螺旋のきざはし

hake

第一章

第1話 はじまりのおわり



 いつからが始まりか、覚えていない。


 そして、いつ終わりが来るのか、分からない。



「死んだよ」



 薄暗い、朽ちかけた小屋の中。


 辛うじて壁としての役目を果たしている板の隙間から吹き込む寒風に混じって聞こえたその言葉に、彼女は薄く瞼を上げた。


 ――眠っていたわけではない。

 だが、身じろぎする事も、上体を起こす事も、あまりにも億劫だった。


 視界に映るのは、崩れかけた天井の向こうから差し込む月明かり。それに照らされてぼんやりと浮かび上がる自らの手。床板の隙間からひょろりと伸びる草の葉。


 そして、壁の板目の間から見える向こうの、声の主と思わしき人影。



 何と反応すべきか……否、反応して良いものか判断がつかず、彼女はゆっくりと身体を起こした。




* * * * * * * * * * * * * * *



 彼女の名前はソフィア。姓は自分でも分からない。


 自分の年齢も、自分の顔立ちも分からない。


 髪の色は薄い白か銀の様だが、自身の存在を自覚してから梳いた記憶も無ければ、もちろん洗った事も無い為、何だかよく分からない色をしている。


 そんな彼女は、物心つく頃には既にこの小屋で生活していた。食べ物を与えられる事などもちろん無い為、あまりのひもじさに小屋の外へ出た事もあるが、小さな村――と思われるここ・・に住む人々は、まだ幼い彼女を、まるで「いないもの」として視界に認める事は無かった。

 それはあからさまに意図的だった為、彼女はいつの頃からか誰に教えられるでもなく、外に出る時は日が落ちてからなど、なるべく人目を避けて行動するようになった。

 その為、食事は主に夜、村のゴミ捨て場の残飯を漁る日々だった。野良猫と残飯を奪い合う事もしばしばあり、痛い目にもあっている。ヤツは武器(爪)を持っている。幼い子どもだからといって、容赦する事なく威嚇し攻撃してくる。だからソフィアは、猫は苦手だ。――苦手というより怖い。



 単調な日々は時間の感覚を失わせた。


 けれども、ある一定の時が流れると、板壁の隙間から異様に凍える空気が入る事に彼女は気が付いた。


 その寒い時期は一定期間あり、その間、ソフィアは何度も体調を崩した。――それは“冬”という名の時期だった。


 その時期は、何度も「死」を近くに感じた。その度にソフィアは死神に手を伸ばした。だが、死神すらソフィアの手を取ってはくれなかった。

 結局、ただ身体が苦しいだけで、「何だか損なだけだ」と理不尽さを感じて以降、彼女は寒い時期の始まりを感じ取り次第、落ち葉や藁で出来る限り防寒する事にした。


 そして、冬を1つ越える度に、床板に爪でしるしをつけた。



 こうして、基本的に他者と関わる事無く時が流れたのだが、そんな中、ごく稀にこの小屋へ自ら赴く男が1人いた。男はソフィアの「父親」だった。――「母親」は、ソフィアがまだ幼い頃に、この土地に置き去りにして逃げたのだ、と、いつの頃か――床に付けた”しるし”がまだ2つか3つの頃に、板壁の向こうで誰かと誰かが声を顰めて、そんな事を話しているのを聞いた事がある。

 ――それは、あからさまに嫌悪に満ちた密やかな声だったのを覚えている。


 訪ねてくる男は“父親”だったのかもしれないが、彼が来る理由は”ソフィアに会う為”ではなかった。その代わりに、彼はやってくる度に壁板の隙間からソフィアが生きている事を確認し、――そして顕著に落胆し、去って行く。


 その度に”自分は望まれて存在しているのではない”という現実を嫌でも思い知らされた。



 ――ならば、何故こうして“生かされて”いるのか。


 その始まりは何なのか、終わりはいつなのか……



 分からないまま、漫然と時は流れた。



* * * * * * * * * * * * * * *



 そうして、床板のしるしが10を越えた頃。


 ある時を境に、“父親”と思われた男はパッタリと小屋に訪れる事がなくなった。



「死んだよ」



 小屋の外から、中にいるソフィアへそう告げた声は、年老いた女性のものだった。


 その老女は、奇妙に平坦な声音で言葉を続ける。



「流行り病だなんて……あんな肩身の狭い思いをし続けて、こんな馬鹿な、可哀想な事はないよ。――――あぁ、本当に……本当に、お前さえいなけりゃ、こんな事には――」


 苛立ちの混じった怨嗟の声だった。


「なのに、なんでまだお前は生きてるんだ……!?」


 それを聞きたいのはこちらの方だ、と思ったが、口には出さずに黙り込んで俯く……と、その拍子に乾いた咽喉が詰まり、小さく咳き込んだ。その“咳”に呼応する様に、老女はひゅ、と息を飲んだ。


「! ……お前……、そうか……お前……お前が……!!」


 声を震わせ、うわ言のようにブツブツと呟いたかと思った直後、


「お前が元凶かァ!!!」


 老女から怒号の様な、悲鳴の様な、おぞましい喚き声が上がり、反射的にソフィアは立ち上がった。



「みんな! みんな来とくれ!! こいつだ! この”人間のなりそこない”が逆恨みして、うちの村に病を振りまいてんだ!!」


 板壁の隙間から、外が見えた。月明かりの元、白髪を振り乱した老女がこちらに背を向けて、明かりの灯る家々に向かってわめき散らしている。


「もういいだろ! もうたくさんだ!! はやくどうにかしとくれ!! はやくはやく、はやく……!!!」



 何が、どうして、どうしたらいいか分からず、ただ半狂乱の老女の姿と、遠くで揺らめきながら近付いてくるいくつもの松明の灯かりが、どうしようもなく恐ろしくなり、ソフィアは後ずさる。



「そうだ、火だ! 松明を持って来とくれ! 小屋ごと焼き払うんだ! 誰かはやく!!」


 狂ったような老女の声が続いている。



 ――もう、駄目だ。


 真っ白な頭の中で、ぽっかりとそんな言葉が浮かんだ。


 その瞬間、ソフィアは弾かれたように小屋から飛び出し、我武者羅がむしゃらに走り出した。



* * * * * * * * * * * * * * *



 どこをどう走ったか。



 骨に張り付いた皮だけの様な、枯れ枝の様な足が、こんなに走れるとは思っていなかった。


 恐怖のあまり、ただ身体が動くまま月明かりの元、村を背に全力で走り続けた。


 ――だが、十数分走ったところで、足を止めざるを得なくなった。



「――!!」


 崖だ――――そして、その先は滝だった。ぎりぎりで踏みとどまったが、あと数秒、気づくのが遅ければ落ちていた。

 ぜぃぜぃと咽喉で息を切らしつつ、呆然と滝を覗き込んだが、水の落ちる先は闇に吸い込まれるようで見えない。



(……”奈落の滝”だわ)


 いつか、“誰か”が言っていた気がする。


 村のずっと北に”奈落の滝”と呼ばれる場所がある、と。

 その滝は、”ここではないどこか”に通ずる道である、と……。


(”どこか”……って、……?)


 酸欠の頭で滝の先の闇を眺める。―――と、その時。


「こっちじゃないか!?」

「クソッ 村の外に出すなんて何て事を」

「さがせ!」

「松明で暗がりを照らせ!」


 近く、遠くで、成人した男の野太い声がいくつも上がった。

 思わず、ビクリ、と肩が跳ねる。



(――――怖い。


 怖い、怖い、こわい……いやだ、もう……どこでも、いい、から―――!!)



 そして、思考が停止した。



 ゆっくりと身体が、自然と傾く。



 そのまま―――ソフィアの身体は宙を舞った。

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