第63話 それぞれの思惑
翌日。
シンは孤児院で仕事をしながらシアンが来るのを待った。とはいえ、また来ないかもしれないという事も十分に考えられた為、来ても来なくても対処できるよう心の内で、ある程度算段はしていた。
色々と思考を巡らせつつも、手慣れたもので必要な仕事を常の微笑みを崩さずに処理していった。
古くなった子ども部屋のクローゼットの修繕をしていると、不意に声が掛かった。
「シンさん、お茶が入りましたので一休みされませんか?」
顔を上げると、はにかんだ微笑みを浮かべたミアがひょっこりとシンのいる部屋の入り口から顔を覗かせていた。
本心では出来るだけ仕事を早めに片付けたいところだったが、せっかくお茶のお誘いを頂いた以上は、にべもなく断る事は難しい。
シンはにっこりと笑顔を浮かべ、「ありがとう、今行くね」と答えた。
孤児院の食堂のテーブルにはミアの淹れたお茶と、彼女の手作りのクッキーが供されている。昼食前の為、子どもたちには内緒だ。スタッフ分だけになる。
シン以外の孤児院で働く人々もやってきて、
「やっぱ、ミアさんのクッキーは美味いなぁ」
「毎日食べても飽きないもんね」
「お茶もミアが淹れるのが一番美味いよ、俺!」
「わかるわかる。疲れが吹っ飛ぶよ」
「や、やだ、そんな……恥ずかしいです」
口々に褒める声に、ミアは頬を染めて両手で顔を覆った。そのまま、期待を込めてチラリと指の隙間からシンの様子を窺う。しかし、彼女の期待通りには行かず、シンはお茶を早々に飲み席を立った。
「ご馳走様! じゃあ僕、仕事に戻るね」
「えっ あ、でもシンさん、朝から働きづめじゃ……」
せめて手作りクッキーも、とばかりにミアが言葉を続けようとした時、玄関から来客を告げるベルの音が聞こえた。その音に、シン以外の人々は「誰だろう」と顔を見合わせる。
「多分、シアンだ。ちょっと2階の部屋を借りるね」
言うが早いか、シンはそのまま皆の返事を待たず、玄関へ向かって足早に歩を進めていた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「ちわっす!」
案の定、玄関ポーチには濃紺色の髪をした黒づくめの服装の青年が立っており、シンの姿を見て軽く片手を上げて挨拶する。シンも笑みを浮かべて挨拶を返した。
「こんにちは、シアン。呼びたててごめんね」
「いやいや、全然! どうせ、仕事探してブラブラしてるだけっすからね、俺」
「ふふ……女の子達を避けて、の間違いじゃないの?」
「あっ シンさんがそんな意地悪言うなんて……っ」
俺は悲しい、と泣き真似をするシアンに、シンは笑って入るように促した。
2階にある、以前シンが寝泊まりしていた部屋――今は空き部屋だが――にシアンを案内すると、シンは入口の扉を閉め、鍵を掛けた。
「随分警戒してるんすね」
やや驚いたようにシアンは目を丸くした。
「まぁね……一応、念のため……かな」
微苦笑するシンに、ますますシアンは訝し気に眉を顰める。
「なんかあったんすか?」
「そうだね」
「そういえば、昨日シンさん、なんか気にしてましたよね」
「うん」
「ネアさんの事っすか?」
「うーん、それもある」
言いながら、シンは部屋の窓の方へゆっくりと足を運んだ。北向きの窓からは澄んだ青空、そして孤児院の庭に植えられた
厳戒態勢ともとれるシンの行動に、シアンは固唾を呑んだ。その気配に気づき、シンは彼の方を振り返ると微笑んで少しだけ首を傾けた。
「ああ、ごめん。あんまり緊張しなくていいよ。これも念の為だから」
そう言われても、と、薄暗くなった室内を見まわしてから、シアンは顔を引き攣らないように苦労しながら笑って肩を竦めた。
「普通、気にしますって。なんすか、この警戒……ほんと、まじでなんかヤバいんですか?」
「んー、ヤバいというか」
言葉を切ってシンは口元に片手を充てて、少しだけ考え込むそぶりを見せた。それから
「昨日、ネアちゃんの記憶が無くなったみたいだったって、言ってたよね」
「へ? あ、ああ……ソフィアが倉庫から救出された日の話しっすよね? 言った言った、言いました。俺が思うに、アレ絶対
「そっか」
「それがどうかしました?」
微妙な表情で曖昧に相槌を打つシンに、シアンは不思議そうに首を傾げた。
逡巡したのち、シンは
話しを聞き終えたシアンは、目を皿の様に見開き、呆然と立ち竦んだ。
「え……えっ? それ……って、俺も
「ないね」
「……マジっすか」
動揺を隠しきれない様子で、シアンはその場にしゃがみ込む。「嘘だろ」や「全然覚えてねぇ」など、ぶつぶつと独り言を言う姿を見て、シンは眉を顰めた。
記憶が戻るきっかけを与えても、シアンは思い出さなかった。
――ソフィアの場合は、思い出すきっかけがあれば思い出していた……と思われた。少なくともシンの事を忘れていた際は、シンが名乗る事で一気に記憶を蘇らせ、彼女は狼狽しつつ詫びの言葉を口にしていた。
という事は――実際はネアに確認してみないと分からないが、少なくともシアンとソフィアでは、記憶の失い方に違いがありそうだ。
そこまで考えてから、シンはしゃがみ込んで頭を抱えているシアンに声を掛けた。
「シアン」
「……あっ はい?!」
やや反応が遅れながらも、シアンは床からひょいっと立ち上がってシンの方を向いた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「頼み? 俺に出来る事なら、ですけど……なんすか?」
「ネアちゃんに、シアンから今みたいに確認してもらっても良いかな」
「え゛っ」
表情を取り繕うのも忘れて、シアンは顔を引き攣らせた。その反応に、シンはきょとんと小首を傾げる。
「ん? どうかした?」
「いや、ど、どうかしたっつーか……ネアさんの場合、思い出しても、思い出さなくても、なんっか怒られそうで……――俺が」
「え? どうして?」
「“どうして早く言いませんの?!”っつー感じで……」
「ああ」
シアンの声真似に、怒り心頭なネアの様子が目に浮かび、シンはくすりと笑った。だが、すぐに表情を正すと「お願いできるかな」と再度確認する。シンの真剣さが伝わったのか、シアンは頭をガシガシと掻きながらも承諾した。それから、ふと気になった疑問を口にする。
「でも、俺よりシンさんが聞いた方が、素直に答えてくれるんじゃないっすかね……ネアさん的に信用度が高い分?」
「いや、実際にネアちゃんの言葉を耳にしたのはシアンだから、出来るだけ思い出す条件が揃っていた方が良い」
「思い出す……条件、っすか?」
「うん。話しを聞いた本人が確認した方が、思い出しやすいでしょ? ……もし
核心には触れぬまま、シンは微笑んだまま説明した。説得力がある言葉に、シアンは何の疑問も持たず「確かにそうかも」と小さく呟いた。それから、己を納得させるかのように数回頷いてから、シアンは顔を上げてシンを見ると、どん、と胸を叩いて笑った。
「りょうかいっす! んじゃ、早めにネアさん見つけて聞いてみますわ! 結果は分かり次第、シンさんに報告に来ますね!」
「うん。よろしくね。……あ、そうだ。ちょっとシアン、」
シンが何か閃いた様子で、ちょいちょいとシアンを手招きした。訝しがりながらも素直に身を屈ませるシアンに、シンは何事かを耳打ちする。
「……へ? いや、まぁ、もちろん構いませんけど……」
「じゃあ、よろしく頼むね」
いまいちピンと来ていないシアンに、シンはにっこりと笑みを浮かべて“ある事”を念押しした。
* * * * * * * * * * * * * * *
――――正午の鐘が鳴ったのはどのくらい前だったか。
智慧神ティラーダの神殿で、ソフィアは食事を採るのも忘れて蔵書整理をしていた。
その彼女の耳に、常とは異なる神官たちのざわめきが聞こえてきた。
今、ソフィアがいる神殿内の書庫では、通常、私語をする者はまずいない。誰もが黙々と何らかの書物を読んでいたり、書いていたりしており、たまに声がするとしたら、仕事関係の確認事項や指示などに限る。
それが、大きくはないせよ“ざわめきが起こる”というのは、何かあったという事だ。僅かに
書庫にいる人々の視線は、書庫の入り口に集まっていた。そしてそこには、ソフィアのよく見知った焦げ茶色の髪をした人物の背中あり、彼女はそれを目にしてそのまま硬直した。
(シン?! ……って、ああ、そういえば、今日、神殿に来るって言ってたわね……でも、書庫に来るなんて聞いてない……っ)
心の内で狼狽しながらも、努めて表面に出さぬよう、平静を装ってソフィアは視線を手元の書物に戻した。しかし、大きな話し声のしない書庫では、否応なしに彼らの会話が聞こえてしまう。
「どうぞ、書庫はこちらです」
「うん、ありがとう。仕事の邪魔をしてごめんね」
「い、いえ、……あの! 光栄です。高名なヴォルフォード司祭とお話しできるなんて」
「ふふ、僕は司祭じゃないし、偉くもなんともないんだから、そんなに畏まらないで欲しいな」
案内をして来たと思われる黒いローブを身に纏った青年の、些か興奮した声に対して、答える穏やかなテノールには苦笑の色が滲んでいた。
(やっぱりシンって、神殿だと有名人なのね……だから神殿に来るのが嫌なのかしら)
何とはなしに聞こえた会話から、そんな事を想像する。――と、会話を終えたシンが、こちらを向いた気配がして、ソフィアは慌てて更に書物に顔を近づけた。
周囲からは相変わらず、さわさわと微かな囁きが聞こえる。どれも悪意を含んだものは一つも無く、シンに対する憧憬や賛美に満ちた音だった。
――「ソフィアの仕事の邪魔はしない」と宣言していた通り、絶対にこちらに気付いているはずにも関わらず、シンは彼女に声を掛けず、真っ直ぐに書棚の方へと歩いて行った。
ソフィアがこっそりとシンに視線を向けると、彼は手慣れた様子でいくつかの書物を選んで片手に持ち、棚のすぐ目の前の空席に腰を下ろした。
そのタイミングで、ふっとソフィアの視線に目を合わせ、一瞬だけ柔らかく、そして妙に甘さを含んだ微笑みを浮かべた。ぎょっとするソフィアにお構いなしに、シンはすぐに視線を手元の書物に落とすと、静かに羊皮紙の
ほっと安堵の息を吐いてから、ソフィアは顔だけは机上の書物に向けながら、そっとシンの様子を盗み見た。彼の手元には3冊ほど分厚い書物が積まれており、思ったより速いスピードでパラパラと
文字を目で追うシンの表情は、いつもよりも随分と大人びて――否、実際ソフィアより大分年上の大人なのだが――見える。普段の彼はあまり
再び書庫内に静けさが訪れた。
たまに羊皮紙をめくる音はするが、誰も言葉を発しない為、しんと静まり返っている。ソフィアはこの静けさは嫌いではなかった。
――だが、しばらく経った頃、その空気を鋭い声が引き裂いた。
「20015番の書物を持ち出している者はいるか!」
尖った声で言いながら書庫に乱入してきたのは、ティラーダ神官のルナ・ハーシェルだった。
嫌な予感がしてソフィアは己の手元の書物の番号を確認する。こういう予感は大体当たるのだ。案の定、表紙の右上隅に“20015”と番号が記されていた。
苦々しい気持ちを抑えつつ、ソフィアは静かに席を立ち、入口で仁王立ちをしているルナの方へと足を運んだ。
「どうぞ」
「なに? ……なぜお前が持っている」
「なぜ、って……」
任された仕事だからだ。しかし、ルナの吊り上がった
「答えられないのか? バイトに、こんな重要書物を勝手に持ち出す事を誰が許可した。お前の上司か? 上司の名は? 危機管理がなっていない! 私から後できつく言っておかなくては」
勝手にヒートアップするルナに、焦りを覚えてソフィアは慌てて声を上げようとする。しかし、どんどん転がる様に進む彼の話しに、上手く応対する言葉が出てこない。それによって、更に焦燥感に駆られ、ソフィアは動揺した。「何か言わねば」と思えば思う程、頭の中は真っ白になって行く。
周囲の神官たちが、熱くなるルナの勢いと、ソフィアの狼狽に気付き、誰か仲裁に入った方が良いのでは、とお互い顔を見合わせる中、剣呑な空気をものともせず、静かな声が上がった。
「まだ何も質問の答えを得ていないのに、どんどん話しを進めるのは如何なものかな」
それは、ソフィアの良く知る声だった。聞こえた方向へぎこちなく顔を向けると、予想通りシンが書物から顔を上げて、微笑みを湛えてこちらを見ていた。
「な、なんだ、君は」
むっとした声を上げるルナに、シンは椅子から音も無く立ち上がると、笑みを浮かべたまま完璧な礼をとった。
「僕の名前はシェルナン・ヴォルフォード。こちらの神殿の神官じゃないけど、ティラーダ神に仕える神官だよ。今日はここの書庫を使わせてもらう為にお邪魔してるんだ」
よろしくね、とにっこりと笑うシンとは対照的に、ルナはみるみる顔色を失う。
「シ、シェルナン……って、“あの”?」
「“どの”かは知らないけど、名前は偽ってはいないよ」
「……あ、いえ、偽ってるなど、そんな、滅相も無い」
明らかに勢いを失って、ルナは視線を彷徨わせながらもごもごと言い訳がましい言葉を零した。しかし、全く意に介さず、シンはそのまま言葉を続ける。
「部外者が口をはさむべきことじゃないかもしれないけど、さっきのは、今の彼女の仕事内容を確認した上でのものかい?」
「え……え?」
「そうじゃないなら、一方的に問い詰めるのはどうかと思うけど」
「い、いや、そんなつもりじゃ」
「そうなの? ふーん……そっか。でも、君がそう言うつもりじゃなくても、僕にはそう聞こえたから」
柔らかな微笑みを絶やさず、シンは続けた。
「ところで、君の名前はなんていうの?」
「あ、……あ、はい。あの……」
「うん?」
――笑顔だが、それは本心で笑っているからではない、と、
「ルナ君、だね。……さっきも言ったけど、僕はここの神殿の者じゃない。でも、同じティラーダ神官として、口を挟ませてもらったよ。その書物が重要書物だというなら、彼女はそれだけの仕事を任されているバイトの子って事になるよね」
「え……い、いや、まぁ……そう、かもしれませんが……」
「少なくとも、僕が来た時から彼女はその書物に印付けをしていた。印の量を見ると、数日前から続けてるんじゃない?」
「そ、そうなのか?」
シンの言葉を受け、ルナはバツが悪そうにソフィアの方を見やる。躊躇いがちに頷くと、彼は「なんで早くそう言わない」とぶつくさと八つ当たりめいた文句を垂れた。
「……印付けはほぼ終わっているので、持って行ってもらって、構いません」
「ふ、ふん! そうか! ならば寄越したまえ」
素早くソフィアから書物を奪い取ると、早口に「じゃあ、失礼する!」と言い終えるが否や、ルナは書物を抱えたまま慌てた様に踵を返し去って行った。
しん、と静まり返った書庫内を見まわして、シンがにこりと微笑んでのんびりとした声を掛けた。
「騒がしくしてごめんね、みんな」
その言葉に、書庫に流れていた緊張した空気が
シンに助けられた形になったソフィアは、申し訳ないような居たたまれない気持ちになり、立ったまま床に視線を落とした。ルナに責められた時、すぐに言い返せば良かったのに、と後悔がじわじわとにじみ出す。唇を噛んで俯いていると、すぐ近くから柔らかい声が掛かった。
「君は何も悪くないんだから、気にしちゃ駄目だよ」
ハッとして顔を上げると、シンがすぐ近くに立って優しく微笑んでいた。先ほどとは異なり、温かみのある、彼の本心からの微笑みだ。ソフィアが反応に困っていると、彼は控えめの声量で言葉を続けた。
「今日の仕事は彼が持って行っちゃったから、終わりかな?」
「……そう、なるみたい」
「よし、じゃあ、……帰ろう」
最後の言葉だけソフィアにしか聞こえない様に、更に声の大きさを抑えて言うと、シンは自席に戻って手早く書物を棚に戻した。それから先導する様に書庫から出て、彼女の方を振り返った。片付ける
* * * * * * * * * * * * * * *
シンは先に神殿の外へ出て、ソフィアは受付で今日の仕事の成果報告と日当を受け取ってから外に出た。景色は既に茜色に染まり始めている。
神殿の外で合流した2人は、特に寄り道もせずに
部屋に入るとすぐにシンは、ソフィアに向き直るとそのまま彼女の頭に手を伸ばし、そっと優しく撫でた。ぎょっとして身を竦ませてから、困惑した表情でソフィアは身を引きつつ問う。
「な、なに?」
「災難だったね」
静かに一言。――そのシンの言葉は、ルナの事を言っているのだと思い至り、ソフィアは苦々しく顔を
「別に……今に始まった事じゃないし。あの人、あれが普通だし」
「……いつもあんな感じなの?」
「言っておくけど、あたしが見る限りは、誰に対してもあんなよ?」
「……はぁ、……ごめんね。同じ智慧神に仕える神官として、謝らせて」
「シンが謝る事じゃないわ。……どちらかというと、謝らなければならないのはあたしの方でしょ」
「え、どうして?」
心底驚いた風に声を上げて、彼女の頭を撫でる手を止めると、シンはまじまじと彼女を見つめた。
「どうしてもこうしてもない。……本当なら自分でどうにかすべきだったのに……あなたが、あそこで口出ししなくてはならない状況にしてしまったのは、あたしの力不足だわ」
「それこそ、気にする事じゃないよ……」
「気にするわよ。あたしはあそこのバイトなのよ。そしてシンはたまたま神殿に来ていた部外者。……そのあなたに、あんな風に間に入ってもらって……フォローしてもらうなんて」
「あれは、僕がしたくてした事だから。それにね、ああいう場合は、目上や格上、職権がある人間が出てきた方が、話しが早いと思ったから。彼、僕が名乗ったらすぐに引いたでしょ?」
「……それは、まぁ……」
ものの見事にしぼんでいくルナが脳裏に蘇り、ソフィアは微妙な顔をする。
「あのね、僕はソフィアじゃなくても口出ししてたと思うよ? だから、あんまり気にしないで。ね?」
言いながら、シンは柔らかくソフィアの身体に両腕を回して抱き寄せた。
「?! ちょっ……」
ぎくりと身を竦ませるが、大分慣れたのか――慣らされたのか、彼女はむすっとした不機嫌そうな顔のままシンの腕の中で黙り込んだ。
抱き締めたまま、シンは彼女の髪に頬を寄せてそっと声を掛けた。
「お疲れ様、ソフィア」
――今にして思えば、ソフィアがこの仕事を始めた当初、根を詰めて勉強していた事や、疲労困憊していたのは、「慣れない仕事」という事だけではなく、今日の様に理不尽な事を言われる事があったのかもしれない。そのストレスもあり、心身共に疲労していたのかもしれない。
しかし、もしそうだとしても、あれから今まで、彼女は泣き言一つ、愚痴の一つも零していない。そして、先ほどの神殿の書庫でのシンのフォローも、後ろ盾を得て喜ぶ事などせず、逆に「申し訳ない」と詫びるのがソフィアなのだ。
それは今に始まった事ではない。ソフィアは見た目こそ10歳前後の
彼女を抱き締めていると、シンの胸の中いっぱいに温かいものが広がる。それが何というものなのか彼には分らなかったが、“かけがえの無いもの”である事はよく分かった。だからこそ、大切に、逃さない様に、シンは事あるごとに彼女を抱き締めてしまうのだ。
少し経つと、ソフィアは気まずそうにシンの腕の中で身動ぎをした。それに気付いたシンが少し腕を緩めて彼女の顔を覗き込む。
「ん? 苦しい?」
「そういう訳じゃないけど……もうそろそろ、離して」
「えー」
「……あなたね、何度も言うけど、あたし成人した
「誰彼構わずじゃなくて、ソフィアにしかしてないよ」
「だーかーらーっ あたしだって成人した
「知ってるよ」
「……分かってない!」
据わった目をしてジロリとシンを見上げると、ソフィアはそのまま彼の腕の中からするりと抜け出した。
最近のソフィアは、シンに抱き締められるのは日常の挨拶の延長線上の事で、だんだん驚かなくなって来始めているのを自覚している。それが何だか
「あたしだからいいけど、」
「うん、ソフィアだから」
「他の女の子だったら大変なことになるんだからね。全くもう……」
「しないから大丈夫」
――――微妙に、ソフィアとシンの会話の意味に食い違いがある事には、お互い気付いているのか、いないのか……
ツッコミが不在のまま、2人はそろそろ夕食時である事に気付いた。そしてそのまま、シンが階下の酒場に食事を取りに、ソフィアはテーブル上を整え始め、肝心な部分は有耶無耶になって行くのだった。
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