第54話 妬心

 昼休憩を終えて孤児院の仕事へ戻るシンは、彼女に“ベッドで横になり安静にしている事”を約束させると、何度も念を押して部屋を出て行った。

 昼間から横になるなどそんな身分でもお財布事情でもない、とソフィアは言い張ったが、口でシンに敵うはずが無かった。――というか、敵うところなど一つもないのだが。



 一人部屋の中に取り残されたソフィアは、しばらくはベッドの上に横になり、瞼を閉じてみたり、身体の向きを変えてみたりしてみたが、全く眠くならない。

 それはそうだ。ここ数日は毎夜夢も見ていないのではないかとすら思える程に熟睡しているのだ。


 ソフィアは今まで、熟睡などした事がなかった。元の世界ヴルズィアの、幼少期を過ごした村で熟睡などしようものなら、いつ命を失ってもおかしくなかった。だからなのか、いつの頃からか自然と浅い眠りが身に染みついていた。また、疲労困憊してついウッカリ深く眠りそうになったとしても、すぐに“いつもの”悪夢にうなされて飛び起きるのが常だった。



 ところが、シンと共に眠る時はまるで違った。


 彼の腕の中は驚くほど温かい。耳元では穏やかな速度の鼓動がし、乾いた土と太陽の様な香りに包まれる。昏く湿った、いつもソフィアが見る悪夢は、陽だまりの様な温かな光に照らされ、影はいともたやすくかき消されてしまう。そして、信じられないほど深く眠る事が出来るのだ。



 とはいえ、それを“常のもの”として享受してはならないとソフィアは思っていた。“この場所”は、あくまでもシンの厚意による“借りている場所”なのだ。



 ――つらつらと考えを巡らせていたが、終わりが見えない事に気付き、ソフィアは考えを振り切る様に身体の向きを変えて瞼を上げた。



(シンが出てってから、どのくらい時間が経ったのかしら……)


 視線を窓の方へ動かす。窓枠で切り取られた空はまだ青さを保っていた。



(……身体を起こすのもダメかしら)


 チラリとドアの方へ視線を向けるが、ドアノブは一向に動く気配が無い。



(ティラーダ神殿の仕事の要綱を見るのだけなら良いかしら)


 ベッドへ寝かせられた際に手に握っていた羊皮紙は、枕元に置いたままだった。律儀に、シンとの約束通りに身体を起こさないまま、ソフィアは羊皮紙を手に取り、顔の前に持ってくる。



(“朝9時から開始、帰宅時間は問わず。但し18時に神殿の正門を閉じる為、それ以上残る場合は事前に受付に報告が必要”――)


 羊皮紙に細い指を這わせつつ、要綱をゆっくりと頭の中で読み上げる。羊皮紙には神殿での制約事項、仕事の優先事項などが事細かに記されている。豊穣神エルテナ神殿ではここまで細かな要綱は無かったため、やはりティラーダ神殿はその建物と同様に固い気質なのかもしれない。



* * * * * * * * * * * * * * *



 いつの間にか要綱を読む事に没頭していると、部屋のドアがノックされた。ハッとしてベッドから上体を起こし応じた。それから、ドアまで行って来客に応対すべきかどうすべきか迷っている間に、鍵が解かれ、そのままドアが開いた。



「ただいま、ソフィア」


 ひょっこりと顔を出したのは、嬉しそうに笑うシンだった。


 彼は、ベッドに半身を起こしたままの彼女を見て満足そうに目を細めると、部屋の中に入り鍵を掛けてドアを閉めた。手には何やら少し大きな包みを持っている。


「ちゃんと安静にしててくれたんだね。良かった」


 その言葉に、子ども扱いされたと感じたソフィアはむっとして口を引き結ぶ。その表情を見て、シンはほんの少し苦笑すると、真っ直ぐにベッドへ歩み寄った。


「言っておくけど、子ども扱いしている訳じゃあないからね。……身体の調子はどう?」

「普通よ」


 そっけないソフィアの言葉に、呆れた様な、でも温かい声音で「もう」と呟きを零した。そのままソフィアの座るベッドの縁に腰を掛けて、腕を伸ばして彼女の額に手を当てる。


「……うん、少し下がったかな。汗は? かいてない? お湯で絞った布を貰って来ようか」

「いらない。――かいてない」


 シンの手の平から額を離そうと、身を引きながらそっけなく言うが、彼は気にせずに続けた。


「身体を拭いた方がスッキリするよ。どちらにせよ、沐浴はまだ避けた方が良いだろうから、僕、後で宿のご主人からお湯を貰ってくるね。あと、これ」


 言いながら包みを差し出してくるシンに、ソフィアはやや身を引いて困惑の眼差しを向けた。


「……なによ」

「ええとね、まずは着替えでしょ、」

「はぁ?!」

「寝間着、着替えた方が良いかなって思って」

「なっ あっ あなたね……っ 何を勝手に……」

「うん、僕の勝手で買ったんだから、ソフィアは気にしないでね」


 遮る様に、有無を言わせぬ笑顔でシンは言い切った。反論できずにソフィアは口をぱくぱくと開閉する事しかできない。


「帰り際にネアちゃんと会ったんだよ。そしたら、いいお店教えてもらってね」


 言いながら包みから柔らかそうな薄浅葱色の布地で仕立てられた寝間着を取り出す。


「厚地の布と迷ったんだけど、薄地なら春先や秋口も着れるし、今の時期は僕がいるから寒くないでしょ」

「待ちなさいよ。今、しれっとおかしな事言ってない?!」

「ん?」

「ん? じゃない!」

「おかしな事なんて言ってないよ。ソフィアこそ、この先、僕が君の事を手離すとでも思ってるの?」

「……」

「ん?」

「ど……」


 どうかしてるわ、と口の中で呟き、ソフィアはベッドの己の膝の上に突っ伏した。傍らから「わぁ、ソフィアって身体結構柔らかいんだねぇ」などとどうでも良い感動の声が聞こえる。



「……ばっかじゃないの……ほんと、なんなの、もう……」


 ぐったりと突っ伏し呆然自失のままにぼやくと、その顔をシンが不思議そうに覗き込んだ。


「僕、何度もソフィアに言ってるよ?」

「何がよ」

「今後はソフィアの傍から離れるつもりないって」

「ああ……そうだったわね」


 彼は、父親になる事については諦めてくれたようだが、未だに保護者に立候補したままだった事を思い出し、ソフィアは思い切り渋面を作った。


「でも、あたしは認めてないわよ?」

「僕だって譲らないよ。……ふふ」

「な、なによ」


 唐突に笑みを漏らしたシンに、思わずソフィアは身構えた。だが、彼は気にも留めずに柔らかい微笑みを湛えたまま、小首を傾げた。


「どっちが根負けするのが先かなぁって思って。――言っとくけど、僕、絶対負けないからね」

「んなっ そっ ~~っあたしだって負けないわよ!!」


 噛みつくように身を乗り出して声を上げると、シンは弾けるように笑った。


「あははははっ ふふ、ねぇソフィア、この寝間着は貰ってくれないかな」


 笑みを収めつつ、シンは包みから寝間着を取り出して広げて見せた。薄浅葱色の布地でゆったりと作られたそれは、少し見ただけで仕立ての良いものだと分かる。分不相応に感じ、ソフィアは首を横に振った。


「こんな良いもの、もらえないわ」

「でも、ソフィアのサイズだもの」

「それは、子ども用サイズだと言いたいの?」

「もう、違うよ。僕がちゃんとお店の人に伝えて、既製品の寸法を調節したって事」

「……」

「ん?」

「なぜあなたが、あたしのサイズを知ってるの」

「そりゃあ、確認する機会はたくさんあったもの」

「……」


 頬を引き攣らせて思わず身を引くと、シンはさも心外といった表情を浮かべた。


「変な誤解しないでね。僕、ソフィアが嫌がる事は絶対しないよ?」

「で、でも」

「それにこの布の色! 絶対ソフィアに似合うと思って」


 笑顔で寝間着の両肩部分を持ち、ソフィアによく見えるようにシンは掲げて見せた。「ね?」と寝間着の後ろから顔を出したシンの双眸の色と、薄浅葱色の布地の色が、よく似た色に見えてしまい、ソフィアは慌てて目を逸らした。


「い、意味が分からない」

「そう? ソフィアって薄紅ピンク色とか薄茶色ベージュも似合うけど、こういう青とか緑っぽい色も似合うと思うんだよね」


 ダメかなぁ、と眉を下げて彼はソフィアの瞳を見つめた。悲しそうな寂しそうな表情に、ソフィアはたじろぐ。そこへ、念を押す様にシンは言葉を重ねた。


「ネアちゃんも、ソフィアに絶対似合うって自信満々だったんだよ。それこそ、君が着ているところを見に来そうな勢いでね」

「……わかったわよ」


 これ以上拒否しても、シンが折れるとは思えなかったため、ソフィアはとうとう諦めた。彼は満足そうに頷くと、包みの中から油紙で四角柱に包まれたものを取り出した。


「あとね、これはお土産。フルーツケーキ!」

「フルーツ……なに?」


 怪訝そうな顔で、耳慣れない単語を繰り返すソフィアに、シンは頬を緩ませた。


「フルーツケーキ。……そうだなぁ、聖夜祭の翌日にソフィアがパンケーキのお店に連れてってくれたじゃない? あれに似た生地に、ドライフルーツやスパイスを入れて焼いたものだよ」


 シンと並んで座って食べたパンケーキを脳裏に思い浮かべつつ、ソフィアは油紙に丁寧に包まれたフルーツケーキというものを見つめた。


「孤児院の今日のおやつの時間に、ミアちゃんが焼いてくれたんだ。元々は僕の義姉あねが作るの得意なお菓子なんだけどね。作り方を教えてもらったみたい。……あ、僕も孤児院で食べさせてもらったけど、すごく美味しかったよ!」


 にこにこと嬉しそうに笑いながらフルーツケーキの説明するシンに、何故か不意に苛立ちを覚えて、ソフィアは困惑した。別にシンは何もおかしな事など言っていないはずだ。しかし、呑気に笑いながら得意げに説明を続ける彼を見ていたくないという気持ちが沸々と湧き出し、柳眉を顰めて視線を彷徨わせる。


「せっかくだから、って、ミアちゃんが包んでくれたんだ。ね、夕食までまだ少し時間があるから、着替えたら一緒に食べよう?」

「いえ、あたしは……いらないわ」

「え、どうして?」


 ソフィアの辞退に、シンは吃驚びっくりした様に目を丸くする。その様子に、何故か更に苛立ちを覚えてしまい、ソフィアはぷいっとそっぽを向いた。


「当然じゃない。あなたがもらったものを、あたしが頂くわけには行かないでしょ」

「僕がもらった物を僕が誰にあげても、誰も文句は言わないと思うけど」

「そういう問題じゃないでしょ! その……ミアって人は、あなたに食べて欲しくてそれを用意したんじゃないの? だったらさすがに、あたしは頂けないわ」

「……ソフィア」

「何よ」

「何だか、怒ってる?」

「!?」


 シンの問いかけが癇に障り、睨んでやろうと息まいて視線を動かすと、彼は予想外の表情をしていた。――笑って、いる? 笑いをこらえている? むずむずと口元を動かし、片手でそれを覆い隠そうとしているが、全く隠せていない。

 そのシンの姿に、何故か突然顔が熱くなり、ソフィアは狼狽しつつも眉を逆立てて尖った声を上げた。


「な、なによその顔はっ」

「えっ? あっ……え、何だろう。――うーん、えへへ」

「だからっ 何なのっ? なにを笑ってるのよ!」


 口元を覆って、シンは一言だけ「秘密」と答えた。何なのよそれは! と頬を膨らませるソフィアをチラリと見てから、シンは緩む頬をもう片手で押さえた。

 フルーツケーキをミアが作った、と告げた後、ソフィアは明らかに不貞腐れていた。その様子を目にしたら、突然喜びが込み上げてきたのだ。シン自身もよく分からない。本来であれば彼女の行動に理不尽さを覚えても良いはずなのに、何故自分はこんなに心が浮足立っているのだろう。嬉しくてたまらない。そして、小さな唇を尖らせて苛立ちを隠そうとしていない彼女が、可愛らしくてたまらなかった。


 やや時間を掛けて、何とか緩んだ顔を立てなおしたシンは、少し思案してからぽんっと手を打った。


「……あ、そうだ。このフルーツケーキ、ここの宿のご主人にあげようかな。今後お世話になるし」

「え?」

「その代わり、下の酒場で美味しそうなお菓子があったら、買ってくるね」

「ま、待ちなさいよ。何でそうなるの?」

「僕としてはソフィアと一緒に美味しいものが食べたいから」

「そんな理由で、あなたに作ってくれたケーキを……」

「ああ、僕、孤児院のおやつの時間にみんなと一緒に食べたから。もう十分」


 あっさりとシンは彼女の抗議を制した。


「それに、ここの宿の食事やお菓子が、どんな味付けなのかまだ分からないもの。せっかくだから一緒に色々食べてみようよ」

「でも」

「よし、じゃあ決まり! 僕、これご主人に渡してくる。ついでにお湯と、美味しそうなのあったら買ってくるね!」

「シン!」

「いってくるよ」


 ちゅ


 立ち上がりざまに、シンの唇がソフィアの額に落とされ、軽くリップ音が鳴った。あまりの突然の事にソフィアの頭は真っ白になり、苦言を呈そうとしていた事すら忘れてそのまま硬直する。


 その様子を見てシンは、いたずらが成功した子どもの様に笑うと、「すぐ戻るね」と言い残し、くるりと身を翻して部屋の外へと出て行った。――扉が閉まった後、忘れずに鍵を掛けて。



 1人残されたソフィアは、数分ほど固まったまま呆然としていた。それから、見る見る耳まで真っ赤になると、頭を抱えてうずくまった。


「なんなのあの人はーー!!!?」

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