清楚な印象を与えるオーディアール家の屋敷は、その中の一つだ。

 質素だが美しい曲線と細かな装飾の施された門を抜けると、両側に幾種類もの薔薇の植え込みが並ぶアプローチを抜け、重厚で艶のある木製の扉の前にたどり着く。

 ノッカーを鳴らし、扉の前で声を掛けると、柔和な印象の初老の男性が出迎えてくれた。彼に用向きを伝え、扉の前で待っていると、数分もしない内に屋敷の奥からシアンが足早にやって来た。


「ども! 待たせてすんません!」

「こんにちは、シアン」

「どーぞ、入って下さい」

「ああ、いや。すぐにお暇するから」

「あ、そっか。“お迎え”がありますもんね?」


 シンをエントランスホールへ招き入れ、玄関の扉を閉めるとシアンはシンを見てニヤニヤと意味深な笑みを浮かべた。それに対しては微笑みを返しただけで、シンは別の事を口にした。


「“お願い”していた件、どうだった?」

「えーっと……どれの事を言ってます?」


 心当たりが沢山あるのか、シアンは頬を掻きながら尋ねた。さて、どこからどこまで覚えているのやら、と内心で苦笑いをしつつも、シンは口を開いた。


「ネアちゃんとは会った?」

「ああ、もちろん! 会いましたよ!」

「話しは聞けた?」

「? 話し? あー……別に最近、大きな依頼請けたりはしてなかったみたいですよ?」


 じわり、と嫌な予感が腹の底から湧いてくるのを感じる。


 だが、表面上は顔色一つ変えずに、シンは「そっか」と頷いた。それから微笑んで小首を傾げる。


「そういえば、シアンが普段使っている上着はある?」

「は? 上着っすか?」

「うん」

「はぁ、ありますけど……」

「今、ここに持ってきてもらっても良いかな」

「??? りょうかいっす」


 シンの言わんとする事が全く分からず、疑問符を頭の上にいくつも飛ばしながらも、シアンは身を翻して自室へ駆けていき、すぐに黒い上着を持って戻って来た。


「冬物の上着ってこれしか無いんで、これですかね?」

「ちょっと貸してもらっても良いかな」

「へ? ……いや、構いませんけど……」


 目を点にしたまま、シアンはやはりシンの意図を掴めぬまま、言われるがままに上着を手渡す。受け取ったシンは上着の内ポケットを検め、すぐに小さく声を上げる。


「……あった」

「え?」


 上着の左胸の内ポケットに、小さく折りたたまれた羊皮紙が押し込まれていた。それを目にしたシアンは、目を見開いた。


「へ? なんっすか、それ……ハッ まさかシュウカが?! ちょ、ちょっとシンさん、俺に先に見せて下さい!!」


 あたふたとするシアンを尻目に、シンはその羊皮紙をさっと開いて目を通した。



 ――――“同じ”



 羊皮紙にはその一言だけ走り書きがされていた。



 僅かに眉を寄せ、シンは羊皮紙の裏側も確認するが、書かれているのはやはりその一言だけの様だ。何故自分の上着にメモが入っているのか、そこに何が書かれているのか、ソワソワとしているシアンにシンは羊皮紙を差し出した。

 受け取ってそれに目を通したシアンは、拍子抜けした様に「何だこりゃ」と目を丸くした。


「誰かの悪戯っすかね」

「この筆跡、心当たりある?」

「え? いや、こんな走り書きじゃ……それに、俺の上着にこんな愉快文を潜ませるヤツの心当たりなんて…………あるな。シュウカか? いや、アリスか? いやいや、やっぱシュウカが両想いになる様におまじない、とか言って呪いまがいのもんを始めたのか?」


 頭を抱えるシアンに、シンは静かに説明した。


「シアン、この前、孤児院に僕に会いに来てくれた時の事、覚えてる?」

「そりゃ、当然! アレっすよね? 俺が度忘れした……」


 明るく答えかけて、徐々にシアンの表情が強張った。


「……あれ? ……え? いや、まてよ? って、え? ええ? 嘘だろ? まじで??」


 狼狽し、ぶつぶつと何やら呟きながら、シアンは手元の羊皮紙をまじまじと食い入るように改めて見つめた。



「――――これ、俺の字だ」


 頬を引き攣らせたまま、シアンは顔を上げてシンを見た。


「そっか」


 さして驚いた風でも無く、シンは静かに頷いた。それから窺うようにじっとシアンの群青色の瞳を見据えた。



「どこまで覚えてる?」



 その言葉に、シアンはごくりと喉を鳴らした。シアンの脳内で警鐘がわんわんと鳴り響いている。得体のしれない恐怖が己の足元から這い上がってくる様に感じる。

 だが、身震いする事は彼の矜持きょうじが許さなかった。歯を食いしばったまま、鼻から大きく息を吸い込む。しばし息を止めてから、口から大きな息の塊を吐き出した。



「この前、シンさんと会ったのは覚えてます。孤児院で」

「うん」

「その時……シンさんが言った事も」


 ネアに、シンがシアンに確認した内容と同じ様に、確認する様に。――そして、


「ネアさんと会話する時は、さり気なく羊皮紙を手に持つ事。それと、聞いた答えはすぐにメモを取る様に、って指示も」

「うん」


 チラリとシアンの握りしめる羊皮紙に目をやってから、シンは小さく頷いた。


「んで、その翌日、ネアさんと会ったのは覚えてます」

「場所ってどこかな」

春告鳥フォルタナの翼亭っすよ。どこから捜すかな~って迷って、最初に行ったんで……最近、冒険者の仕事、探しにも行けてなかったから、丁度いいと思って」

「そっか」

「んで、行ってみたら丁度ネアさんがいて」

「他にお客さんはいた?」

「あー、いたと思いますよ」


 渋い顔をしたまま、シアンは手にしている羊皮紙に改めて目を向けた。


「こっからはあんま……記憶が曖昧なんですけどね。ネアさんとは会って……そうだ、途中でシュウカが出て来て、俺は慌てて聞いた内容をメモして上着のポケットに突っ込んで、」

「なるほど。それで走り書きなのかな」

「多分? んで、シュウカに絡まれるのも御免だったんで、さっさと店を出て……」

「シュウカちゃんはシアンを追ってきたの?」

「あ、いや? 酒場で他のヤツが話しかけてくれたんで、俺はその隙に」

「“他の人”?」

「あ、ホラ、この前の面白い美形妖精エルフ!」

「ああ、レグルスさん?」

「そうそう! その人もあの宿に泊まってるみたいで。そんで、シュウカに話しかけて、俺に目配せしてくれたから、助かったって訳です」


 そしてそのまま、全力疾走でオーディアール家まで戻って来たのだという。



 シアンの話しを聞き終えてから、シンは口元に手を充てて思考を巡らせた。


 今回も、どうやらシアンの記憶には一部抜けがある。――肝心の、ネアから聞いた内容だ。だが、その場でメモを取る様に頼んでいた事で、今回は手掛かりがある。“同じ”と書かれた羊皮紙だ。

 思案していると、躊躇いがちに名を呼ばれた。


「シンさん」

「ん?」


 顔を上げると、眉間に皺を寄せ、苦虫をかみつぶしたような顔をしたシアンが、手元の羊皮紙に目線を向けたまま躊躇いがちに口を開いた。


「なんか……気味悪いんすけど、なんなんすかね、これ……」


 言いながら、彼はくしゃりと手にした羊皮紙を握りしめ、シンに視線を向ける。


「シンさん、なんか知ってるんすか?」


 そう言ったシアンの群青色の双眸は、困惑の色と、それ以上に、シンが何かを知っているのであれば、何が何でも聞いてやる、という確固たる意志が滲んでいる。

 真正面からその視線を受け止めると、シンは穏やかな声で答えた。


「まだ僕にも分からない。……でも、ネアちゃんと会ったシアンは、ネアちゃんの話しを聞いて自分と“同じ”だ、と思ったんだろうね」

「んなこた、俺だってわかりますけどっ けど、こんな事ってあんですかね?! ありえます?」


 一つ大きく頭を振ってから、シアンは声を荒げないまでも、語尾を強めた。それから、ガシガシと頭を掻いて続ける。


「シンさんに言っても仕方ないって事は分かりますけど、なんっつーか……なんなんすかね。俺の記憶なのに、なんも覚えてない部分があるとか、……ネアさんまで」


 はぁ、と大きく息を吐きだしてから、ぶんぶんと首を横に振る。


「ありえないっすよ。こんなん、聞いた事ないし。――ムチャクチャ気分悪ぃっす」


 彼にしては珍しい、弱音にも似たネガティブな言葉だった。それほどショックが大きいのだろう。シンは笑みを収めてシアンの肩に手を置いた。


「気にしない方が良い、って言われても気になると思うけど。……僕の方で、ちょっと調べてみるから、シアンはなるべく普段通りにしてて」

「いや……無理ですって」

「状況が分かったら、シアンにも説明するし、多分協力もしてもらうと思うよ」


 ぽん、と軽く叩いてから、シンは彼の肩から手を離した。それから、一段と声を低くして一言。


「それまでは、上手く誤魔化しておいて」

「は……」


 シンの言葉に、シアンは表情を強張らせ、自然と声をひそめる。


「……それって、まさか」


 少しだけ思案してから、シンは小さく頷き、こちらも声をひそめた。


「考えたくないけど、何らかの要因は、多分、僕達の周りにある」


 ごく僅かな距離の相手にしか聞こえない声で述べられたシンの推測に、シアンは盛大に顔をしかめた。


「……シンさんは、大丈夫なんすか?」

「僕は……今のところは。――それについては、何となく予測はついてるんだけどね」

「え?! マジっすか?!」

「でも、実際どうなのか……正直、僕、頭が良くないんだよね。頭脳労働とか全然得意じゃないし」


 苦笑しながらシンは肩を竦めた。


「だから、そういうのが得意そうな知人に、出来るだけ早めに知恵を借りに行ってみようと思う」

「それ、俺も行っちゃ、駄目ですか?」

「うん」

「えーっ 何でっすかーっ! 俺、当事者っすよ?!」


 あっさりと断られてしまい、シアンは不満の声を上げる。


「さっきも言ったけど、シアンは普通にしていて欲しい。……当事者だからこそ」

「!!」


 ――当事者が、何も気付いていない、と思わせるためにも。



 言外にそう伝えると、シアンは渋々といったていで「分かったらすぐに教えてくださいよ」とブツブツ文句を言いながらも承諾してくれた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ――そして、時は現在、夕刻。



 ティラーダ神殿の門をくぐって出てきたソフィアの視界に、すぐに茜色に染まった焦げ茶色の髪が飛び込んできた。



「ソフィア、お疲れ様!」


 いつも通り、嬉しそうに弾む声音。だが、今日のシンは、いつもの少し離れた木陰の岩には座っておらず、門柱のすぐ傍に立っていた。

 今までにない事であった為、ソフィアは少しだけ目を丸くする。


「ん? どうかした?」


 こちらに歩み寄りながらきょとんと小首を傾げるシンに、ソフィアは素早く「なんでもない」と、小さく首を横に振った――――途端に、鈍く頭が痛み、反射的に柳眉をひそめてしまった。


「ソフィア?」


 目ざとく気付き、シンはソフィアの小さな額に手を伸ばす。慌てて避けようとするが、間に合わない。


 額を覆う様にあてがわれたシンの手の平は想像以上にひんやりと冷たく感じ、抑える事の出来ない震えが全身を走った。シンはその手を彼女の細い首へと滑らせ、そこでも体温を確かめる。――間違いない、と確信してから、シンはキッパリと口に出した。


「ソフィア、熱がある」


 え、と声を上げると同時に、ソフィアは荷物ごと素早くシンに抱き上げらた。思わず、口を「え」の形に開けたまま硬直する。だが、すぐに慌てて身をよじって抗議した。


「や、やめなさいよ、降ろして」


 だが、例にもれず一向に降ろす気配は無い。それどころか、そのまま歩き始めた。


「ねぇ、あたし子どもじゃないし、歩けるからっ」


 往来の為、何とか声量を抑えながらも、更にソフィアはシンをなじった。しかし、やはり彼は聞く耳を持たず、歩みを止めない。


 多くはないが、それでも幾人かのすれ違う町の人々から好奇の視線を感じ、ソフィアは羞恥で耳まで赤くなりながら尖った声を上げた。


「シン、いい加減にして。降ろしてってば」


 非難の声を重ねながら身を捩ると、ぐ、と抱き上げていたシンの腕に力がこもった。驚いて彼を見ると、緑碧玉の色の双眸がこちらをじっと見据えていた。


「降ろさない」


 ぼそり、と怒った様な低い声。たったその一言で、ソフィアは声を失い硬直した。


 ――――シンも仕事帰りなのに、体調を崩している事を気取られてしまったどころか、厚意を拒否した事で、更に面倒を掛けている。


 そう思い至った途端に、ソフィアは頭から冷水を浴びせられたような心地がした。血の気が引いて、声が震える。


「ご、ごめ……」

「怒ってないし、ソフィアは何も悪くないよ」


 んなさい、とソフィアが続ける前に、優しいテノールが重なった。困惑して顔を上げると、すぐ近くに碧色の柔らかな眼差しがあった。


「でも、降ろさない。……僕のわがままだと思って、許して」


 眉を下げてへにゃりと笑う。そんな顔をされてしまうと、無碍に拒否が出来ず、ソフィアは不貞腐れた様に黙り込んで俯いた。

 認めるのはしゃくだが、彼の腕の中はやはり落ち着く。強い風に晒されても、彼の腕はびくともしない。


 ――この場所は本来は自分の居場所ではない、と分かってはいても、身体全体を包む安心感に、ソフィアは抵抗できずに身を委ねた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 ソフィアの身体が子どもの様に小柄とはいえ、人ひとり抱えながら、にも拘わらず、シンは全く緩めることなく歩を進め、あっという間に橙黄石シトリアやじり亭に到着した。



 宿の主人は、シンがソフィアを抱き上げたまま帰って来たのを確認すると、何事かと目を白黒とさせたが、シンは彼女の体調が優れない事を説明し、部屋まで消化に良さそうな食事を運んで欲しい旨を伝えた。彼はすぐに状況を把握すると、やる気満々といったていで厨房へと駆け込んでいった。



 ソフィアを抱きかかえたまま部屋に戻ると、シンは彼女をベッドの上に降ろした。


 途中から随分と大人しくなっていると思ったら、彼女はいつの間にか、そのままうとうととしていたらしい。一瞬、気を許してくれたのか、と期待したが、そうではなく、いよいよ熱が上がって来たのだと、すぐに気付く。


「ソフィア、着替えられる?」


 彼女の荷物を傍らの机に置きながらも、ソフィアから目を離さず、シンは声を掛けた。しかし、ベッドの上にくたりと横たわっている彼女からは返事がない。急いで彼女の傍らへ戻り、額に手を置いた。瞬間、思いがけない熱に、反射的に手を引いてしまいそうになり、シンは顔を歪めた。

 着替えさせるのは後回しにし、素早く彼女の靴を脱がせ、衣服の締め付けも緩める。そのままそっとベッドの中央に寝かせると、包み込むように掛け布を被せ、彼女の顔を覗き込んだ。


「ソフィア、聞こえる? 寒くない?」

「……んぅ、」


 億劫そうに小さな声が上がった。取り繕えない程辛いのか、整った眉間に深い皺が刻まれている。白磁の頬は赤みを帯びているが、汗はかいていない。下手に熱を下げると抵抗力まで奪う事になりかねない。しかし、上がったままでは体力が奪われ続ける。シンは神官ではあるが医者では無い為、その見極めは難しい。

 どうしようか、どうするべきか、考え始めたその時――部屋のドアがノックされた。ベッドの淵に座ったままでシンは応じた。


「はい?」

「お食事をお持ちしましたぁ」


 間延びした独特の声で、ここの店主のものと分かった。シンは少しだけソフィアに目を向けてから、そっと立ち上がり扉の方へ向かった。


「すみません、お待たせしました」


 扉を開けると、予想通りこの店の店主が食事を載せたトレイを持って立っていた。


「いえいえぇ ソフィアさん、お加減いかがですか? 一応、食べやすいようにパン粥を用意したですが」

「ありがとう」

「あと、果物なんてどうでしょう。食べやすいかと思いましてぇ。えぇと、林檎と、あとね、これ、うちのかみさんが作っておいてたマルメロの蜂蜜漬け」


 食事と林檎の載ったトレイをシンに持たせた後、店主はいそいそとエプロンの膨らんだポケットから飴色の果物が詰まった瓶を取り出した。


「うちの子ども達なんか、風邪ひいた時はこれですーぐ良くなるんですわ。よろしければどうぞぉ」

「へぇ、美味しそうだね。ありがとう。助かるよ」

「いえいえぇ 何かあったら声かけて下さいねぇ」


 人のよさそうな笑顔で、店主は片手を上げると階下へと戻って行った。手を振って見送ると、シンはすぐにドアを閉めて鍵を掛け、トレイをテーブルに置いてからソフィアの傍へと戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る