第44話 涙と笑顔

 部屋に残されたシンは、着ていた鎧を脱ぐとすぐにソフィアの横たわるベッドに戻った。


 そのままかたわらにひざまずき、掛け布団の中からソフィアの腕をそっと引き出した。

 部屋の中にいくつかと、ベッドサイドにあるランタンの灯りに照らされて、彼女のか細い手首にくっきりと縄の痕と思われる紫色の痣と、痛々しい擦り傷がいくつも浮かび上がり、シンは痛みに耐えるように顔を歪ませた。心を落ち着けようと小さく深呼吸し、口を開く。



「…………“智慧神ティラーダよ、”……」


 神の奇跡により傷を癒すべく祈りの言葉を口にしようとするが、それは最後まで音にすることが出来ず、小さくなって消えていった。

 ――そのままシンは俯いた。



「…………ごめん……守るって言ったのに……」



 両手で小さな手を握り締め、それをそのまま己の額に押し当てながら、絞り出すように小さな声で囁く。



「僕は役立たずだ……」


「違うでしょ」

「!」


 シンの自責の言葉を、小さな声が遮った。ハッとして顔を上げると、ベッドの上の大きな枕に埋もれていた小さな頭が僅かに動いた。慌ててシンは腰を浮かせ、横たわる彼女の頭の両側に両手を突き、覆い被さる様に顔を覗き込んだ。

 すると、透き通った水色の瞳と目が合う。途端に彼は、取り繕うのを忘れて弱々しい声を上げた。


「でも……だって、ソフィア、怪我を……」


 その言葉に、不思議そうな声が続く。


「……? そう……だった、かしら……」


 まだ目覚めたばかりのせいか、彼女の記憶は曖昧の様だ。


「だとしても、あなたのせいじゃないでしょ」

「でも、守るって……言ったのに、僕は……」

「何でもかんでもあなたのせいにしないでよ」

「でも」

「気負いすぎよ」


 小さくため息を吐くと、ソフィアは横たわったまま視線を逸らす様に銀色の睫毛を伏せた。その長い睫毛に、部屋の中の光が集まり、キラキラと光って見える。思わず吸い寄せられるように、シンはソフィアの頬に手を伸ばした。不意の動作に、訝し気にソフィアが瞼を上げて彼を見上げる。


「……なに?」

「……」


 片手をソフィアの顔の横に突き、もう片手で彼女の頬に触れたまま、シンは固まった。


「……シン?」

「……」

「……」


 いくら尋ねても返答が全くない為、ソフィアも困惑したまま沈黙した。



 ランタンの灯りに照らされた室内で、2人はじっとそのままお互いを見つめ合ったまま――膠着状態に陥った。


 ゆっくりと覚醒してきたソフィアは、現在の状況が把握しきれず徐々に憮然とした面持ちになる。


「ねぇ、何なの?」

「ソフィア……」


 ようやくシンが言葉を発した。だがそれは、非常に弱々しいもので、驚いたソフィアは正面にあるシンの顔をまじまじと見つめた。


「…………ソフィア」


 小さな声と共に、ぽつり、とソフィアの頬に温かな雫が落ちてきた。ぎょっとして手を頬にやろうとして、目の前のシンの顔を見て硬直する。



(――――え……泣いて、る……?)



「ソフィア……っ」


 顔をくしゃりと歪めて、シンはそのままソフィアの身体に覆い被さった。



「え?! ちょっ……っ」


 仰天して身動みじろぎしようとするも、ベッドに押し付けられるような形でシンの胸にしっかりと抑え込まれている為、全く動けない。


「シ、シン……? ねぇ、ちょっと……?」


 動揺したまま、ソフィアはシンの服を掴んで何度かつんつんと引っ張るが、腕を緩める気配が全く無い。シンの顔はソフィアの首元にうずめられたまま、今どんな表情をしているのか彼女からは全く見えなかった。



 途方に暮れて、この状況をどうしてやろうかと考えるも、先ほどのシンの表情が目の奥に蘇ってしまい、困惑して眉を下げる。



 ――結局ソフィアは、抵抗する事を諦めた。



 そうなると、服を引っ張っていた手のやり場に困る。


 しばし両手を宙に彷徨わせていたが、最終的に躊躇いながらもシンの背中へおずおずと回した。そのまま肩の力を抜いてそっと目を閉じる。

 普段は大きく感じるシンの背中も、頬に触れる彼の腕も、全てが小さく震えていた。泣いている子どもってこんな感じなんだろうか、とぼんやりと思いながらも、ソフィアは出来る限りそっと手を伸ばして、よしよし、と彼の背中を撫でた。

 直後、驚いたようにハッとシンが顔を上げた。緑碧玉の色の双眸から流れ落ちる涙で、彼の頬が濡れている。先ほどの表情は、見間違いではなかった。


「…………」


 珍しく不貞腐れたような表情を浮かべて、シンは再びソフィアの首元へ頭を戻した。焦げ茶色の少し癖のある頭髪から僅かに覗いている彼の小さくとがった耳の先端が、何故かいつもよりほんのりと赤く色づいていた気がしたが、一瞬しか見えなかったので見間違いかもしれない。


 いずれにせよ、シンはソフィアの首元へ顔を埋めたまま、そのままピクリとも動かなくなった。


「~~~っちょっと、いい加減離れなさいよ!」


 シンが呼吸する度に僅かな彼の息が首筋に掛かり、くすぐったくて堪らない。我慢出来ずにソフィアがジタバタと暴れると、「うー」と小さくうなりながらシンはそのままソフィアの傍らへ転がり、そのままうつぶせに突っ伏した。


「シン?」

「……」


 呼びかけても、彼はそのまま動かない。


「…………あ。じゃあ、その、……あたし、ちょっと布、濡らしてくるわね」


 ――いつかの日、シンが泣いたソフィアの目元を、濡れた手布で拭いてくれた事を思い出し、ソフィアは身を起こしてベッドから降りようとした。

 だがすぐに、駄々をこねる子どもの様な言い草で「行っちゃ嫌だ」とのたまうシンの片手で軽々とベッドの中に引き戻される。

 抵抗も出来ず呆気なくベッドの中に倒れ込むが、そのタイミングで両手首の傷が一瞬刺すように痛み、思わず反射的に僅かに顔を顰めた。夜目が利くシンがその表情を見逃すはずがなかった。



「そうだ、傷! 見せて!」


 涙を引っ込めたシンは飛び起きると、ソフィアの身体を背中から己の前に抱え込むようにして座らせ、丹念に彼女の手足首の傷を確認した。


「……痛かったでしょ」

「もう痛くないわ」

「…………“智慧神ティラーダよ、その叡智の光を我が手に宿らせ、傷付きし……」

「?! ちょっと、シン! いいっ……」

「……傷付きし“我が愛し子”の身に安寧をもたらたまえ――”」


 ソフィアが止める間もなく、シンは神への祈りの言葉を結んだ。その直後に、シンの両手に白い光が宿り、その光は一直線にソフィアの傷口へ向かって伸び、吸い込まれるように消えた。


 白い光が完全に消えた後、両手足首を見てソフィアは呆然と呟いた。


「…………治ってる……」


 そこには白い己の肌しかなかった。擦り傷どころか、痣も見当たらない。敬虔な神官の中でも、神の声を聴く事の出来る特異な力を持つ者だけが使えるという“神の奇跡”――噂には聞いた事があったが、目の当たりにしたのはソフィアは初めてだった。

 シンは彼女の手を取ったまま、拘束されていた際の傷跡のあった個所を、己の両手の平で壊れ物に触れるように優しく何度もさすった。そのまま背中から抱き締めるように両腕を回すと、のろのろとソフィアの小さな肩口に顔を埋めた。


「――ごめんね、もっと早い段階で治そうとしたんだけど……」

「シンが謝る必要は無いわ」


 不思議そうに小首を傾げるソフィアに、シンは顔を埋めたまま小さく首を横に振った。


「……出来なかったんだ」

「?」

「ソフィアの怪我を見たら、動揺、して……全然、詠唱が出来なくて……」

「? そう……」


 冒険者なのに、血が苦手なのか、それとも、彼自身が“仲間”と認めた相手の怪我には平静さを保っていられないのか――そんな事を思いながら、ソフィアは曖昧に頷いた。彼が自分を“仲間”……というか、“庇護対象”と見做しているのであれば、後者により取り乱した可能性はある。


 そんな明後日の方向の事をソフィアが考えているとはあずかり知らぬシンは、彼女の首元へ甘えた様に頬を摺り寄せると目を伏せ、顔を歪ませて小さな声で呟いた。


「……本当は、色々……ソフィアが覚えてる限り、あった事を……聞かなくちゃって思うんだけど……」


 そのまま一旦、言葉を切る。それから、言い難そうに改めて口を開く。


「そうでないと、次に何かあった時に、ちゃんと動けない、って分かってるんだけど」

「要領を得ないわね」


 少なくとも今までの彼とは思えない歯切れの悪い言葉に、何より後ろに座るシンが首元近くに顔がある事で彼が話す度に息が触れてむず痒いせいで、ソフィアはむっと柳眉りゅうびひそめた。


「あたしが覚えている範囲で良ければ、話すわよ。役に立つかどうかは分からないけど、元からそのつもりだったし」

「でも、僕は……」

「何よ」

「聞くのが怖い」


 かすれた声で言うと、シンは顔を歪ませた。


「……ソフィアに何かあったんじゃないかって思うと、平静でいられる自信がない……」

「“何か”って……あのねぇ、何もないわよ」


 シンの言葉に、ソフィアはむっと頬を膨らませた。


「この酒場で気を失って、気付いたら倉庫に手足を縛られて転がされてて、」

「……うん」

「それで、男の人が1人入ってきて、おかしなことをアレコレ言って」

「……“おかしな事”?」

「“覚えてないのか”、とか……あと、“死んだ方がマシな目に合わせてやる”とか何とか……」

「ソフィア!!」


 シンの強い声がソフィアの言葉を遮った。反射的に身をすくませてから、ソフィアはシンを見上げようと身動ぎすると、シンは震える手でソフィアの両肩に触れ、向かい合う形に座れる様に彼女の身体を支えた。――ほのかなランタンの灯りに照らされる彼の顔は、ひどく青褪めていた。


「……っそれ、で……、その、男は……君に何を……っ?!」


 情けないほど震える声を懸命に抑えながら、シンは言葉を絞り出した。彼の動揺の意味に全く気付いていないソフィアは、訝し気にちょこんと小首を傾げた。


「分からない。……その後、気付いたらあたし、ここに寝てたから……」

「……え」

「ほ、本当よ? 男の人が1人来て、話しをしてたら……そこからは記憶が無くて」

「…………」


 ゆっくりとシンの両腕がソフィアを抱き締める。思わぬ彼の行動に、ソフィアは目を見開いて硬直した。


「ちょっ、と?! シ、シン……っ?」


 狼狽した声を無視して、シンはそのまま両腕に力を込める。あっという間に身動きが取れなくなったソフィアは小さくうめき声を上げた。


「ねぇ、くるしい……っ」


 絞り出すように抗議するが、シンの耳には届いていない様子だった。


 一方のシンは、ソフィアの記憶の抜け落ちに気付き、――“それほどまでの恐怖”が彼女にあったのではないかと気付いた瞬間、頭を鈍器で強烈に殴られたかの様な衝撃が全身に走り、気付いたら彼女を抱き締めていた。

 出会った当初や、彼女自身が傷ついた時など、まるで自衛手段の様にソフィアの記憶が欠落する事実を、シンは幾度も目の当たりにしてきた。

 まさか、今回も、何か――と考えた時、男の1人が言っていたという言葉が脳裏に反響し、戦慄せんりつした。


「シン?」


 腕の中の、彼の何にも代えがたい宝物が、戸惑ったような声を上げる。だが、恐怖と憤怒と嫉妬で醜く歪んだ己の顔を彼女に見られたくは無く、いだく腕を緩めずにそのまま背中からベッドに倒れ込んだ。


「……っ?! っあのねシン!? あなた急に何を……そうされてるとあたし、前が見えないんだから……っ」


 突然の事に、シンの上に乗ったままジタバタとするソフィアを、己の頑丈な腕の中に抑え込んだまま、シンは「うん」と小さく生返事を返した。その態度に、ソフィアはむっと顔を顰める。


「ちょっと……本気で聞いてないでしょ」

「……そんなこと、ないよ」

「動けないし、息苦しいし、……そもそも、妙齢の男女がこんな風にベッドにいるなんて、破廉恥だわ」

「……破廉恥」

「そうよ。――何度も言ってるし、あなたにこういう事を言っても意味がないかもしれないけど、未婚の男女は普通こういう事しないんじゃないの? いくらあたしが世情に疎くても、そのくらい分かるのよ?」

「未婚」

「……さっきから復唱してばかりだけど、ちゃんとあたしの言ってる事、聞いてる?」

「……聞いてるよ」


 言いながらも、シンは彼女を抱き締めたまま小さな旋毛に鼻先を寄せる。息を吸い込むと、以前と少しも変わらない彼女自身の柔らかな甘い香りが鼻腔を満たし、シンの焦燥が僅かに和らぐ。


「――こうされるの、嫌?」


 唐突に投げかけられた言葉に、ソフィアは咄嗟に意味を把握し損ねて「はぁ?」と素っ頓狂な声を零した。


「……僕は、こうしてるの落ち着く。……ソフィアが無事で――いる、って、こうしてると実感できる」


 無事で、の部分だけ、意識的に強調する。それはある意味、祈る様な気持ちでもあった。


「無事も何も……さっきの手首とか、のはもう全然痛くなかったし……他は別にどこも」

「本当? 疲れてるとか……だるいとか、いつもと違うところは何もない?」

「しつこい。――何もないわ」


 もそもそとシンの胸に押し付けられていた顔を横に何とか向けて息を吸いながら、ソフィアは不機嫌そうに答えた。その様子は、もちろん嘘を言っているようには見えない。


 ――身体的に違和感がない――つまり、シンが第一に恐れていた事は起こらなかったと見て間違いないだろう。そう思った途端に、シンは盛大に息を吐いて両腕の力を抜いた。

 となると、もう1つの考えられる要因――死んでいた男達の決定的な瞬間を目の当たりにしてしまったとか、そういった事でソフィアは意識を失うなりしたのかもしれない。決して“良かった”などとは言えないが、それでもシンは安堵して脱力した。

 ――と、その時、


「さっきの質問、」

「え?」


 不貞腐れた様な小さな声に、シンは思わず聞き返した。シンの身体の上で、腕の中でそっぽを向いたままソフィアは早口で続けた。


「別に嫌じゃないわよ」

「? え?」


 ぽかんと間抜けな顔でシンは更に聞き返す。その様子に、ソフィアはやや苛立ったような、呆れた様な表情を浮かべて彼の方を見た。


「――捕まってた時、知らない男の人に足を掴まれたけど」


 ソフィアの言葉に、地底から響くような低い声がぼそりと「え?」と被さるが、気に留めずに彼女は言葉を続けた。


「その時は、なんというか、……ものすごく気持ち悪くて堪らなかったけど」


 当たり前でしょ! と叫びたいのを、シンは懸命に堪えた。そんな彼の心の機微にも気付かず、ソフィアはシンの碧色の瞳を真っ直ぐに見た。


「シンは嫌じゃない」

「――――!」

「……落ち着く、かどうかはよく分からないけど。――こうしていると、怖くない」


 言葉を選ぶ様に慎重に、ゆっくりとソフィアは言い終えると、躊躇いがちにシンの胸に頭をことりともたれさせた。――目を覚ましたばかりとはいえ、ここ数日でいろいろとあった為、疲れてしまったのかもしれない。



 逆にシンは、たった今耳にした彼女の言葉で、先ほどまでのどろどろとした黒い気持ちや心のおりが瞬く間に消え去り、薄暗いはずの部屋が急に明るくキラキラと輝き、彼女の銀糸の様な髪や、柔らかい白い肌にほんのりと色づく小さな唇、透き通った穢れの無い湖の様な水色の瞳などが、色鮮やかに目に、心に飛び込んで来て身体中を満たし、その感動に打ち震えた。

 それと同時に、制御出来そうにない歓喜の渦が心の奥から湧き上がる。


「――ソフィア、……本当?」


 震える声でシンが尋ねると、腕の中で少し眠そうなソフィアが目を上げる。


「? わざわざ嘘は言わないわ」


 取り繕った様子の無い“素”の言葉と、眠そうな様子を隠そうとしないその姿に、シンは泣きそうな顔で破顔して彼女を抱き締めた。


「うん……うん、嬉しいよ」

「……? そう」

「ソフィア」

「……なに?」


 されるがままに抱き締められたまま、眠そうにソフィアが返す。その気を許した姿が、愛おしくてたまらなくて、シンはその心のままに言葉にした。


「結婚しようか」

「……馬鹿なの?」


 ――眠そうな据わった目のまま、ソフィアはバッサリとその言葉を切り捨てた。

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