第2話 奈落の裏側
目を開けると、暖かな木目の天井が視界いっぱいに広がり、ソフィアは混乱した。
(……死後の世界ってあるのかしら?)
全身を硬直させたまま、目を
「目が覚めましたか? どこかお辛いところはありませんか?」
「!?」
唐突に、思ったよりも近い場所から声が掛かり、ソフィアは反射的に身を
(――――あったかい、けど……重っ 何、これ…)
「ごめんなさい……びっくりさせてしまいましたね」
動揺するソフィアの視界に、す、と人影が映った。思わず横たわったまま身構えたソフィアだったが、その人物は他意のない微笑みを浮かべた“いかにも素朴”といった女性だった為、拍子抜けして脱力してしまった。そのまま、掛けられた声に反応出来ず、やや間抜けな顔をしていると、その女性は笑みを深めて胸に手を当て、静かに目礼した。
「申し遅れました。わたしはアトリ。アトリ・レティオーサと申します。エルテナ神殿で下働きをしています」
―――エルテナ神、とは四大神の1人で、豊穣の女神を指す。ソフィアですらおぼろげな知識を持っているほど、メジャーな神様である。
“アトリ”と名乗る女性は申し訳無さそうな顔で言葉を続けた。
「あなたは、この神殿近くの森で倒れていたんです。熱もあったようだったので……その、ごめんなさい。勝手につれて来てしまいました」
意識の無い相手に、勝手も何も……と唖然としてアトリと名乗る女性を見やった。
10代後半~20代前半くらいの年嵩。決して美人ではないが、毒気を抜かれるような愛嬌というか、癒し効果というか……他者が悪意を抱くのが難しい女性に思えた。頬や鼻に、少し目立つそばかすがあるが、どちらかというとチャームポイントではなかろうか。
頭髪は修道服のベールで覆われており、クセの強いはしばみ色の前髪が額に少し掛かっている。瞳はグレーがかった紫色で、悪意が無い事を疑いようも無いほど、無防備に柔和な微笑を
「えっと……」
アトリが何か言いたげに小さく
「……あの、言葉は……わたしの言葉は、分かりますか?」
「いくらなんでも、共通語は分かるわよ?」
躊躇いがちに言われた言葉に、反射的に尖った声が出てしまった。
「わぁ、良かった!」
自分でも可愛くない言い方をしたと思ったのに、それに反してアトリは嬉しそうに両手を胸元でぽん、と合わせて笑った。その柔らかな雰囲気に飲まれたように、ソフィアはぽかんとした顔で固まった。
そんな彼女にお構い無しに、アトリはにこにこと笑顔で言葉を続ける。
「見た事ないくらい、すっごく綺麗なんですもの。もしかして妖精さんか精霊さんを拾ってしまったのかもしれないってドキドキしてたんです! 言葉が通じなかったら不安がらせてしまうんじゃないかと……ああ、良かったぁ~!」
「はぁぁ?!」
予想の斜め上の言葉を聞いて、思わずソフィアの口から間抜けな声が漏れた。
「あなた、いったい、なにを……」
「なにを? ?」
「……ばかな、事を」
「はい?」
きょとん、と目を丸くしたアトリが小首を傾げる。対するソフィアも、内心で首を
――「すっごく綺麗」?
綺麗の定義は自分が知らぬ間に何かとてつもない変化を遂げたのか……いや、このアトリという女性はなんだか抜けている感じもするから、独特の感性を持っている、のかもしれない……?
悶々と頭を抱えつつ、言葉を探して口ごもっていると、不思議そうな顔でアトリは口を開いた。
「本当ですよ? わたし、貴女のように綺麗な方、見た事ありません。それに、こんなに綺麗な銀髪、初めて目にしました。光が当たると、少し青みを帯びているんですね。あとあと! 宝石みたいに透き通っている水色の瞳! 目覚められた時、吃驚してしまいました。本当に、妖精さんや精霊さんなんじゃないかって思ったんですよ!? ……あ、」
てへっ と照れ笑いをしつつ、アトリは続ける。
「でもわたし、妖精さんにも、精霊さんにも、会った事ありませんでした!」
「っはぁあああ?!」
ツッコミが追いつかないんだけど!? と内心で叫ぶ。
人付き合いがほぼ皆無だったソフィアにも分かる。どうやらアトリは、かなり……天然だ。そして、それ以上に悪意が無いのは十分に分かった。
それから、……どうやら、助けてもらったようだった。
(―――そうだ、助けて……)
「!!」
ギクリ、とソフィアの表情が強張る。
「どうかしましたか?」
先ほどのとぼけた様子から一転して、敏感にソフィアの様子を察知した様子のアトリが、やや声を低めて気遣わしげにソフィアの肩に手を伸ばす。しかし、反射的にソフィアは身を引いて彼女の手を避けた。
「な……なんでも、無い。……こ、ここはどこ? エランダの近く?」
「? エランダ……ですか?」
思った以上に、訝しげな声が上がる。
「ごめんなさい。エランダという町…? は、聞いた事がありません」
躊躇いがちにアトリが首を横に振る。
(え、そんなはず……)
自分がいくら全力で逃げたところで、そうそう遠くへ行ける筈が無い。
そう、例え奈落の滝から流されたとしても。
(……―――あっ)
――――いいかい、よくお聞き。
君のいる、この村のずっと北に、「奈落の滝」と呼ばれる場所がある。
そこは「ここではないどこか」に通ずる道だ。
――――よぉく覚えておくんだよ。
唐突に脳裏に、鮮烈に蘇る「誰か」の声。
顔も声色も、性別すらも思い出せないのに、何故か「言葉」だけは記憶に一言一句間違えず思い起こされた。
呆然としたまま、ソフィアは身を起こす。すると、さらり、と肩に光を帯びた銀糸が零れた。これは何だろう、と手を伸ばし
動揺を隠すように、ソフィアは俯いた。
「あ、ベッドにお連れした後、蒸しタオルで清めさせて頂きました。お召しだったお洋服も、今お洗濯中です。今着て頂いているのは、神殿のバザーで用意していた服で……」
「……ここは……どこ?」
激しい混乱に陥ったまま、思わず遮るように掠れた声でアトリに問う。
「あたしは……今、どこにいるの?」
「? 町の名前……という事でしたら、港町クナートです」
ソフィアの只ならぬ雰囲気に、思わず躊躇いがちにアトリが答える。
港町クナート―――聞いた事が無い。
ソフィア自身はあの村で小屋に閉じこもって過ごしていたのだが、ごくごく稀に、数年に一度くらいのペースだったが、小屋の前に食料と数冊の書物が置かれている事があった。
その書物で、ある程度の知識は得ている。
だから、自分の暮らしている世界で――
「ヴルズィアでは聞いた事が無い町だわ…?」
思わず、憮然たる面持ちで小さく呟く。
「え?」
目を丸くしたアトリが更に首をかしげる。
「えと……ヴル…ズィア? ですか? テイルラットでは聞いた事が無い町です。あなたの故郷の名称ですか?」
「えっ」
何度目かの、「思わず」で、またソフィアの声が漏れる。
テイルラット……それも聞いた事も、書物で見た事も無い名称だ。
いよいよ動揺を隠せない様子のソフィアに、おずおずと、アトリが述べる。
「あの……この「世界」の名前はテイルラット。そして、このエルテナ神殿があるのは、中央大陸北に位置する、港町クナートです。……ご存知、ありませんか……?」
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