第48話 孤児院

 一方その頃、春告鳥フォルタナの翼亭を後にしたシンは、早足に孤児院へと向かっていた。


 シンが住み込みで働く孤児院は港町クナートの南にある。院長は元冒険者のエルシオン・デュクス。赤みがかった茶色に僅かに白髪の混じった頭髪、若かりし頃は女性と見間違えられることも多かったというその相貌は、さすがに今は誤解されることは無いにせよ、柔和さは失われていない。焦げ茶色の瞳は温かく、時に厳しく子どもたちを見守っている。――彼自身が孤児で、幼い頃は非常に苦労したのだと、以前シンは本人から聞いた事がある。だからこそ、冒険者としてある程度金の余裕が出来た数年前に、今まで貯め込んだ財産をすべてつぎ込んでここを建てたのだという。この孤児院は決して大きなものではないが、院長の大きな思いが詰まった大切な場所なのだ。


 孤児院のドアを開けると、子どもたちが数人出迎えてくれた。――一般的に孤児院にいる事が出来るのは成人前、つまり15歳前の子どもに限定される。今孤児院にいる子どもは、上が13歳、下は1歳で、合計20人になる。


「シン兄ちゃん、おかえりなさい!」

「ねぇ、ご本読んで」


 まだ幼い子ども達が足元にくっつき、シンはほんの少し眉を下げた。


「ごめんね、僕、院長先生にご用があるんだ」

「えーっ」

「じゃあ、ご用終わったら。ね? ご用終わったら、約束」

「ピート、アンディ、わがまま言っちゃダメよ」


 唐突に会話に割って入ったのは、黒髪を短く切り揃えた、皆より少し年嵩の利発そうな少女だった。奥からツカツカとこちらへやって来ると、シンの足元にくっついていたピートとアンディの手を取る。


「私がご本を読んであげるから、シン兄ちゃんの邪魔しちゃダメだよ」

「セアラちゃん、ごめんね、ありがとう」


 ほっとした様にシンが微笑んで礼を述べると、セアラと呼ばれた少女は「ううん」と首を横に振った。それから、慣れたもので、てきぱきと子ども達を連れて廊下の奥へと去っていた。


「立派になったなぁ……」


 彼女の後姿を見て、シンは感慨深そうに笑みを浮かべて呟いた。



 しっかりと下の子ども達の世話をするセアラは、この孤児院で一番年上の13歳になる。だが、この孤児院へやってきた当初は、まだ8つか9つだった。スラムで生まれ育った彼女は、父親は2歳の頃にアルコール過剰摂取で冬空の下で凍死。母親は彼女を生む前から身を売る仕事をしていたが、その筋の者がよく罹る病に犯され、いつの頃からかは分からないが全身に赤い発疹が出来ては治り、を繰り返していた。それでも、症状が出ていない間に仕事をしていたが、数年程経つと全身に大きな腫瘍が出来始め、その内まともな会話もままならない状態に陥った。


 母親を救うため、そして自ら生活するために、セアラは幼いながらも己の身を売ろうと必死でスラムの路地裏に足を踏み入れた男の背中にしがみついた――その相手が、スラムを視察していた、この孤児院の院長エルシオンだった。

 切羽詰まった様子のセアラから根気強く事情を聞き出した院長の行動は早かった。泥と垢で汚れた彼女を躊躇いもせずに抱き上げるとすぐに孤児院に戻り、シンに彼女の母親の治療を頼んだ。それから女性スタッフへセアラに温かな風呂と食事を与え、真新しいとは言えないがきちんとした服を着せるよう指示し、その間に孤児院に入れるように手続きを行ったのだ。――生憎、シンがスラムの彼女の母親を訪ねた頃には時すでに遅し、永い眠りについた後だったが、部屋の中は凄惨たるものだった。孤児院に戻ったシンが院長にその事を伝えると、彼は休んでいたセアラの下へ行き、母親の死を包み隠さず伝えた。泣き出したセアラを、気が済むまで泣かせてやり、落ち着いた彼女に、母親を一緒に弔おう、と優しく声を掛け、その日の夜の内に母親の亡骸をエルテナ神殿へ運び祈りを捧げ、翌日には言葉通り正式な葬儀ミサ、埋葬も行ったのだ。

 その後の会食で、幼いながらもしっかり者のセアラは、助けてくれた恩人に礼を述べると共に、戸惑いを隠さずに疑問を投げかけた。


「なぜここまでしてくれるんですか? 他人なのに」


 その一言で、幼い彼女が今まで、誰にも頼る事無く――頼る事が出来ずに生きて来た事が分かった。院長はニカッと笑うと「それはな、セアラがとてもいい子だからだ!」とキッパリと言い切った。それから、笑顔を柔らかく変化させて言葉を続けた。


「それに、おじさんの孤児院は、まだ始まったばかりでな。しっかり者の君みたいな子が来てくれると、おじさん達も助かるんだ。――孤児院にはね、セアラよりずっと小さい子もたくさん来る。お姉さんとして、孤児院ここで協力して欲しいんだ」



 傍で見てきたシンだからこそ、よく分かる。――この時から、セアラは居場所を見つけた。そして、エルシオン院長は彼女にとって、掛け替えの無い恩人で、絶対的な信頼の対象……そして、仄かな憧憬の対象となったのだった。



 そんな事を思い出すのは、それが“シンが住み込みでこの孤児院で働き始めたばかりの頃”の出来事で、これからこの孤児院を出ようとしているからなのだろうか? だとしたら、我ながら感傷的だな、とシンは苦笑した。


 孤児院の2階の奥に、院長の部屋がある。真っ直ぐに向かうと、躊躇いなくドアをノックした。


「おう、入れ」


 温かく力強い声が部屋の内側から上がる。それを待ってから、シンはドアを開けて室内に入った。



* * * * * * * * * * * * * * *



 結論から言うと、思わず拍子抜けするほどスムーズに話しは済んだ。住み込みではなく通いで仕事をさせて欲しいと切り出したシンに、院長は二つ返事で受け入れた。理由を聞かないのか、と問うたところ、院長は何を馬鹿な、と言わんばかりの顔で一言、


「お前が決めて、俺に言った。――それで充分さ」


 適当な理由で仕事変更を申し出る訳がないだろう、と言外に言われた気がして、シンは胸が温かくなった。この院長は今も昔も豪快で懐が深く、そして迷いなく相手を信頼してくれるのだ。以前、シアンが「孤児院のエルシオン院長は天然人たらしだ」と言っていたが、確かにその通りだ。

 面はゆい気持ちになり、シンは頬を掻いてから礼を述べた。


 そのまま院長の部屋を辞し、自分の寝室として宛がわれた2階の部屋へと向かう。小さな部屋だが、それなりの時間を過ごしていた部屋には、色々と買い込んだものがいくつかあった。棚や机、椅子や書棚は孤児院にそのまま残して使ってもらう事にして、手早く全身鎧フルプレートを着込む。――もちろん、運搬のために。

 それから、自分の衣類や生活用品をまとめる。こちらはそんなに多くはない為、背負い袋2つ分にまとめて、1つは背に負い、もう1つは左肩に背負った。武器は適当に背中側に吊るした。


「……よしっと」


 必要最低限のものは持ち運べる事を確認し、シンは大きく頷いた。


「今までありがとう! 次にこの部屋を使う人に、幸せが訪れますように」


 ――智慧神ティラーダへの祈りの言葉ではなく、シン自身の願いを口にしてから、彼はゆっくりと部屋を見まわすと、くるりと踵を返して部屋を後にした。



 階下へ降りると、玄関先が賑やかだった。少し思案してから耳を澄ませると、記憶にある声と口調が飛び込んでくる。


「こんなにたくさん、良いんですか?」

「うむ、殊の外多く山菜が採れたのでな。おすそ分けじゃ」

「嬉しい! シェラさん、ありがとうございます! お礼に今度何か……」

「なぁに、ミアのその笑顔で十分じゃ! ほんに、素直な良い子じゃの~」

「や……やだ、そんな……」

「ほほほ、赤くなって、可愛らしいのぅ!」


 盛り上がっている2人の会話を遮るのは心苦しいが、彼女たちのいる場所を通らないと外に出る事が出来ない。思わず苦虫を噛み潰してから、表情を取り繕い、シンは歩を進めた。


「うん? シンではないか! 帰っておったんじゃな……って、なんじゃその大荷物は」


 当然ながら、シンの姿を目に留めたシェラが疑問を口にする。その言葉に、ミアも振り返って軽く目を瞠る。


「こんにちは、シェラ。ミアちゃんも」


 努めて明るく、いつも通りにシンは2人に挨拶をした。その口調のままで次の言葉を続ける。


「院長にはもう話しをして来たんだけど、今日から僕、孤児院を出る事にしたんだ。突然でごめんね」

「なんじゃと?!」


 案の定、シェラが目くじらを立てる。


「“突然ごめんね”、だと? 突然すぎるわ! 理由を言え、理由を!」

「えー、理由言わないと駄目なの?」

「当たり前じゃ! 私はともかく、ミアはおぬしの仕事の肩代わりをする事にもなるんじゃぞ。理由を聞く権利があろう? なぁ?」


 鼻息も荒く、シェラがミアに同意を求める。顔を強張らせたままのミアは、のろのろと頷いた。


「聞かせて欲しい、です。あ、あの! 駄目とか、引き留めたいから、とか。そういうんじゃ……ないんです、けど……で、でも、急でビックリしちゃって。自分を納得させたいっていうか、……」


 おずおずと黒い瞳を潤ませて、ミアはシンを見上げた。


「ダメ……でしょうか」

「んー……ううん、ミアちゃんの言いたい事は分かるよ。シェラの言い分もね」


 ともすれば苦笑いになりそうな顔の筋肉を、何とか微笑みに持って行きながら、シンは2人を交互に見つつ説明をした。


「今日から、橙黄石シトリアやじり亭に宿をとる事にしたんだ。仕事は住み込みじゃなくて通いでさせてもらう事で、院長から了承を貰ってある」

「“通い”……?」


 シェラからもらった山菜の入った籠を両手で胸元に抱き締めるように抱えながら、ミアが独り言の様に呟く。その言葉に敢えて同意という形で、シンは言葉を続けた。


「うん。僕は今まで、仕事だからってだけじゃなくて、僕の居場所として、あと、みんなの事が大切だから――孤児院と、孤児院に住む子ども達を第一に守る事を考えてきたけど……今は、僕自身がどうしても守りたいって思う人を見つけたから。――孤児院に住み込みしながらだと、どうしても限界があるから、だから」

橙黄石シトリアの……って、まさかおぬし、まだあの小娘に懸想しておったのか!?」


 遮る様に叫ぶシェラの言葉に、シンが「懸想って」と苦笑いするのと、ミアが手にしていた山菜の籠を床に落とすのが、ほぼ同時に起こった。


「あの、不幸ぶっておぬしの善意や気遣いを受け取りもせん、不愛想で思わせぶりな態度ばかりとる、構ってほしがり屋の小娘の為に、そこまでするのか?! 阿呆かおぬし?!」


 続けて声を荒げる彼女に、一転してシンが低い声で名を呼んだ。


「……シェラ」

「なんじゃ!」

「彼女をそれ以上、侮辱するのは許さない」

「は……」


 言い返そうとしたシェラは、こちらに向いた底光りする碧色の瞳を見て、言葉を飲み込んだ。


「ソフィアは僕にとっては、掛け替えの無い大切な人だよ。……よく知りもしないで、いい加減なことを言わないで欲しいな」


 微笑みを浮かべているが、目の奥は明らかに怒りの炎が浮かんでいる。盛大に顔を顰めて、わざとらしくシェラは数歩後ずさった。


「……ふん、ほだされおって……! おぬしのような世間知らずの素直な男がホイホイと騙されるんじゃぞ?」


 負け惜しみの様になじるシェラの言葉に、シンは思わず「……ねぇ」と皮肉を込めて呟く。――その声はほんの小さなものだった為、シェラにも、ミアにも届く事は無かった。

 次にシンが微笑みを浮かべて口にしたのは、全く異なる言葉だった。


「心配してくれてありがとう。でも、僕は僕自身がそう決めたから。――これでもし騙されていたとしても、僕は本望だよ」

「フン! 泣きながら帰ってきても知らんからな!」

「あ、あの……っ」


 険悪な雰囲気の2人のやり取りに、躊躇いがちにミアが口を挟んだ。


「シンさん……お仕事、は、いらっしゃるんですよね……?」

「ん? うん、それはもちろん。迷惑でなければ、続けたいと思ってるよ」

「迷惑なんて……わ、私……シンさんの事、とても頼りにしていたので……これからも来て頂けるなら、嬉しいです」

「そっか、ありがとう」

「いえ……あの、無理、しないで下さいね。シンさん、真っ直ぐな方だから……心配、です……」


 じっとこちらを見上げる黒い瞳は嘘偽りのないものに見えるが、――逆に己の言葉に酔っているようにも見えた。曖昧にシンは微笑んで「気を付けるよ」とだけ答えた。



 その時、溌溂はつらつとした声が玄関に降りてきた。


「ミア姉ちゃん、院長先生が呼んでる!」

「セアラ」


 声の方を振り返り、ミアが相好を崩す。まなじりを釣り上げていたシェラも、少女の姿を認めて思わず眉を下げた。


「シン兄ちゃん、院長先生から聞いたよ。孤児院のお仕事、私だって色々手伝えるから。大丈夫だよ」


 真っ直ぐにこちらを見て、セアラは力強く笑顔を見せた。――彼女にとっての守るべきものは、とっくの昔から、この孤児院と、院長なのだ。その強い心が、笑顔からにじみ出ている様で、シンは居住まいを正した。


「ありがとう、セアラちゃん」


 気の利いた言葉一つも言えなかったが、それでも伝えたい言葉を口に出来たから及第点だろうか。



 こうしてシンは、セアラ、そしてミアとシェラに一礼すると、孤児院を後にしたのだった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 孤児院を出ると、シンははやる心を抑えつつ、足早に橙黄石シトリアやじり亭へ向かっていた。同じ南区にある為、そんなに時間はかからないと踏んでいる。――と、人々が行き交う往来に見知った姿を認めて、シンは足を止めた。


「――キャロルさん?」

「おや、シンさん」


 すらりとした長身の上から下まで、すっぽりと全身藤色のガウンコートに覆われているが、逆にそれが彼以外考えられない特徴になっていた。


「珍しいですね、町に買い出しですか?」

「まぁ、そんなところですね」


 シンの問いに、真意の読めない微笑みでキャロルは答える。


「シンさんは……何かお急ぎのようですね」

「あはは……いえ、急ぎと言うか、何というか。――気がはやるというか」

「ああ、ソフィアさんといよいよ同居を始めるのですか?」

「え!? なぜそれを?」


 揶揄からかった風ではなく、まるで見知ったかのように自然な言葉を投げかけるキャロルに、シンは思わず動揺して声を上げた。


「そうですね……急いでらっしゃるように見えるのに、それ以上に嬉しそうでらっしゃったから、でしょうか」


 くすくすと笑いながら、キャロルは小首を傾げて詫びの言葉を口にした。


「引き留めて申し訳ありません」

「い、いえ……」


 頬が熱くなるのを感じながらも、シンは小さく首を横に振った。その様子をしばしじっと青い瞳で見つめて、キャロルはおもむろに口を開いた。


「恐怖は拭えましたか」

「え?」

「共に過ごされる」

「はい」


 アーレンビー家を訪ねた日の夜、キャロルは「失う怖さより、手に入れられない怖さの方が大きかった」とシンに話した。――今現在のシンの心は正に、“彼女を失うかもしれない”という恐怖を、“共にいたい”という思いがはるかに凌駕していた。


 迷いのないシンの返答に、キャロルは満足そうに一つ頷いた。それから、少し目を細めてやや思案顔になる。訝し気にその様子を見るシンに、彼は顎に指を添えたまま尋ねた。


「まだ少しお時間はありますか?」

「え? はい」

「ああ、ですがお荷物がありますね。――これから引っ越し先の宿へ向かわれるところでしたか」

「ええ」

「では、その宿そちらへ行きましょう。――少しお話ししたい事があります」

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