第53話 鈍感
孤児院での午前中の仕事をこなし、昼休憩がてらソフィアの元へと向かおうとするシンに、同僚であるミアが声を掛けてきた。町で買いたい物があるのだという。そんな彼女から、途中まで一緒に行っても良いかと問われ、断る理由もない彼は二つ返事で了承した。
他のスタッフへ声を掛けてから、2人は肩を並べて歩き出した。
孤児院前には少し広い路地が伸びているが、既に高い位置にある太陽から暖かな日差しが一面に降り注いでいた。買い物籠を手に、ミアはシンの隣を弾むように歩きながら、彼の顔を見上げて相好を崩した。
「シンさんっ 今日はすごくいい天気ですね!」
「うん、そうだね。こんな陽気だと、そろそろ春も近い気がするね」
「確かに最近、暖かい日が多いですものね……あ、でもまたピートがお寝坊癖が出てきちゃうかもしれません」
「あはは、温かいとお布団から出たくないものねぇ でも、セアラちゃんがいるから大丈夫なんじゃない?」
「はい。セアラは本当にしっかりしてて……私、ドジだし天然だから、すぐポカしちゃって。大人なのに、こんなんじゃ駄目ですよね」
言いながらしょんぼりとするミアに、シンは「うーん」と曖昧に笑って小首を傾げた。
「確かにセアラちゃんはしっかり者だけど、ミアちゃんも色々頑張ってるじゃない」
「そ……うでしょうか」
「うん。大丈夫だよ、自信持って」
ニコッと笑って小さく頷くと、彼女は「はい!」と嬉しそうにはにかんだ。
そんな、他愛もない事を話しながら歩を進めつつ、ふとシンは小首を傾げた。
「そういえばミアちゃんは買い物に行くんだったよね。買いたい物って何?」
「えっと、干した果物と、蜂蜜を。午後のおやつに、エバさんから教わったケーキを焼こうと思って」
「へぇ、エバ
パッと顔を輝かせてシンが声を弾ませると、薄化粧の彼女はほんのりと頬を染めてはにかんだ。
「是非シンさんも召し上がって下さい……あ、もし良かったら、帰りにお土産も持って帰られます?」
「いいの? 嬉しいな」
不意に、聖夜祭の翌日、ソフィアと2人で出かけた先でパンケーキを食べた際の彼女の表情が脳裏に蘇る。あの時、初めて甘いお菓子を食べたのだろうか? 恐る恐る小さな唇を寄せ、心を奮い立たせてパクリと一口。その時の、吃驚した様に水色の瞳を真ん丸にしているソフィアの表情が、堪らなく愛おしかった。その後、戸惑ったように――でも今なら分かる。きっとあれは、嬉しい気持ちを持て余して戸惑っていたのだと――パンケーキを食べたソフィア。今思い出しただけで、頬の筋肉がだらしなく緩んでしまいそうになり、シンはさり気なく片手で己の口元を覆って表情を隠した。
――もし今日も、ミアの作った甘いケーキをお土産に持って帰ったら、またあの時の様に、戸惑いながらも口に入れ、美味しさに驚いて、そして上手く表情に出せずとも、嬉しそうに食べてくれるかもしれない。――そう思うと、自然と相好が崩れる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、ミアは嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、少し多めに作りますね」
「うん、ありがとう! あ、僕も少し材料費出すよ」
「いえ、大丈夫ですよっ 私、好きで作ってますし、お菓子作りの勉強も兼ねてなので!」
「そう? ――じゃあ、お言葉に甘えて、ご相伴にあずかろうかな」
「ふふっ はい」
笑顔の彼女に微笑みを返したその時、正午を告げる中央広場の鐘楼の鐘の音が響き渡った。
「あっ もうお昼なんだね」
「そうみたいですね。――あの、シンさんはこれからどうされるんですか? お昼ご飯、とか……」
「あ、うん。約束があって……」
言いながら、ティラーダ神殿への近道を無意識に探して視線を動かした。
「約束、ですか? ――あっ ごめんなさい、私、もしかしてお引止めしちゃって……」
「あはは、そんな事ないよ。おしゃべりしながら歩けて僕、すごく楽しかったし!」
「そうですか……?」
眉をハの字にしつつ、ミアは上目遣いにシンを見上げた。
「うん、嘘じゃないよ」
「はい。……良かった」
「ん?」
「ご迷惑になっちゃってたら、って、心配だったんです。だってシンさん、お優しいから……迷惑って思っても、口に出さないだろうなって思って」
「んー、僕自身は僕を優しいとは思わないんだけどな」
微苦笑しつつ小首を傾げる。――それは決して謙遜などではなく、元々シンは楽しくないと思う事、気分が悪くなる様な事は、わざわざしようとは思わない性質だ。――勿論、彼の掌中の玉である少女の事に関して以外では、という注釈がつくが。
ミアとの雑談は言葉通り楽しかったし、目的地までの良い“時間つぶし”になったと思っている。
柔らかく微笑んでシンはミアに向き直った。
「じゃ、僕、西区の方に行くからここで失礼するね」
「え? あ、私もこれから、西区にある乾物屋さんに行こうと思って」
「そうなの?」
「はい。行きつけのお店が……あの、露店商なんですけど、お値段が安くて良いものが揃ってるんです。学院の生徒さん達がおやつに摘まめるって、よく買いに来られるそうで……」
「そっか、じゃあ、そこまで一緒に行こうか」
「えっ いいんですか?」
「うん、勿論。でも、少し早足になっちゃうけど良いかな。相手を待たせちゃってるかもしれないから」
「はい!」
大きく頷くミアに微笑んで頷き返してから、シンは先ほど脳内で組み立てたティラーダ神殿への最短ルートをミアに気を遣いつつも出来るだけ早足で辿り始めた。
* * * * * * * * * * * * * * *
しばらくすると、ティラーダ神殿の鉄製の門が見えて来た。
もう面接が終わっていてもおかしくない。朝に何度も念を押したから、先に帰るという事は無いと思うが、きちんと神殿の中で待っていてくれるだろうか。
真っ直ぐに門に足を運ぼうとして、ある一点に目を留めて足を止める。背後からついてきたミアも訝し気に足を止め、それからシンの見ている方向を目で追った。――ティラーダ神殿の門の外、木陰の岩に肩を寄せて仲睦まじく座る2つの人影。ひょろりと背の高い痩せた男は傍らの小さな人影に、時折肩に触れ、朗らかに笑いながら、何やら熱心に語っている。――その小さな人影の銀糸の髪が目に入った途端、シンは自身の腹の中にまるで氷の塊が滑り込んだように、身体が内側から冷えて行くのを感じた。
無言で立ち止まったまま、2つの人影をじっと見ているシンに、ミアが戸惑いつつも小さく声を掛けた。
「シンさん?」
「……」
「あ、あの……あんまり、見るのは……」
「……」
「シンさん……?」
見上げたミアは、次の瞬間、驚きのあまりに声を失った。――いつも微笑みを湛えているシンの表情が、今はごっそりと抜け落ちた様に無表情だった。普段なら柔らかな光を映す緑碧玉の色の双眸は、深く、濃い――鬱蒼とした森の様な昏い色をしている。
動揺して思わず一歩後ずさる彼女に目もくれず、シンは唐突に人影の方へ歩き出した。すると、いち早く気付いた背の高い男が振り返って笑顔を浮かべて手を振った。
「あっれぇ? シン君じゃないかぁ!」
美声で歌う様に声を発した男性の顔の両脇の美しい金色の髪の間から、
様子のおかしいシンの迫力を目の当たりにして、そのまま硬直していたミアだったが、その彼の常識外れの美貌を目にして、まるで呪縛を解かれたかのようにパッと弾かれた様に顔を伏せ、そのままもじもじと顔を赤くした。
口を開くと残念な部分が強調されてしまうが、本来の
そんな彼は、無言で近付いてくるシンと赤い顔で俯くミアを、不思議そうに交互に見てしばし思案してから、何かに気付いたようにぽんっと手を打って顔を輝かせた。
「シン君! デートだったのかい?!」
「え」
――シンでもミアでもない。
“つい反射的に”なのか、“女の勘”なのかはさておき――シンの後ろに立つミアは、その声の主の方へ目を向けた。そして、驚きのあまり固まった。
たった今、
ミアの友人である
――それぞれにおいて、彼女たち以上の美しい存在は、少なくともミアは今まで目にした事が無かった。
その今までの常識や水準が、一気に覆った。
木陰の岩に腰掛けているその姿は、子どもたちが好む物語に出てくる精霊、または
――「こんな子、本当に現実にいるんだ」と思わず呟きそうになり、慌ててミアは唇を噛んだ。
しばし訪れた沈黙の後、銀の髪の美しい少女は冷静に口を
「それなら、こっちは良いからゆっくり楽しん」
「違う」
シンは彼女の言葉を遮る様に、不機嫌さを隠さない固い声で短く答えると、ずいっと彼女に顔を近づけた。その声の鋭さと、覆い被さる様な圧力に、少女の肩がビクリと小さく震えた。――花の様な秀麗な顔に困惑の色がにじむ。その様子を見て、シンはハッとし、次いで見る見る内に情けなく肩を落とした。
「ごめん」
詫びながら、シンは少女の前で跪くと、そっと彼女の顔を覗き込んで膝の上に置かれた細い指先に触れた。
「でも、本当に違うからね――ソフィア」
大切そうに少女の名を呼ぶ。その視線は
だが、シンは逃そうとはせず、念を押す様に「信じてくれる?」と甘えた声で囁く。――とうとう耐えきれなくなったソフィアが「分かったから! 近い!!」と半分キレて叫んだ所で、満足した様に彼は笑って身を引いた。
そのタイミングで、今まで生暖かい(?)眼差しで静観していたレグルスが、唐突に――全く空気を読まずに口を挟んだ。
「でもさーシン君、ソフィアには僕がちゃんとついてるんだから、本当に気を遣わずに楽しんで来て良いんだよ~?」
「……レグルスさん、蒸し返さないでください」
苦笑して軽く
「――そんな事よりソフィア、待たせてごめんね。疲れたでしょ」
言うが否や、ソフィアが否定する前に、シンは「ちょっとごめんね」と言いながら軽々と彼女を抱き上げた。その突然の行動に、ソフィアは目を白黒とさせて身を捩った。
「ば……っ ちょっ?! な、何してるのよ?!」
「? 何って……抱き上げてるんだけど」
「そういう事じゃなくて……! あたし、自分で歩けるわ!?」
「そうかもしれないけど、駄目。顔色悪いもの」
「悪くない!」
「悪いの」
小さな彼女を両腕で覆う様に抱きかかえ、そっと顔を寄せてシンは目を細めて囁いた。
「無理しないで。――それに、無理してても、僕には隠せないんだから、諦めて」
「……っ」
言葉に詰まったソフィアは、盛大に頬を膨らませてそっぽを向いた。それを見て、レグルスがぱちぱちと拍手をしながら笑い声を上げた。
「ははは、シン君、怒らせちゃってるじゃない」
「誰のせいですか……」
「僕のせいじゃないよーっ シン君が浮気するかr」
「してません」
「デートしt」
「してません」
レグルスの言葉を全てかぶせ気味に否定してから、シンはミアの方を振り返って微笑んだ。
「騒がしくしてごめんね、ミアちゃん。また午後に」
「……」
「ミアちゃん?」
「!! あっ はい……!」
あまりの事に呆然としていたミアは、訝し気なシンの声に
それからシンは、ソフィアを抱きかかえたままレグルスの方へ身体ごと向き直る。
「僕達はこれで失礼しますね」
「うんうん、ソフィア君をちゃんと休ませてあげるんだよ」
「はい」
「あ、こちらの可愛らしい
ミアの肩をさり気なく抱いて、レグルスはシンとソフィアにバッチ~ン☆ とウィンクして見せた。ミアは慌てて「きゃんっ」と小さく可愛らしい悲鳴を上げて飛び上がると、真っ赤な顔で両手と首を横にぶんぶんと振った。
「わ、私お買い物があるしっ 送って頂かなくても……」
「なぁに、荷物持ちと思ってくれれば構わないさ! 僕は君の様なキュートな女の子と共にひと時を過ごせれば、それだけで幸せだからね!」
「えっ えぇ~で、でもでもっ」
赤くなった頬を両手で覆って小さくなるミアに、レグルスは爽やかに微笑んだ。
「可愛い
「あ、え、で、でもあのっ ご迷惑じゃ……」
「迷惑なものか! むしろ、可愛らしいお嬢さんと過ごせるのは僕の長い人生の中でも至福のひと時!」
「ミアちゃん、その人は一応多分、悪い人じゃないと思うから大丈夫だよ」
クスリと笑いながら、シンは軽くレグルスの言葉をフォローした。だが、レグルスの方は「一応?」「多分?」とわざとらしくショックを受けた顔をしている。
「ひどい……ひどいよシン君……!」
「あ、えっと、じゃああの、お願いしますっ」
さめざめと泣き真似をするレグルスに、ミアは買い物籠で口元を隠しながらもじもじと申し出た。その様子に、どうやらまんざらではなさそうだ、と踏んだシンは、さっさと会話を切り上げるべく、レグルスに声を掛けた。
「じゃあレグルスさん、よろしくお願いします」
嬉々とした「任せたまえ!」という返答を確認してから、シンは2人に片手を振ると、もう片手で軽々とソフィアを抱きかかえたまま、ゆっくりと
* * * * * * * * * * * * * * *
むっとして起き上がろうとするソフィアの肩に、そっと手を掛けて制すると、シンは「ダメだよ」と眉を顰めた。
「何なの! まだ日も高い内から、どうしてベッドに横にならなきゃならないの?!」
「横になるだけでも身体を休められるから」
「眠くなんかない!」
むくれるソフィアに、シンは困ったように眉を下げながら、彼女の小さな額に手を当てた。――朝よりも高い熱に表情を陰らせる。
「身体、辛いでしょ」
「辛くない。いつも通りよ」
「嘘」
ソフィアの心の中を覗き込もうとするように、シンはじっと彼女の水色の瞳を見つめた。
「随分疲れてる」
「!!」
ギクリ、と思わず身体を強張らせてしまい、誤魔化す様にソフィアは肩に掛かったままだったシンの手を振りほどくと、表情を隠そうとそっぽを向いた。――その行動が、逆に彼の言葉を肯定してしまっている事に気付かずに。
「――何かあった……?」
無理にこちらを向かせようとはせず、シンは彼女の長い髪を優しく指で梳いた。――そこで初めて、ソフィアの片手に羊皮紙が握られている事に気付く。「それ……」と羊皮紙を指し示すと、彼女は狼狽してパッとそれをシンから見えない位置に持って行った。
「なにもないってば」
「……もう」
シンにとっては、彼女の身体は相変わらず驚くほど軽いのだが、それでも彼女自身の重みを胸に感じ、身体の内側から湧き出す幸福感に思わず目を閉じて小さく深呼吸をした。
「神殿……」
ぽつり、と小さな声に、シンはそっと瞼を
「うん?」
「……」
「神殿?」
「……仕事、受かったわ」
「え、本当? すごいな」
「すごくない。……古代語は2割くらい間違ってしまったみたいで」
「2割? って、それ、8割は合ってたって事でしょ?」
「……」
「それ、結構すごいよ。多分、問題だって賢者や魔法使いみたいな、普段から古代語を勉強している学生がバイトに来た時を想定して作っているだろうし……そこからある程度読解力がある人材を絞り込むってなると、基礎はもちろん、引っ掛け問題とかも出るだろうし……」
「よく分からないけど、書かれている問題を読んで、答案用紙に答えを書くだけだわ。――間違ったのは、あたしの勉強不足だし。……テストを受けるからには、もう少しちゃんと勉強してから臨むべきだったわ」
生真面目に反省の言葉を口にするソフィアに、シンは困ったように眉を下げた。彼女は元々自己評価がゼロと言っても過言ではないほど非常に低い。そして自分自身に厳しい。
――――その分、僕がたくさん君を甘やかしたい。
彼女の小さな旋毛にそっと頬を寄せると、シンは目を閉じて思案した。
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