第17話 大切な人

 東の村テアレムでの妖魔モンスター退治の謝礼金は、ソフィアの想像以上の金額だった。以前の宿のツケも全て完済した上でも余りある。

 当初は、さすがに殆ど役に立っていないのにこんな金額はもらえない、とネアに減額を申し出たが、彼女はがんとして首を縦には振らなかった。それどころか、「貴女は十分に役に立っていましたわ」と力強く述べた上で、ソフィアが今後冒険者として生活する場合のアドバイスまでしてくれた。


「わたくしが思うに、貴女は気配の察知さっちする能力に優れていますし、情報処理能力も十分にあります。ですから、冒険者をこのまま目指すのであれば、野外での追跡や調査を行う専門の狩人レンジャーなどよろしいかもしれませんわね。あと、個人的には魔法使いにも向いている様に思うのですけど、これはいかんせん、才能がないとどうにもなりませんからね」


 ――魔法の才能は、稀に修行して得られる場合もあるが、遺伝的要素を含めたその者本人の生来の能力が開花して使える場合が殆どだ。その程度であればソフィアも知っている。自分にそれがあるのか、と問われると、応えは“否”だ。成人するまで魔法の“ま”の字も片鱗も無かったのだ。今更眠っていた力が目覚める、とか都合のいいことがあるとも思っていない。

 ここは一つ、堅実な“狩人レンジャー”を目指すのが良いのかもしれない。ネアのアドバイスを受けてから、自分の冒険者としての方向性を考えている間に、いつの間にか数日が過ぎてしまった。



* * * * * * * * * * * * * * *



 肌寒い朝、ソフィアは橙黄石シトリアやじり亭の自室のベッドで身を起こした。とたんにガン、と頭が痛む。嫌な予感がして顔を顰め、片手で頭を押さえると手の平に普段とは異なる温度を感じた。またか、と苦い思いが込み上げる。だが、この感触であればまだ動ける。経験上、ソフィアはそう判断した。


 ゆっくりとベッドから立ち上がると、扉の隙間から漏れる朝日の光を頼りに水差しの方へ歩み寄る。窓が無いからこその格安の部屋なのだが、身支度の時が少し不便だ。

 水差しからたらいに水を注いで、冷たさに怯むことなく顔を洗う。前回の冒険の際に買った柔らかい布で顔の水気を拭いてから小さく息を吐いた。とたんに空気が白く色づく。

 もう外は本格的な冬を迎えている。朝の空気はキンキンに冷えており吸い込むと鼻腔がツンと痛んだ。



(アトリが言っていた……“なんとか祭”の手伝い……の仕事って、確かまだ先よね……)


 テアレムの妖魔モンスター退治に出る前、医者の女性と連れ立ってソフィアを訪ねてきた際に、アトリが言っていた事を思い起こす。あの時、確かアトリは「あと一月ひとつき半ほど先」と言っていた。あれからようやく半月が経つ。手持ちの金が少しあるからといって油断は出来ない。あと1ヶ月は決まった仕事が無いのだ。かといって、冒険者としての仕事を請けてきちんとこなせる自信はない。なにせ、狩人レンジャーとして何をしたらいいのか、どういう事をすべきなのか、そもそも……なにをもってして「狩人レンジャーになった!」と言えるのか、皆目見当がつかない。


「……森、かしら」


 狩人レンジャーなら森。森なら狩人レンジャー。何となくそんなイメージがある。ネアも「野外活動が専門」と言っていた。

 鈍い頭を無理矢理動かしつつ、生成りのワンピースに着替えると、手早く髪をいつもの様に結い上げて部屋を後にした。



 階下には人の良さそうな橙黄石シトリアやじり亭の主人が忙しそうに働いていた。まだ従業員が出勤する前の様で、1階の食事処には彼以外に誰もいなかった。ここの主人は黒髪に茶色の瞳、少しぽっちゃり目の体型の50代前半の男性だ。愛想がよく喋りも達者で、宿泊していない客もよく時間つぶしにやってくる、ちょっとした名物店主である。問うていないのに無理矢理聞かされた情報によると、子どもは2人。長男は20代で騎士見習い、次男は10代後半で大通りの靴屋に修行に入っていると言う。ついでに言うと、結構な恐妻家なのだそうだ。

 ソフィアが入ってくるとすぐに気付き、顔を上げて「おはようございますぅ」とやや間延びした口調で挨拶してきた。捕まると話しが長くなる事を既に学習済みのソフィアは、小さく会釈してからそのまま宿の出入り口へ向かう。


「あっ お待ち下さい、ソフィアさん!」


 しまった捕まった、と頬が引き攣りそうになりながらも、ぐっと堪えてソフィアは振り返って店主に用件を目で問うた。


「昨晩遅く、セントグレア様から伝言がありましたよ。時間がある時に春告鳥フォルタナの翼亭へ来て欲しいそうです」

「セント……?」

「フィリネア・セントグレア様です」

「フィリ……?」

「……ネア様、と名乗られていました」

「……? …………! あ、ああ、ネア」


 長い間があったソフィアを見て、主人の顔にありありと「大丈夫かな」といった表情が浮かんだ。それに気付き慌てて「分かったわ」と返し、ソフィアは橙黄石シトリアやじり亭をやや足早に後にした。



* * * * * * * * * * * * * * *



 少しゆっくりとした歩調で朝の町を歩き、丁度朝食時に春告鳥フォルタナの翼亭を訪ねると、いつもの愛想の無い執事然しつじぜんとした店員が、やはり愛想の無い声で「いらっしゃいませ、ソフィア様」と声を掛けて来た。逆にぶれない態度に少し安心を覚える。

 少し店内を見回すが、まだ早い時間の為か店内に客は見られなかった。少し迷った上で、ソフィアは先ほど挨拶をした店員に「あの」と声を掛ける。


「はい、なんでしょうか」

「ネア……って人から、何か……伝言、とか……」

「ネア様からですか。少々お待ち下さい」


 店員はきっちりと礼をとると、そのままバックヤードへ消えていった。残されたソフィアは手持ち無沙汰になり、少しフロアをうろうろと歩くと、掲示板近くまで行って足を止めた。そのまま何の気なしに掲示板に貼られた羊皮紙を眺める。

 その時、春告鳥フォルタナの翼亭の扉が勢いよくひらいた。


「あぁ~ようやく戻ってきた! ただいまー!」


 聞きなれない大音量の声にぎょっとして振り返ると、茶色の長髪を後ろで一つに結び、ローブを着込んだ小柄の――といってもソフィアより頭一つは背が高いが――男性がずかずかと店内に入ってきたところだった。彼の方もソフィアに気付く。


「あれ? 見ない顔だな。俺はシュトルーヴェだ。ルーヴェでいいぜ? 今冒険者の仕事から帰ったんだ。あぁ、疲れた」


 ペラペラと唐突にまくし立てた後、彼はバックヤードへ向かって声を掛ける。


「おーい、なんかメシ出して欲しいんだけどー!」

「お待たせして申し訳ありません、ルーヴェ様。何をお持ちしましょうか?」


 奥から先ほどの店員が戻ってきてルーヴェに礼をとる。


「あー……んじゃ、平らなパンピラコウスで良いや。肉入ってるヤツ」

「畏まりました」


 下げていた頭を起こし、店員はソフィアへ顔を向ける。


「後ほど店長が参りますので、少々お待ち下さい」

「え……あ、ええ……」


 店長が出てくるという言葉に、戸惑いながらも頷く。それを確認してから店員は厨房の方へと去っていった。

 店内にルーヴェと名乗る男性と2人で取り残される形になり、何となく所在無さ気に視線を彷徨わせてから掲示板に目線を戻そうとした時、彼が再び声を掛けて来た。


「なぁ、俺、さっき挨拶したんだけど」

「……? え?」

「あのさぁ……挨拶したら、普通挨拶し返すもんじゃねぇ? 親から教わらなかったのかよ」


 やや苛立たしげに眉を顰めて彼は肩を竦めた。彼の態度に混乱しながらも、ソフィアは何とか「……どうも」とだけ返す。この男性の言う通り、ソフィアはそのような事を教えてくれる親はいなかった。だが知識としては知っている。――とはいえ、彼の早口とまくしたてる言葉の情報量について行けず、加えて平常より高い熱の為、どう反応したらいいか分からずにいた。

 彼女の態度が気に入らなかったのか、彼はわざとらしくため息をつく。そして再び口を開いた時、丁度良いタイミングで店員が奥から出てきた。


「お待たせしました。平らなパンピラコウスです」

「っと、あれ? 早いね!」

「朝食をとられる方向けに、日が昇る前に温めてお出し出来るように、仕込みをしてありましたから。どうぞ」

「さっすが! やっぱここの宿は気が利くな! いただくぜ!」


 温かな食事を出されて機嫌を直した様子のルーヴェがピラコウスにナイフを入れ始めた。出来たらこの間に店長に早く出て来て欲しい。それが無理なら出直したい、と居心地が悪そうにソフィアは身じろぎする。それに気付いたのか、店員が「もう少々お待ちを」と会釈し、奥に消えていった。


「せっかくだから、アンタも食うか?」


 再び彼が口を開く。勘弁して欲しい、と思わず口から出そうになりながらも飲み込み、ソフィアはルーヴェの方へ少しだけ顔を向け、断りの意を込めて小さく首を横に振った。


「あっそ。なんだ、美味いのに」


 不満げに言いながらも、彼はもりもりと食事を始めた。これで少しは開放されるかと安堵したのも束の間、また彼は口を開いた。


「っつーかさ、何なの? 人嫌いってヤツ?」

「……え?」

「アンタ」

「…………別に」


 そういう訳ではない――好きでもないけど。そう口の中で呟く。その言葉はルーヴェの耳には届いていないはずだが、彼はつまらなさそうに「ふぅん」と鼻を鳴らした。それから、じろじろとソフィアを観察するように眺め回す。思わず生理的な嫌悪感を覚え、ソフィアは顔をしかめた。


「ああ……アンタ、半妖精ハーフエルフか」

「!」


 ギクリ、と一瞬顔が強張る。


「それも、じゃないヤツ。そうだろ」

「え」

「でも、アンタみたいなのがクレンツァのゲートをくぐれるってのがちょっとな。――コネでも使ったか?」

「……」


 ルーヴェが言っている内容を理解できず黙り込むソフィアを尻目に、彼は訳知り顔で続ける。


「ヴルズィアだっけ? って、半妖精ハーフエルフは迫害対象なんだろ? アンタもその口だって言うんだろ」

「!」


 ソフィアの顔色が変わったのを肯定と受け止め、彼は「やっぱりね」と肩を竦める。


「俺、に何度か仕事で行った事あるんだけど、いるんだよなー、アンタみたいなの。なんつーの、“不幸ぶってる”ってヤツ?」


 明らかに侮蔑の色を持った彼の言葉が、呆然としたままのソフィアの耳を打つが、彼女は反応出来ないでいた。



(……「ゲート」? 「に何度か行っている」? ――って……まさか、)


 体温は平常より高いはずなのに、何故か手足から熱が奪われていく感覚に陥る。このルーヴェという男性の言う事が本当なら、は……――行き来が可能、という事になる。


「なぁ、聞ーてんの?」


 無視されたと思ったのか、棘のある声が掛かる。表情を失ったままのろのろと視線を向けると、呆れと嘲りの混じった顔で語気を強めた。


「アンタがどんだけ迫害受けてたかは知らないけど、アンタより辛い目に遭ってるヤツなんか、山ほどいるんだからな? 分かってんの? アンタみたいなのがいるからさ、頑張ってる半妖精ハーフエルフが迷惑をこうむるんだよ。“いじめられました”“かわいそうです”“構って下さい”みたいなヤツ。で知り合った俺の仲間の半妖精ハーフエルフもすっげー迷惑してたんだよ。そいつはものすごい大変な思いして熟練ベテラン冒険者まで上り詰めたのに、半妖精ハーフエルフだからってだけで腫れ物扱いされるってんでさ」


 ――ぐさり、と胸に何かが刺さった気がした。無意識にソフィアは自分の胸元に片手を当てるが、もちろん実際に刺さっている訳ではない。それでも確かに、何かがソフィアの胸をえぐったのだ。「頑張ってる半妖精ハーフエルフが迷惑をこうむる」――その言葉に、こげ茶色の髪をした柔和な微笑を浮かべる人物が脳裏に浮かんで、ソフィアは唇を噛んだ。


「そういうの、ホントやめてほしいんだよな」

「……――ってない」

「あ?」

「不幸ぶってなんか、ない」


 搾り出すように、押し殺した声でようやく一言、ソフィアは反論した。癇に障ったのか、ルーヴェは「どこがだよ」と顔を歪める。


「あたしは……自分を不幸だなんて思ったこと、一度も無い」


 今度こそ、キッパリとソフィアは言い切った。ルーヴェが口を挟む前に、更に言葉を続ける。


「そもそも、幸不幸なんて人それぞれ違う。それを比較するなんてナンセンスだわ。あたしは、誰かとあたしを比べるつもりもないし、比べられたいとも思わない」

「ああ、そうかよ。だけどな、アンタそんな顔してなかったぜ? 辛気臭いっつーか、人の顔色いちいち伺ったり、びくついたりしてさ、被害者ぶってる風にしか見えないね!」


 空になった皿にフォークを置いてから、彼はソフィアをけた。


「あーあ、なんか疲れ倍増って感じ! 俺、部屋もどろっと。じゃあな」


 ガタン、と明らかにわざと音を立てて椅子から立ち上がると、ルーヴェは奥にいる店員に声を掛けると、そのまま2階へと上がって行った。



 ルーヴェが去ったのを気配で判断し、それから少しだけ視線を動かして階段の方を見る。そこに誰もいない事を確認してから、ソフィアは近くのテーブルに両手を着いて項垂うなだれた。

 自分がコミュニケーション能力がない事は自覚していた。だが、面と向かって誰かに指摘されたのは初めてだった。迫害とは違う。だが、明らかな嫌悪。



(不幸ぶってなんか……)


 本当にそうだろうか、と自問する。はたから見たら、自分はそう見えるのだろうか。

それは、1人でいた時には気にする事も無かった事だ。だからこそソフィアはろくに言い返す事も出来ずにいた。



(……。“頑張ってる半妖精ハーフエルフ”……)


 少しクセのあるこげ茶色の髪。いつも微笑みを湛える緑碧玉の色の瞳。柔和な表情で何かとソフィアを気遣ってくれる彼も、恐らくヴルズィアでは苦労をしていたはずだ。その彼も、ソフィアがいる事で何らかの迷惑をこうむっていたのだろうか。



(――だとしたら、)



「待たせたな、ソフィア」


 思考の途中で野太い男性の声で呼ばれ、ハッとソフィアは顔を上げた。そこには春告鳥フォルタナの翼亭の主人が羊皮紙を手に立っていた。元は凄腕ベテラン冒険者だけあって未だにぶ厚い胸板とがっしりとした両手足をしており、頭髪は何故かアフロだ。ゆえに、彼は常連客には「アフロ店長」と呼ばれている。目元は黒い色のついたガラスを使った眼鏡で隠されている。年嵩は不明だが、冒険者を引退したと考えると恐らく40代前後と思われる。因みに独身だ。

 彼は無精髭の生えた顎を空いている片手で撫でながら、ソフィアを見て首をかしげた。


「どうした?」

「え……いえ、何も」

「そうか? 顔色が悪いように思ったんだが……」


 その黒い眼鏡でどうやって色が、と反射的に突っ込みそうになりながらも、何事もないという意味を込めて肩を竦めてみせると「まぁいい」と店長は言葉を続けた。


「ネアからお前さんにことづけを預かってる。これだ」


 持って来た羊皮紙をソフィアに渡す。重く感じる手を上げて受取り、ソフィアは目を伏せた。


「……分かった」


 そのまま内容を確認せずにベルトポーチの中に仕舞う。


「本当に大丈夫か?」

「ええ」

「そうか……なら良いんだがな」


 心なしか店長の声が気遣わしい声音に思えて、ソフィアは居た堪れなくなる。ペコリと小さく会釈をすると、そのまま春告鳥フォルタナの翼亭を後にした。



* * * * * * * * * * * * * * *



 しばらく町の中を目的も無く歩き、西区へ続く大橋のたもとで足を止めた。橋の下には大きな川が流れている。

 港町クナートの西区は、所謂いわゆる勉学の地区だ。賢者の学院、そこに属する賢者・学者の宿舎、そして、智慧神ティラーダの神殿がある。

 自分には無縁の地区だな、とぼんやりと思いながら、大橋を渡らずに手前の土手をくだり、川べりに腰を降ろす。

 ここ数日、雨は降っておらず、地面は乾いた草で覆われていた。高く上り始めた日に照らされてゆっくりと空気が温められていくのを感じる。ソフィアは座ったまま膝を抱え、そこに額を乗せるように顔を伏せた。



(……――迷惑を、かけてる――そうかもしれない)


 初めて春告鳥フォルタナの翼亭で会った時から、森で1人で歩いていた時、寝込んだ時、ネアと東の村へ行った時――思い返せば返すほど、多大な迷惑を掛けている様に感じられた。そして、ソフィア自身は彼には何も返せてはいないのだ。


(迷惑を、……)


 ぐ、と自身の膝頭に頭を強く押し付けた。目の奥が熱い。鼻の奥がツンとする。ソフィアは閉じる瞼に力をこめた。瞼を開いたら、彼女の何かが決壊しそうだった。



「……ソフィア?」


 頭上から、独り言の様な小さな声が降って来た。聞き覚えのあるその声に、ソフィアの肩がピクリと跳ね上がる。たった今彼女の心を占めていた人物……シンの声だ。


「ソフィア」


 彼女である事を確信したかの様に、声の主がもう一度名を呼ぶ。柔らかいテノール。だが今はその声には心配の色が濃く滲んでいた。ソフィアが顔を上げられずにいると、草を踏む音が近付いてきた。


「……肩に触れるよ」


 言うと、彼女が返答する前に隣にひざまずき、彼の大きな手がソフィアの肩に触れてきた。肩を抱くように、ぎゅっと力を込めてから、シンはソフィアに困ったように笑い掛けた。


「冷えてる。もう、……いつからここにいたの?」

「あなたには関係ない」


 反射的に固い声音で返すが、気にした風も無く「関係なくないよ」と返してくる。


「いいから放っておいて。……眠いのよ。ここでちょっと休んでるの」

「なら、尚更放っておけない。こんなところで居眠りとか、駄目でしょ」

「……じゃあ、考え事したいから」

「言い換えても駄目」


 ふわり、とソフィアの冷えた身体を何か暖かい物が包んだ。びくり、と小さくおののいてから、顔をしかめる。勝手に身体が動くのだ。

 額を両膝の上に乗せたまま、シンとは反対側へ僅かに顔を向けると、深緑色が飛び込んできた。どうやらシンは外套をソフィアに掛けてくれたらしい。

 そのままの姿勢で黙っていると、シンが優しく声を掛けた。


「ソフィア」

「……」

「何かあった?」

「何も無い」

「嘘ばっかり」

「本当に、何も無い」

「……ソフィア」


 再度、シンはソフィアの名を呼んだ。その声は普段より低い音だ。怒らせたのだろうか、という思いがソフィアの頭を過ぎるが、それを口にする前にシンが答えた。


「怒ってないよ。……でも、何があったか聞かせて欲しい。前に僕、言ったでしょ。僕はせめて、僕の手の届く範囲、言葉を交わした人達くらいは守りたいって。それはソフィア、君も含めてなんだよ?」

「あたしには不要だわ」


 膝から顔を上げて、ようやくソフィアはシンの顔を見た。シンは彼女が泣いているのかもしれないと思っていたが、予想に反して彼女は平常通りの表情だった。


「シン、あなたには守るべき人達がちゃんといる。孤児院の子ども達や、あなたの大切な人を、まず第一に考えるべきだわ」

「確かに子ども達は大切だけど、ソフィアだって大切だよ」

「……その言い方は、誤解を招きかねないわ。誰かに聞かれたら困るのはあなたよ」

「大切な人を大切って言うのを、誰かに聞かれて困ることは無いから大丈夫」

「……だから、あのね。確かにあたしは今、あなたの手の届く範囲にはいるけど、それはあなたがあたしの近くに来たからであって。あと、言葉を交わしたのも、あなたが話し掛けたからであって。それをいちいち、大切とか言ってたら、本当に大切な人に想いを伝える時に、言葉の重みを失くすわよ?」


 苦虫を噛み潰しながら、ジト目で見やると、シンはきょとんとした顔になった。


「ちゃんと相手を選んで言ってるから大丈夫」

「そういう事じゃなくて……ああもう、何て言ったら良いか分からないわ」


 両手で顔を覆って再び膝の上に顔を伏せる。そのまま「だからつまり、」と続ける。


「あなたが好きになった人が、あなたが誰彼構わずこういうセリフを言ってるって知っていたら、いざあなたがその人に想いを伝える時、“大切だ”って言っても本気にしてもらえないかもしれないでしょ? って事!」

「ああ、そういう事かぁ」


 諦めて直接的な表現で伝えたところ、シンはすぐに納得した。


「なら、大丈夫だよ。そんな人いないし」

「はい?!」


 思わず大きな声を上げてしまい、自分でも驚いて思わずシンの顔を見上げてから、ソフィアは口をつぐんだ。そんな彼女にクスリと笑い、シンは続けた。


「僕、そんな特定の人いないよ。そうだなぁ、大切って意味なら今はソフィアかな」

「いやいや、違うでしょ!」

「? 違うって?」

「だからっ あたしは“大切”違いでしょ! どうせ、子ども扱いして孤児院の子ども達と同じように考えてるんでしょうけどっ あたし成人してるからね?!」

「うーん……、まぁ確かに、僕としてはソフィアが僕を“お父さん”って呼んでくれても良いとは思ってるけど」

「ちょっと! 悪い冗談だわ」

「えー、じゃあ、恋人?」


 クスッと悪戯っぽく笑いながら、シンはソフィアの顔を覗き込む。その視線に、盛大な苦い顔でソフィアは「結構です」と返した。


「あなた、ほんっと女たらしね……」

「えー? そんな事ないよー?」

「いや、そんな事なくないでしょ! 好きな人いるクセにいないとか言って、他の女性レディに口説きまがいの言葉を言うとかっ」

「だから、そんな人いないって。それに、口説きまがいって言っても、ソフィアは信じてないんでしょ?」

「当たり前だわ!」

「なら、問題ないじゃない」


 あっけらかんと答えるシンに、怯みつつもソフィアは反論する。


「でも、あの……いるでしょ? あたし知ってるわよ。あなたとすっごい仲の良い感じの女の人……ホラ、テアレムへ行く時にお茶を淹れてくれた人?」

「え? もしかしてミアちゃん? あはは、彼女は違うよ」

「いやいやいや」

「もう、信じてないでしょ。いつ見たか分からないけど、彼女、みんなにあんな感じだよ。あれが普通なの。僕だけにじゃないよ」

「はぁ?!」

「……それに、彼女はだからねぇ。僕が好きになるって事は、今後もないかな」

「――――え」


 思わずまじまじとシンを見ると、彼は視線に気付いて柔らかく微笑んだ。


「僕の義兄あになんだけど僕らと同じ半妖精ハーフエルフでね。初婚は人間の女性とだったんだ。――人間と半妖精ハーフエルフとでは、生きる長さが違う。義兄あにはそれでも彼女と生きる道を選んだんだけど、当然ながら最期を看取ってね。……その後の義兄あにの落ち込みようは、酷いものだった」


 淡々と語りながら、シンは座った手元にある草花を一輪、そっと指でんだ。


「そのまま義兄あには何十年も塞ぎ込んだまま、まるで抜け殻みたいに生きてね。それから、今の奥さんである義姉あねと出会って、ようやく立ち直る事が出来たんだよ」


 小さな野の花を指先でくるくると回しながら、彼は小さく息を吐いた。


「でも僕は……無理かな。――もし愛する人を看取ったとしたら、立ち直れる気がしない」


 あまりにも気持ちの篭もった声音だった為、ふとソフィアは、彼は既に別れを経験したのではないかと思い、何となく聞いてはいけない事を聞いてしまった気になった。バツが悪そうに視線を彷徨さまよわせる。その様子に気付く様子は無く、シンは続ける。


「だから、人間を好きになる事は無いよ」

「……だからといって、“人間以外だから長生き”ってこともないじゃない」


 少なくとも、ソフィアはセラという女医から既に己の余命が少ない事を聞いている。そっと呟く様に、ソフィアは言った。


「人間でも長生きする人はいるし、……半妖精ハーフエルフでも短命の人はいる。種族の平均寿命で、好きになる人を選ぶなんて、ナンセンスだわ」

「……そっか、……そうだね」


 随分間の置いた返答だった為、ソフィアは思わずシンを見た。すると、彼の緑碧玉の色の双眸が真剣な眼差しでじっと彼女を見詰めていた。


「ソフィアは……そうなの?」

「え?」

「人間」

「あ、ああ……いや、あたしが覚えている範囲で知り合いの人間の男性って、宿の店員以外はシアンしかいないわよ」

「…………」

「いや、ないから」


 暗にシアンを好きなのか、と問われた気がして、ソフィアは頬を引き攣らせた。


「そっか」

「一般的な話しよ。あなたが“人間は寿命が短いから好きにならない”みたいな事言うから、そうとも限らないでしょって事を言いたかったの」


 会話を終わらせるべく、ソフィアは立ち上がってスカートについた草を払った。しばし、風に流されて飛んでいくそれを見てから、羽織っていた深緑色の外套を脱いで丁寧に畳む。


「これ、貸してもらって悪かったわね」

「ううん、いいよ。もしまだ外を出歩くなら、そのまま着てっていいよ。僕は神殿に用事があっただけだから、このまま孤児院に帰るし」

「いえ、結構よ」


 シンの手に外套を返すと、ソフィアは踵を返す。そのまま去ろうとすると、シンの声が引きとめた。


「あ、待って」

「? 何よ」

「もう……はぐらかさないでよ。何があったか、聞かせてくれないの?」


 ぎくり、として少しだけ振り返ると、シンはにっこりと笑顔を浮かべた。


「いや……あたし、仕事……」

「見付かったの?」

「を探すという、大事な用事が……」

「そっか。じゃあ、夜は空いてる?」

「そんなの今分からない」

「そうだよね。じゃあ、一応夜、ソフィアの泊まってる宿に遊びに行くよ」

「……はい?」


 シンの言葉の意味を脳がすぐに理解せず、思わずソフィアは聞き返した。


「ソフィアの泊まってる宿に、遊びに行くよ」


 もう一度シンは、念を押すように一言一句違わずに笑顔で繰り返す。


「なんで……?」

「ゆっくり話したいけど、ソフィアは用事があるんでしょ」

「……なんでゆっくり?」

「ソフィアがすぐに話すとは思わないから、かなぁ。 ね?」


 ふふふ、と笑顔のシンだが、何だかその笑顔が腹黒く見えたのは気のせいだろうか。語尾に「口を割らせるためには時間の余裕が必要だよね」とついた気がしたのは、気のせいだろうか。



 ソフィアは頭痛を堪えるように片手を頭に充てた。否、実際頭痛もしてきた。口でシンに勝てる気が全くしない。誤魔化せる気もしなかった。

 色々あって飽和状態の頭で、ソフィアは町へ向かってよろよろと歩き始めた。



 ――因みに、その後ソフィアが町を歩いている間、きっちりとシンがソフィアを尾行して護衛ガードしていたのだが、ソフィアはそれを知るよしも無かった。

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