双剣の手入れは水瓶で~Care of the twin sword in Aquarium~
八家民人
第1話 旅の休憩は土産物屋で
七月二十六日
車は高速道路を降りて国道を走っていた。運転手である堀田は苛立っている。このドライブの出発から、かれこれ二時間半、ずっとこの調子である。
理由について、堀田は自覚があった。助手席でリクライニングを倒してタバコを吸っている男が原因だ。
堀田は私立R大学土木工学科の四年生である。専門は地盤工学であり、先日R大学の大学院入試が終わったばかりである。
堀田は研究者になることを目標にしている。そのためには修士号のみならず、博士号も摂ることが、現時点では必須である。就職してから取りに行くプランも考えたが、最終目標が研究者であるならば、そのまま進学の道を進んだほうが手っ取り早いと考えた。さらに学部時代の成績が良かったため、推薦入試の資格をもらえることができたということもその考えを後押ししたと言える。
R大学の大学院推薦入試は学部時代の成績と面接で評価される。成績はすでに出ているため、面接の準備をしておけばよい。推薦入試で大学院に進んだ同じ研究室の先輩に面接指導をしてもらい、無事に乗り切ることができた。
その時に指導をしてもらったのが、隣にいる居石要である。面接をしてもらってこんなことをいうのも申し訳ないが、この男は非常にちゃらんぽらんである。まともに研究室には顔を出さない。基本的に実験室に直接向かいそのまま帰っていくのである。まあ、これくらいの事なら理系で実験系の科目を専門とする場合、日常と言えなくもない。しかし、ゼミの時間に遅れることや、研究室の学生だけの飲み会では暴れまわり、お店を研究室単位で出禁になるような男である。そんな男であるが、成績は優秀であり、また遅れてきたゼミに出ても適切なコメントをして、実験や論文なども精力的に行っているから、教員からの評価がすこぶる高い。
そういえば、居石は日本語のチョイスが若干怪しい時がある。ある日、教授が学会に出かけるので、お手伝いを募集していたところに居石が手を挙げた。その際に、「是非帯同させてください」と言ったのだ。普通に、連れて行ってくださいとか、せめてお供します程度ならまだわかるのだけど。そんな調子だから研究室内も何とも言い難い空気になることがあった。
実際はこのような日頃の行いもあるためにトントンの評価だと思う。日頃の行いを正せばもっと評価されるのではないかといつも思っている。
この男が現在自分の気分が苛立たせているのである。時間は二時間半前に遡る。
その日は、朝九時には起床して、朝食を作っていた。いつもならば、八時には起床して、身支度のみ整えて大学に向かうところである。それには理由がある。前日に夜遅くまで実験をしており、下宿先に帰ったのは深夜三時過ぎだった。最近はこの近辺で事件が起こっているようで。大学側からは夜遅くまでの研究活動は控えるようにと注意がされたが、正直知ったことではない。何かあったら逃げればよいのだ。
下宿先に風呂には入ってすぐ寝たが、実験結果の事を考えると深く眠ることは出来ずに、結局いつもより一時間遅い起床となった。この時期は大学の前期定期試験の期間であり、授業のお手伝いなどの雑用はほとんどなくなる。試験監督などは大学から依頼が来るがほとんどが大学院生を対象としており、学部生が出る幕はない。
堀田が所属している地盤工学研究室はゼミなどの決められた日に参加できれば、毎日いる必要はないのだ。それを免罪符にするつもりはないけれど、たまにはゆっくりと研究室に向かうのも良いだろう。そう思って、フライパンに卵を割っていれていると、玄関のチャイムが鳴った。
堀田の部屋は六畳のワンルームで、キッチンのすぐ脇にドアがある。チャイムが鳴ったなと思って顔を向けたのだが、すでに玄関扉は開いていた。
「がくちゃん、いる?」
そこには背の高いアロハを着た居石要が立っていた
「いるわ。見ればわかるでしょう?というか、なんで勝手に開けているんですか?」
フライパンの火を止めてなかったのですぐに止める。
「え?鍵開いていたよ?」居石はビーチサンダルを脱いでずかずか室内へ上がっていく。
「鍵開いていたら自由なんすか?というか、数秒でくつろぎすぎでしょう?」
居石は、すでに室内で足を投げ出しながらテレビのニュースを見ている。
「がくちゃん、お腹すいた」居石は目線を合わせずに堀田に言った。
「そういうのは家で自分の母親に言ってください」
「そう硬いこと言うなよ。朝飯の準備していたんだろう?えらいなぁ、俺は絶対にできないわ。流石、研究室の女房役だな」
「かってに女房役にしないでください。そう思っているのは要さんだけですよ」
そうはいっても、すでにフライパンの火を入れ直し、冷蔵庫からもう一つの卵を取り出している自分が嫌になる。しかし、そんなこと言っても憎めない先輩であることに変わりはないのだ。
「女房役は、お断りさせていただきますけど、朝飯は準備しますよ」
「がくちゃーん、ありがとうねー」手をヒラヒラさせながら居石は言う。卵の殻でも入れてやろうかな。
「それにしても珍しいですね。こんなに朝早いなんて、今日は雪でも振るんじゃないっすか?」言える限りの嫌味を言ってみる。
「え?」居石はカーテンを開けて外を見る。
「がくちゃん、昨日遅かったからあまり寝てないのか?外は真夏だぞ?」
堀田は天を仰いだ。
ここで追従しても良いことはない。
「ええ、そうかもしれないっすね。あなたの修論のテーマの一部になる実験で非常に大変でしたし、実験が順調に行きかけたところであなたの指示であの時間になったからあまり寝てないのは間違いないですね」
今度は直球を放り込んでみた。
「そう。あのままがくちゃんの手順で進んでいたら、間違いなく荷重のピーク直後で試料が使い物にならなくなっていたと思うよ。俺が知りたいのはその後の挙動だからさ。申し訳ないけど口出しさせてもらったよ」
「全くぐうの音もでないわ。ごめんなさいね。朝食ぜひ食べて行ってください」
テーブルにベーコンエッグを二人分とご飯とインスタントの味噌汁もおまけした。
しばらく皿の上の料理を片付けた。一息ついてから、気になっていたことを聞いてみた。
「で、要さん、何の用ですか?
「うん、あのさ、車出して」
「は?なんで?」
「今日俺さ、現地調査だったでしょう?」
「そういえばゼミで言っていましたね。先生とあと三人と行くのでしょう?」
「そうそう、だからさ、今朝駅に向かっていたのよ」
無言で居石にお茶を注ぐ。
「そしたらさ、運河渡る橋の上で女の子とぶつかってさ。ほらテスト期間だろう?で、一限のテストに間に合わなくなりそうで急いでいたんだろうな。それがスゲーかわいい子だったんだよ。しかも土木の三年生だっていうじゃん?いやー運命とはこのことを言うんだよね」
「それで?」
「ちょっと親交を深めました」
「そうしたら?」
「電車に遅れました」
「あんたがすべて悪い」
「仰るとおりです」
そこは平身低頭である。
「だから?」
「車出して、調査現場まで送ってって」
「なぜそうなる?」
「いや、ここに来るまでの間で、もう教授に堀田の車で送ってもらうから現地集合ということにしましょうと伝えておいた」
「そういうところ外堀埋めるのが早いな。もう行かなきゃいけないじゃないですか」
「そうなっちゃうかなぁ。まぁ小旅行ということで行こうよ」
いつでも簡単に言う男だ。
その後は渋々了承し、皿洗いなどを済ませ、引きずられるように車に詰め込まれ、現在に至る、ということである。
堀田の下宿先から車で出て高速道路に入り、定番のようにサービスエリアに立ち寄って(居石は)十分に楽しんだようだった。ちなみに二時間半経った現時点でも、一度も運転を交代することなく高速道路から国道を走っている。
横目で居石を見ると、先程と同じような姿勢で、禁煙ですよと注意したにも関わらず吸っているタバコの煙を窓の外に吐き出していた。
「ちょっと一ついいですか?」若干声を強くして、怒りの感情を込めてみた。
「何?」
「先輩、決して気を遣えと言っているわけではありませんが、運転代わろうか?の一言でも言っていただけると、こちらとしても心象が違うのですが・・・」
「俺免許持ってないから」
「まあよくサラリと言ってのけましたね。それでも良いですけど、それ以外でもこう労わってくれるような」
そこまで言うと居石がその発言を遮るようにして、
「すまん、眠いから寝るわ」と言い、目を閉じた。
これは道の真ん中で車から蹴り捨てても、きっと誰からも文句は言われないのでは?寝覚めが悪いだろうからしないけどな。
国道をしばらく走り、ナビに従って山道に入る。最終的な目的地はナビには表示されていないが、目印となる近くの場所まで行くようにセットしてある。
上り坂でかつ曲がりくねった道をゆっくりと慎重に走行していく。
「要さん?ちょっと良いですか?」堀田は大きめに声をかけた。
「んあ?着いたの?」居石は顔に置いていた麦わら帽子を外して目を開けた。
「がっつり寝ていましたね。そろそろナビの終わりなので、案内してもらえますか?」
「はーい」そう言って身体を起こした。
「今更ですけど、先生たちが宿泊する宿に向かえば良かったじゃないですか?」
「さすがに遅れてきて宿に荷物置いてきました、じゃ筋が通らないだろう?直接現場に向かいたいんだよ」
確かにそうだ。考えているんだな。
「わかりました」素直にそう言った。
車は緑のトンネルを縫うように進む。天気はあいにくの曇りだが、車の窓を開けてみたくなった。きっと新緑の良い香りがするに違いない。
ハンドルを右に左に切っていると、右手前方の視界が開けてきた。その途端、緑の風景の中に異質な形状をした、鈍色の塊が視界の大半を占めた。
「うわ、すげぇ。ダムだ」思わず口から出てしまった。
「おお、やっと見えたな」居石は身体をダッシュボードまで傾けて言った。そろそろ見えることを知っていたようだ。
「結構大きく見えるな」つぶやくように言った。
「あれ?がくちゃんダムを見るのって初めて?」
「そういえば、そうですね。初めてだと思います」
「そうか、意外だな。土木工学を学びに来たくらいだから、子供の時とかに大きなダムを見て目覚めたとかが王道の気がするが」
「土木を学びに来る人のほとんどっていうわけではないでしょう?」
「でも、それぐらいの力はあると思うよ。土木構造物にはさ」
その意見には賛同する。
確かに。土木構造物はその大きさからなのか、存在理由からなのかわからないが、得体のしれないエネルギーみたいなものを感じるときがある。それを造るために動員された人の意志の集合体として存在するかのようにも思える。それだとエジプトのピラミッドも同じように感じるはずだが。堀田はあまり感じたことはなかった。だとすると、そう感じる要因はまだあるのだろうか?多くの人に使われている、つまり造る時の人のエネルギーと使っている人のエネルギーとの合算ということだろうか?
まあ、そんな簡単にわかるものでもないか。
「せっかくだからさ、風景の良く見える所で車止めようよ」目をキラキラさせている先輩は無邪気な提案をする。
「時間、いいんすか?」
その意見に半分同意はしていたが、一応自分の仕事を全うしている意思を見せる。
「少しくらいなら大丈夫でしょう」
そういうと思ったよ。
少し車を走らせると、谷側になっている右車線に待避所が見えた。通常より広く見えたので、車線変更してそこに停車した。
「やっぱ山の上に近くなると寒いな」居石は肩を抱くようにしてさすった。
「そうですね。意味なくアロハ着ているからですよ」
「夏はアロハだろう?」
「意外と形から入るのですね」
「まず型から入るだろう?武道だって最初にやるのは型だよ」
「夏の型はアロハですか?」
その発言は無視して、居石は運転席側に回った。
そのままガードレールに身体を預けるようにして、谷側を覗き込んだ。
つられて隣に自分も立つ。眼下に深く落ち込むような岩肌が見えた。右側を見るとしばらく谷が続いている。谷の両脇には道路があり、先程自分体の走行してきた道も見えていた。
左に目を移すと、どっしりと構えたダムが見える。この位置からでは、ダムの全面のみで後ろ側までは見ることはできない。ダムの正面より左寄りに位置している場所である。
「怖いなー落ちたらひとたまりもないな」居石が谷底を見ながら言った。
「そうですね。百メートルくらいはありますかね」
「百三十とか百四十メートルくらいじゃないかな」
「良く分かりますね」居石を見る。
「ダムの高さが百四十メートルなんだよ。今目線と同じくらいの高さにダムが見えるから多分それくらい」
なるほど。
「あれってなんていうダムなんですか?」
「あれは軍持ダムだな」
「ふーん、有名なんですか?」
「何をもって有名っていうのかわからないから何とも言えないな。お前が知らない時点で有名ではないと思うし」
「いや、なんていうか、黒部ダムくらいなら俺でも知っているのですけど、軍持ダムは知らないんですよ」
「ダムって都心にはないからな。ダム見に行くかって言って出かける人間なんて、そうそういないだろうし。あ、一部のダムマニアだという人は行くか」
「そうですか。そこまで有名というわけではないのですね。それにしても、実際に見ると圧倒されますね。ダムに魅せられる人の気持ちはわかりますね」
「そうだろう?これを実際に見ることができただけでも今日車を出した甲斐があるってもんだろう?」居石は腕を組む。
「勝手に正当化しないでください」うんざりしながら言った。
「でも、このダム、面白い形をしていますね。見たことないな。黒部ダムが二つつながっているみたい」
軍持ダムを見ると、奥に向かってカーブを描くように湾曲していた。そのカーブが二つ並ぶように繋がっているような構造だった。
「がくちゃん?お前さ、ダムの勉強した?よく学内推薦取れたよな」
「そこは言わないで・・・勉強してしっかり覚えたと思うのですけど、忘れるのも早いんですよね。良い機会だから教えてもらっても良いですか?」
「忘れるっていうのは人にとって重要な能力だからな。話しているうちに思い出してくるかもしれないな。じゃあ、ダムの目的ってわかるか?」
「ああ、それはわかります。治水や利水ですよね?」
「そうだな。治水つまり下流の河川水量の調整だったり、利水つまり上水道用水や工業用水の供給とか水力発電もそうだな。それと治水・利水両方の目的を持つ多目的ダムっていうのもあるぞ」
「なるほど。軍持ダムはどちらですか?」
「確か治水ダムだったかな。じゃあ次だが、ダムの形式は覚えているか?」
「あー覚えていたんだけどな・・・忘れていますね」
「俺も授業で覚えたものしか知らないから、他の形式もあると思うけど、まず、大きな分類として、コンクリートダムとフィルダムに分けられる」
「軍持ダムは、見たところコンクリートダムですね」
「そう。フィルダムっていうのは、土砂やら岩やら積み重ねた構造を持っているダムだ。さらに水を通すかどうかで分かれるが、説明は割愛するわ。気になったら自分で調べて」
手をヒラヒラと振る。
「コンクリートダムは、まぁ一般的には、重力式とアーチ式に分かれるな。重力式はダム自体の重さを利用して水圧に耐えるっていう構造だ。単純な形式だな。ただし、水圧に耐える必要があるからコンクリートが大量に必要になる。まあこの時のコンクリートって普通の建物に使われるようなコンクリートとは違うんだけどな」
「確か・・・砂利が大きいのですよね?」
「正式にはちょっと違うけど、そうだな。コンクリートに使われる骨材、その中でも粗骨材の石の最大寸法が普通は二十ミリとかそれぐらいだが、ダムコンクリートになると最大寸法が八十ミリくらいになる。ダムコンクリートに必要な性能としては、ざっくりいうと強度と水密性だから、それくらいの最大寸法になるのは仕方ないね。ダムコンクリート自体の話になると、俺より合六の方が詳しいから、これも割愛な」
「割愛多いっすね」
「学ぶ余地があると言え。人から聞くより自分で調べたりした方が確実に残るからな。それにお前が忘れたとかいうから話しているんだ。話のメニューについては一任しろ」
「すみません」これは素直に謝罪する。
合六というのは、コンクリート工学研究室の修士一年の合六菜々子の事である。居石の同期である。堀田も学内で見かけたことがあるが、常にジャージで過ごしており、下宿先からその格好で登校している。居石に聞いたところ、そのまま実験できるようにとのことだ。詳しく話したことはないが、きっと居石と同じ変人の部類だろう。
「次がアーチ式ダムだ。軍持ダムと同じだな。有名なアーチ式ダムは黒部ダムだな。岳ちゃんも知っているくらいだし。この黒部ダムだけど、ダムの水を水力発電に使っていて、その発電所の名前が黒部第四発電所っていうんだ。だから黒四ダムって呼ばれることもある」
黒部ダムは、映画やドラマなどでも題材になっていることが多く、堀田も映画で知った。
「このアーチ式ダムは、ダムの真上から見ると、アーチを描くような構造になっていることから、その名称がつけられているんだ。ダム本体にかかる水圧を河川両側の堅い岩盤で支えるような構造だ。アーチ式の橋梁と結局同じだな」
堀田は頭で思い描いてみた。眼鏡橋のような橋がパタンと倒れて水を堰き止めている様子を想像した。なるほど、橋梁の場合は人間の重さをアーチで耐えており、アーチ式ダムの場合はそれが水に置き換わったというわけか。
「ちょっとここからではわかりにくいんだけど、河川を横断する方向にしかアーチが出来ていないように見えるよね?でも、高さ方向にもアーチが形成されているんだ。だから、ダムを横に切断しても縦に切断しても、切断面はアーチになっている」
「良く分かりました。でも、俺が見た黒部ダムの写真だと、アーチはひとつだけだったと思うのですけど、軍持ダムは見た限りアーチが二つありますよね?」
「おう、この軍持ダムはマルチプルアーチダム形式になっているな。アーチが複数連なっているダム形式さ。日本だと他には香川県の豊稔池ダムと宮城県の大倉ダムかな。豊稔池ダムは五連のアーチ式ダムなんだ。それで言うと、軍持ダムは二連のアーチ式ダムだね」
そういうと、居石は堀田を見た。
「この軍持ダムはな、黒四ダムの形式と似ているんだ。わかるか?」
「わかりません」
「早いよ。もう少し考えろよ。いいさ。あのな。黒四ダムと同じように軍持ダムはウィングを持っているんだ」
「ウィング?飛ぶんですか?」
「それ本気で言っているの?怖くなってきたよ。そうではなくて、ダムの形式の話だ」
「さっぱりです」
「さっきアーチ式ダムは河川の両側の岩盤で支えるって言ったろう?その岩盤の強度が十分でなかった場合はどうするかってことなんだ。その場合、そこに岩盤となる部分をコンクリートで作ってしまうんだよ。重力構造物にしてしまうってことだな。だから岩盤部分からウィング部となるコンクリートの塊が出て、そこからアーチが開始することになる。良く黒四ダムの写真を見てみろ。アーチの両側は岩盤ではなくて、コンクリートのウィング部になっているはずだから」
「それは知らなかったです。よく見てみます。そういえば黒部ダムと同じように放流ってあるんですか?」
「ああ、この軍持ダムでもあったはずだぞ。確か・・・」そういうと居石は目の上に庇を作って軍持ダムをじっと見た。
「あった。ほら、右岸の中央付近にボコッと突出している大きなパイプがあるだろう?あれがコンジットゲートって呼ばれるものだ。ま、バルブで通るけどな」
どこに通るのだろうと思ったが黙っていた。
「あのバルブは黒四ダムにも設置されているよ。黒四の場合は両岸に一つずつだな」
「なるほど。でも放流ってショーみたいなものなのでしょう?」
「全然違うわ。特に治水ダムの場合は、大雨の時とか、異常な出水時にダムで水を一旦堰き止めて、調整して流すんだ」
「でも黒部ダムだと、水が分散されてバルブから白い滝のように噴出するじゃないですか?あれって見栄え良くしているのですよね?」
「それも違う。単純に水を放出するとどうなるか想像できるか?何度も水が地面に叩きつけられることになるわけだよ。だから地面が抉れるんだ。そうするとダムの倒壊に繋がるだろう?だから水を分散させて霧状にして放出しているんだ」
「そうだったんですか・・・全く知りませんでした」
「本当に良く推薦取れたよな」
そう言うと、居石は堀田の肩に手を置いた。
「逆に言えば、まだ伸びしろがあるってことだ。がんばろうな」
何も言えなかった。推薦の件は確かにそうだと思った。そして、伸びしろについては、そうですね、と言い切ることは出来なかった。自分は土木が好きなのだろうか?この人はちゃらんぽらんだと思うけれど、自分の興味に従って、純粋に学問をしているのではないだろうか。
堀田はふと、何もない原っぱで向い風を受け、立ち往生している自分の姿を想像した。
空は乳白色、空気が妙に粘性を帯びている。
目線の先には居石がいる。
風に向かって、時にはよろめきながら、それでも一歩ずつ前に進んでいる。
その差は、開くだけである。
「がくちゃーん」
その声で我に返る。隣に居石はいなかった。声のする方に顔を向ける。居石は車の助手席側からボンネット越しに声をかけていた。
「大丈夫?ぼーっとしていたぞ。そろそろ行こうか。天気も悪くなってきた」
そんなことに意味は無いって頭では理解していたが、堀田は走って車に戻った。
車はさらに進み、ダムの脇を進む。道の途中で右折することができ、ダムの上を進む道もあった。ダムの上を通って、反対側に進むことが出来るらしい。さらにその脇、ウィング部にはダムの管理事務所だろう建物があった。車はそちらには向かわずにまっすぐ進んだ。次第にダムが貯めている水の水面が見えてきた。
「ダムが貯めている水は、当たり前だけど莫大な量になる。その貯めてある水が、あたかも湖のようになっているからダム湖なんて呼ばれている」
それは堀田も覚えがあった。いわゆる人造湖の一つだったはずだ。
そのまま車はダム湖を右手に見るように道なりに進む。細かい雨がポツリとフロントガラスを叩き始めた。
「今の時期とか、ボートに乗ってぼんやりしていたいですね」
「太陽が出ていれば気持ち良いだろうな。でも多分ダメなんじゃないか?良く知らないけれど」
その時、ダム湖の端側、ダム本体向かって左側に近い部分にぽっかりと穴が開いていることに気が付いた。運転中なので、チラっとだが。
「居石さん?」
「ん、何?」
「ダム湖にぽっかり穴が開いているんですけどあれ何ですか?」
居石は振り返って見る。
「ああ、あれはダム穴だな」
「ダム穴?」
「そう。水位が一定以上にならないように余分な水を下流側に流す装置なんだ。要は余水吐きだな」
「ああ、水が多くなるとあの穴に流れるってことですね。さっきのバルブでしたっけ?それとは何が違うんですか?」
「そう。ダム穴のような機能を持ったものを称してクレストゲートっていうんだ。これは異常洪水時にダムからの越流を防ぐことが目的だ。非常用だな。さっきのコンジットゲートは目的としては同じで、非常用でも使われるけれど、一応常用の洪水吐きとして使われる」
居石はまた振り返って確認するように見る。
「しかも、グローリーホールだな。俺も初めて見るわ」
「グローリーホール?栄光の穴?」
「タイガーマスクの虎の穴みたいな響きがするな。でも違う。この場合のグローリーは朝顔だ。ダム穴は円筒形の管が突き刺さっているような形状をしているんだけど、流入部は朝顔の花のように広がっているんだ。そこから名前が付けられている」
「へー面白いっすね」
「そう。日本ではほとんどないのではないかな?アメリカとかでは良くあるみたいだけど。俺も動画サイトでしか見たことないな」
「動画サイトでそんなの見ているんですか?」
「他に見るものあるのか?」
価値観の違いは日常のこういうところからも垣間見える。
軍持ダムのダム湖の周囲を車で進む。途中、短い橋を渡り、軍持ダムの本体裏側が見えるような位置に来た。そのころには雨粒が目立つようになってきた。
「このまま進むんですよね?」
「そう。それで山の向こう側に現地調査の場所があるから」
「もうちょっとですね」
「ダムって中を視察できるんだよな」
「どこの大臣ですか。それってダムの中を見学てきるってことですか?」
「そう。内部も面白いと思うんだよ。実はまだ中は視察できていないんだ」
その途端、一気に雨が降り注いだ。堀田は慌ててワイパーの速度を上げた。
「うわ、ちょっとひどいな」
車の走行による水しぶきがサイドガラスから見えるまでになった。
「ちょっと移動が怖いな。ダムがあるくらいだから、危険な地滑りは起きないとは思うけれど。あ、がくちゃんあそこ」居石が指差す。
ワイパーが高速で動く、その間から建物が確認できた。入口は道路側に面しているから建物がダム湖に背を向けている形になる。
「ちょっとあそこに寄ろう。雨宿りだ」
名案である。
視界が悪かったが、何とか建物の立地スペースに車で侵入できた。広さからして駐車スペースも兼ねているのだろう。見ると車が二台駐車していた。
「あの要さん、申し訳ないのですけど、お店の人にどこに駐車したら良いか聞いてきてもらえませんか?」
「俺が行くの?」
「よろしくお願いします」
「まあ、しょうがないか。じゃあ行ってくるよ。ついでにダムの視察についても聞いてくるわ。知っているかもしれないから」
「見学ね。変な日本語は使わないでくださいよ。恥ずかしいから」
言い終わる前に、助手席のドアが開き、居石は駆け出して行った。
堀田は、居石が帰ってくるまでに観察してみた。どうやらこの建物は観光地にあるような土産物屋のようであった。入口の上に看板が掲げられており、『あくえりあす』とひらがなで記載されていた。
「ダム湖のほとりに水瓶の名前を持つお店か。できすぎだな」ぼそっとつぶやいた。
しばらく待っていると、店先から居石が上半身を出した。居石は手で駐車している車を指し示す。隣に駐車しろと言うことだろう。雨足がさらに強まる中、堀田は駐車した。
運転席を出て、この雨では意味は無いのだが、頭を手で覆うようにして足早に店に入る。
「いやー大変な雨になった」体に着いた雨を手で叩くようにして落とす。
「お疲れ様」居石が言う。
店内を見ると、いわゆる観光地のお土産屋である。入り口に入ってすぐのスペースには椅子やテーブルが並べられており、休憩をとることが出来るようだ。居石もそこに腰を下ろしていた。そのスペースの脇には飲み物の自動販売機が二台並んでいる。その奥に饅頭やらご当地コラボしたよく大学でも見かける種類のお菓子が並べられている棚があった。棚が並べられているスペースの奥にレジがあり、そこに通常は店員がいるのだろう。堀田が入ったときは店内に誰もいなかった。
「要さん、店員さんは?」
「ああ、駐車場所を聞いたときには若い女の店員さんとこのテーブルにおじさんが座っていたんだけどな。ダムの視察の事を聞いたら、ちょっと待っててくれと言って、二人で二階に上がっていったんだ」そういって店の奥、レジの右奥を指示した。確かにそこには二階へと続く階段が見えた。
「だから見学だって言っているでしょう?変な人やってきたと思って逃げたんじゃないですか?」
「そんなことねぇよ。通じたからちょっと待てって言われたんだろう?」
それは違うだろう。
そうは言っても、誰もいなくなっていることには間違いがない。
しばらく雨宿りさせてもらいたいということだけでも伝えたいところである。
ただでと言うのも申し訳ないと思い、何か小腹を満たせるようなお菓子が無いかどうか店内を回ってみることにした。そのことを居石に伝えると
「そうだな。俺お金出すからなんか探してきてくれる?千円分くらいかな?二千円くらいなら出しても良いから」とのことだった。
うろうろ店内を歩いていると、入口からは棚などがあって見にくかったが、レジ付近に近づくと気づいたことがある。レジを正面に見た時の左手の壁に扉がある。その扉の上には『喫茶アクエリアス』と書いてあった。どれだけ水瓶に愛着があるのだろうか。さらにレジから見て右手、階段のそばに既視感の覚える暖簾が二枚かけてあった。
文字が書いてあるわけではないが、紺色と朱色に分かれたその暖簾はまさしく温泉あるいは銭湯のそれだった。
「要さん、ここ面白いっすね。店の中にお風呂がありますよ」帰ってきて居石に報告する。
「え?マジで?入り口付近からは見えなかったな。入って行こうか?タオルとか貸し出しあるかな?」
「自分の発言で店員とおじさんが消えたのに呑気ですね」
「まだ気にしているのかよ?二階に行っただけだろう?細かすぎると女の子に嫌がられるぞ」
「そういうことは言わないでください」
デリカシーという言葉が頭の中にない先輩と話していると、階段側から音が聞こえた。
そちらの方を見ると、三十代くらいの女性が降りてくるところだった。
「お待たせしました。そちらは車を運転されていた方ですね?」
「あ、はい。すみません。ちょっと外があんな雨なので、雨宿りをさせてもらえないかと思いまして」
そのことを伝えると、その女性は困ったような顔をした。
「大変なところ恐縮なのですが、この店は二階に宿泊施設も兼ね備えているのです。それで今数名のお客様がいらっしゃるので、ちょっと・・・」
つまり嫌だということか。なんて無慈悲なことを言うのだろう。それに何が問題なのか良く分からなかった。同じ理由でお土産を買いに来たお客も帰らせるのだろうか?
その女性が言い淀んでいると、階段からまた人が降りてきた。
「美紀ちゃん、良いんじゃないかな?」
見ると長髪のほっそりとした男が降りてくるところだった。ネルシャツにジーンズという服装が似合っている。堀田や居石よりも十歳くらいは上だろうか?
「西田さん」
美紀と呼ばれた女性が言った。
「僕らなら全く問題ないよ。それに」と言って、階段脇の壁にあった窓から外を見た。
「この雨のなか放り出すのは可哀想すぎるだろう」
「西田さんがそうおっしゃるなら」美紀さんがしゅんとして言った。
「田辺さんも仁科さんも問題ないそうだよ」西田さんが言った。
美紀さんに言い終わるとこちらにやってきた。
「こんにちは、初めまして西田篤彦と言います。この近所に住んで写真家をやっています」
右手を差し出してきたので、堀田は握手に応じた。
「こちらこそ初めまして。堀田学と言います」
「あ、どうもお邪魔しています。居石要です」
二人共握手した。
「お二人は見たところ若く見えるけれど、仕事は何を?」
「あ、二人共学生です」
西田さんと美紀さんは目を見開いた。堀田はここまでの経緯を説明した。
「R大学って言ったら、僕も知っているよ。名門校じゃないか。二人共凄いね。あそこは厳しいって有名だよね」
「いえ、そんなことないですよ。真面目にやってない学生の話だけが独り歩きしているんですよ」居石は言った。
「あ。あの」美紀さんが前に出てくる。
「先ほどは申し訳ありませんでした」頭を下げて謝罪する。
「美紀ちゃんを責めないでやってね。君らみたいに雨宿りだけで来る客も少なくはないんだ」
「あ、いえいえこちらこそ、厚かましいかなとは思ったのですけど、ただ雨宿りをさせてもらうわけにはいきませんので、これ買います」堀田は先ほど選んだ食物を居石のお金で購入した。
レジで袋詰めしている作業の間、西村さんは二階に田辺さんと仁科さんを呼んでくると言って階段を上がっていった。
「要さん、さっきのおじさんってあの人?」小声で尋ねる。
「いや、違うな。若すぎる。さっき名前の出ていた二人のどちらかじゃないか?」
なるほど。
「美紀さん、ここはお一人で切り盛りしているんですか?」居石が言う。
「いいえ、もともとは家族で商売させてもらっていました」
袋に詰めた商品を堀田に手渡す。堀田は受け取って、会計を済ませる。
「ご家族で?」
「そうです。もともと義父が一人で営業していたんです。母は十年前に離婚しまして、義父とは五年前に再婚しました。それでこの店に移り住んで、そこからは一緒にお店をしていたんです。でも、義父は三年前に他界して・・・」
「あ、ごめんなさい。」居石はトーンを落として言った。
美紀さんは右手を大きく広げて左右に振った。
「ううん、大丈夫。気にしないで。悲しかったけれど、母もいるし」
「お母さんは今どちらに?」堀田は尋ねる。
「母は隣の喫茶店の店長って立場かな?近所の、といっても車で移動するくらいの距離だけれど、その人達からは母の淹れるコーヒーが人気なの」
「へー、ちょっと飲ませてもらおうかな」居石が言った。
「要さんコーヒー好きっすよね」
「おう、俺好き」
子供かよ。
「そういえば、あれって温泉ですか?」先程発見した暖簾の方を指差して言った。
「ああ、温泉だったら良かったのだけれどね。残念ながら銭湯なの」
「ああ、そうなんですか。でも珍しいですよね?」居石が言う。
「そうね。義父がね。ここら辺は少し先に進むと散策路があるから歩き疲れた人にお風呂を提供したら喜ばれるんじゃないかって言ってね。それで作ったの。銭湯というよりは大浴場って言った方が正確かもね」
「確かにお風呂があると嬉しいですよね」
すると、お風呂の朱色の暖簾から胡麻塩頭の浅黒い体格の良い男が出てきた。年齢は高く見えた。
「お嬢、女子風呂の清掃終わりました」良く通る声だが、響きは冷たく感じた。
「三橋さん、ありがとうございます」
「次は男子風呂の掃除始めますね」
三橋と呼ばれた男は、モップと洗剤等が入っているのだろうバケツを紺色の暖簾の脇に置いて、こちらにやってきた。近くで見るとまたかなり筋肉質な体であるとわかる。
「どうも、先程は休憩中に失礼しました」三橋さんは居石に言った。
「ああ、いえいえ、休息中にすんませんでした」居石も返答する。多分そうは思っていない。
「ああ、じゃあ要さんがさっき店に入って見かけたのは三橋さん?」
「そうなるな。双子じゃなければ」
その発言に三橋さんの目が丸くなる。
「はは、面白いこと言うお人だな」
「ごめんなさい、失礼なことしか言わないので、気分を害されたら・・・」
「いやいや、そんなことはないですよ。ご心配なく、私に兄弟はいません。先ほどお会いした老人ですよ」
冷静なトーンではあるが、気分を損ねたという人の話し方ではないとわかった。こうやって気に入られていくのだろうかこの男は。
「老人には見えないくらいの体格ですよね。ご年齢は?」
「年齢は五十五歳です。ここのお手伝いをさせてもらって五年くらいになりますかな。あの銭湯は料金をこちらのレジで支払うので番台は無いんですが、専ら銭湯の番台みたいなことをやらせてもらっています。掃除をしたり、メンテナンスがメインですね」
それじゃあごゆっくり、と言って三橋さんは男湯へ掃除に入っていった。
「三橋さんがいるから、かなり助かっているのよ。義父がいた時は二人で頑張っていたのだけれど」
「そうですよね」堀田は言った。確かに女性二人では大変だろう。
「あの、二階ってどうなっているのですか?」
「さっき西田さんが言っていたけど、二階はちょっとした宿泊施設にもなっているの。大広間で雑魚寝ってわけではないのよ。ちゃんと部屋に分かれていて布団もあるから」
「へーそれは良いな。現地調査とかで旅館とか使いますけれど、正直俺一人だったらこんな感じの所で十分なんだよな」
「要さん、こんな所って失礼じゃないですか?」
美紀さんがニコッとした。
「いいえ、それくらいに思って気軽に使ってくれると私も嬉しいわ」
「ほら」居石が堀田を小突く。
階段の方で物音がしたので向くと西田さんの他に二人の男性が降りてくるところだった。
「二人共、紹介するよ。こちらが田辺さん」
田辺さんは被っていたハンチング帽を取った。頭頂部が薄くなった白髪頭だった。眼鏡をかけ恰幅が良い。ポロシャツにスラックスを履いている。
「ああ、どうも田辺吉郎と言います。ダムの麓の方で定食屋なんてのを細々とやっています」
「あ、どうも」堀田が握手をして、次いで居石が会釈しながら握手する。
「店は『軍持』って言います。機会があればぜひどうぞ」
この人が作る料理は美味しそうだと素直に思った。
「こちらが仁科さん。この地域で開業医をされていて、僕らもお世話になっているんだ」
「家の母もお世話になっているんです」美紀が言った。
仁科さんは黒々とした頭髪をしっかりと撫でつけており、開襟シャツにスラックスだった。眼鏡の奥の目には、穏やかさが宿っている。
「仁科徹です。こんな雨の中大変でしたね。せっかくなのでゆっくりと休んで行ってください」
同じく一人一人握手をする。
「それで、ダムのことについて聞きたいというのは?」田辺さんが尋ねた。
いきなりそれかと思った。しかし、居石が先程言ったであろう発現について、居石より前に話し出さないと面倒くさいことになりそうなので、喰い気味に話し出す。
「あ、すいみません。隣にいる日本語が良く分かってない男がダムの視察について聞きたいって言ったと思うのですけど、見学会みたいなものはやっていないかと言うことで、雨宿りのついでに聞いてみようということになったんです」
全く損な役回りだ。堀田は自分の運命を呪った。
あくえりあすの中は静寂に包まれた。お客たちは一応に黙っている。無表情だったり驚いていたり、美紀さんは口元に手を当てている。
「ダムの見学についてはちょっとこちらではわかりません」美紀さんがぼそっと言った。
「そうですか。そうですよね。ダムに直接聞けってことですよね」
堀田は店の中の変な空気を振り払うように明るく言った。
「ダムの管理事務所がよく子供とか観光客を相手にして見学会を開いていたはずだ。時間とか詳細はわからないが、事務所で聞いてみると良いよ」西田が冷静な声で言った。
「ほら、ダムで聞いた方が早いっすよ」居石もこの空気に引きずり込もうとした。
居石はこちらを見ずに腕を組んで考え込んでいた。
堀田が肘で小突くと、ふと顔を上げた。
「皆さんお知り合いなのですか?」居石が誰ともなく尋ねた。
「え?」西田さんが言った。
「いや、皆さん職業もバラバラだし、年齢も、失礼かもしれませんが違いますよね。それなのに良く知っているような振る舞いですよね。何かの集まりなのですか?」
そういえば居石の言うとおりである。雨宿りさせてもらうことを優先させていたこと、ちゃらんぽらんな居石の対応をすることに気が向いていたが、ここにいるメンバーは何故集まっているのか。そろそろ気になってくる。
そう思っていると、田辺さんが笑って言った。
「みんなこの店が好きなんだよ。柳本店長には俺らはすごくお世話になっていたからね。ほら、君らも友達と溜まり場で喋ったりするだろう?それと一緒さ。俺等もそうなんだよ。宿泊もできるし、風呂も入れるからね。もちろん代金は払っているよ」
居石は黙って田辺さんが言う話を聞いていた。
それに、と西田さんが後に続く。
「今日はこのメンバーで一年に一度集まる特別な日でね。いつもは全員は集まらないのさ。僕もこの地域の動植物を撮影するのがメインだけど、他の地域にも撮影に行くしね」
話を聞きながら、居石は頷いていた。
「そうだったんですね。わかりました」聞き終わるとそう言って引き下がった。
居石が突っ込んだ聞き方をしていたためか、それまでピリピリとした雰囲気が穏やかなものに変わっていくのを感じた。
「それにしても相変わらず雨足が強いですね」仁科さんが正面の扉を開けて言った。
「床が一段高くなっているから、浸水するっていうことはないですけれど、居石さん達は心配ですよね?」美紀さんが心配そうにこちらを見る。
「そうですね。要さん、先生たちに連絡しておいた方が良いのでは?」
「ああ、そうだな。連絡してくるよ」
居石が輪を離れて携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
ふいに音がした。電話のベルの音だ。美紀さんがレジの方に慌てて向かう。そちらに電話があるのだろう。
「はい。もしもし。ああ、はい、防災課の・・・」受話器を右手に持ち、自分たちに背を向けるように話し始める。美紀さんの後姿を見ると、小さく感じるが、先程横に立って話していると、堀田より少し小さいくらいだった。百六十センチくらいだろうか?女性としては高めの身長だとは思うが、なぜか華奢に見えた。
そんな後ろ姿を見ていると、電話の横、壁に掛けてある額縁に気が付いた。額縁と言うより、小学生が夏休みに昆虫採集の標本を造る時のガラスケースの豪華なもの、と言った方が良いかもしれない。堀田が気になったのは、その中身である。光沢のある紺色の生地の布が一面に敷かれており、その中央付近が太めの×印にへこんでいるのだ。ここに何かが嵌め込まれていましたとケースが主張している、と思った。
「・・・はい、ご連絡ありがとうございました。失礼いたします」受話器を置くチンという音で焦点が美紀さんの背中に戻った。
急ぐ様に美紀さんが堀田らのもとにやってきた。
「あの、今市の防災課から連絡があったのですが、この先の道が倒木によって通行できなくなったそうです」
「え?通行止めですか?この先の道って?」美紀さんに聞いた。
「山越えの道だよ。前の道をこのまま進むと、途中で右折できるのだけど、そちらはダムを回って県道に出る道だ」西田さんが言った。
先程通ってきた道と別のところで県道と合流するっていうことか。しかし、来るときに見たが、県道からダムへの道は時間制になっているようでゲートが設置されていた。西田さんに聞くと、十七時には施錠されるそうだ。県道へのアクセスが悪くなるだけで、若干遠回りにはなるが山を越えていけばまた県道には出られるという。
「右折せずに直進すると山越えになるのですけど、その道にある木が倒れたということです。市も規模はまだ把握できていないそうなのですけれど、通行止めになるくらいには倒れているってことですね」
居石が電話を終えて帰ってきた。
「なんか先生が道が通行止めになっているから、無理して来ないようにって」
携帯電話を握ってがっかりとした表情で言った。
「どうしましょうか?」居石に聞いた。
「どうすっかなぁ。戻ってもこの雨だしな」
「はい。車運転する方から言わせてもらえば、絶対に嫌です」
「ちなみに宿泊できるような場所はここ以外には相当戻らなければいけませんよ?」美紀さんが助け舟を出してくれる。
「そうだな。こんなタイミングで移動して被害に遭うよりかは復旧するまで大人しくしておいた方が良さそうだな」
「まあ、あなたが行くと言っても俺は動かないから移動できないですからね。あ、ちなみに要さんは運転免許を持っていません」最後のコメントは美紀さんに言った。
「え?持ってないの?」西田さんが驚いている。
「免許持ってないと遊びに行くのに不自由しないかい?」田辺さんが驚嘆の気持ちを込めて言う。
「自動車学校に行くのって結構お金かかりますからね。それに理系大学の学生さんは時間がとれないでしょう?」美紀さんが追い打ちをかける。
「なんですか皆さん、寄ってたかって言いたい放題言って。お金の問題はありませんよ。遊びに行くのに車は使いません。電車使いますし、もし車が必要だったら持っているやつに車出してくれるようにお願いしますよ」
それで車出した結果がこれである。やれやれだ。
扉から外を見ていた仁科さんが何かに気付いたように一瞬動きを止めて、振り返った。
「来ましたよ」
先程までの温和な目に殺気が宿っている。
しばらくすると、車があくえりあす正面の砂利敷の駐車スペースに入る音が雨音に交じって聞こえた。車が敷地内に入ったということだ。
雨のために閉じていた引き戸を開く音と共にスキンヘッドのお年寄りが入ってきた。見た目は老人ではあるが、足腰はしっかりしており、若いころに体を使った仕事をしていた、というような風貌である。
「おう、邪魔するよ」車から店までの間で差していた傘を閉じた。その後、近くに仁科さんがいたことは見えているはずなのに、傘の水を切るように回転させた。
仁科さんは大量に水しぶきを浴びた。手で水を払っている。
「わしが来るときはいつも雨じゃないか?誰かわしが来る日を狙って雨乞いでもしてんのか?」
なかなかの難癖だ。誰かはわからないが、きっと自分が好きにはなれない人種だと思う。
「おうおう、また辛気臭い顔が集まっているな。何の集まりなのか知らんが、どいつもこいつもいつ来ても不幸が纏わりついている。俺みたいなやつでもわかるんだ。店に来る客も寄り付かなくなるぞ。まあ、通行止めがあったようだがな。不幸な奴らが集まっているから天罰が起きたんじゃないか?」
目尻を下げて、下品な笑いをしながら言った。
「お前が来るから客が寄り付かないんだ」田辺さんがつぶやいた。
その発言がかすかに老人の鼓膜を揺らしたようで、田辺さんの方を振り向いた。
「おい定食屋、何か言ったか?」
老人がじりじりと田辺さんに近づく。
それから、堀田と居石に気が付いた。
「おお、久しぶりの新規の客じゃないのか?」
こちらに近づいて、値踏みするように二人共じろじろと見られた。
「ふん、金のない若造か、大して金を落とさんだろうな」
かなり失礼な物言いだ。
先程まで、居石に言いたい放題であった人たちも口を塞いでいる。
老人はしばらく店内をうろついて、ふん、と言ってから美紀さんを見た。
「おい、娘、母親はどうした?」
「あ、はい。隣の喫茶店にいます」
「はあ、さっさと引き渡した方がこの町のためだということがわからんのかねぇ。全く先が見えてない連中たちばかりで嫌になるわ」
ぶつくさ悪態を吐いて、喫茶店の方に行こうとする。
「娘、お前も来い」
そういうと、美紀さんの手を無理やり引っ張った。
美紀さんは転びそうになりながら連れていかれる。途中で老人の前に突き出され、美紀さんの後ろを老人が歩いていく構図になった。
その時、老人の手が美紀さんのお尻に伸びていることに気が付いた。堀田には美紀さんの後ろ姿しか見えなかったが、肩が震えていることがすぐにわかった。それは居石にも見えていたと思う。腕組みして見ていたが、組んでいる手に力が入っていることが分かった。こういう時には飛びかかるくらいの勢いで向かっている人なのに、珍しいと思った。
美紀さんと美紀さんのお尻を撫でまわすように触っている老人が隣の喫茶店に入っていくのを店内の全員が見守るしかなかった。
「よく我慢できましたね」二人が喫茶店に消えたことを確認してから居石の方を向いて言った。
居石は小声で、ああ、と言って組んでいて腕を解いた。堀田はその時に居石の二の腕付近が赤くなっていることに気が付いた。爪の跡から血が滲んでいる。
これは相当頑張ったなと思った。
「西田さん、あれなんですか?いいんですか?勝手にさせて」居石が西田さんに聞く。
声に怒りの気持ちが乗っかっていた。
西田さんもさっきまでの穏やかな表情に怒りの色が混ざっているように見えた。
あいつはな、と田辺さんが話し始める。
「花畑吉右衛門っていう名前でな。山を越えたところにある『龍治館』っていうホテルの元オーナーだ。今オーナー業は息子に引き継いでいるがな」
「あ、そのホテルは僕も知っています。かなり大きいホテルですよね?確か別館が山の上にあって、そこから見るダム越しの日の出が綺麗だっていう話を聞いたことがあります」
旅行で宿泊するホテルを探していた時に見たような気がする。
その時にお店の電話が鳴る。西田さんがレジまで行って電話の子機を取る。慣れた動きなのでよくあることなのだろうと思った。
「ああ、それでな一代でホテルをあそこまで大きくした、いわゆるやり手ってやつだ。だからこの地域にはあいつの恩恵を受けている人間が多い。軍持ダムの誘致にも一役買ったっていう話だな。自分や子供たちの働き口にダムやら巨大なホテルは好都合だな」
「で?そんなやり手のジジイが何で地域密着型のお土産屋に来て看板娘とその親に嫌がらせしているんだ?」居石が矢継ぎ早に言った。
地域密着型のお土産屋って、また言葉のチョイス変じゃないか?
だが、ツッコミを入れるにしては空気が違うと思い我慢した。居石と違い堀田はちゃんと空気を読むのだ。
その時電話を終えた西田さんがこちらに戻ってきた。
「防災課からだ。ダム周囲の道から県道へのゲートを二つとも一応施錠するそうだ。まあでもここら辺ではこういう大雨の時とか一応施錠することになっているんだ。だから気にしないで」
これでダムを回って県道へアクセスする方法はなくなった。この大雨が終わるまでは少なくともここら辺は孤立したことになる。
まあ仕方がないか。
さて、と言って田辺さんが話し始める。
「結論から言えば、この店に立ち退きを迫っている。さっき堀田君も別館からの景色が良いって言っていただろう?しかしな、ダムの周囲にはこの店しかないから、ホテルから見える景観の中でこの店が気になるから邪魔だと言っているそうだ」
「え?そんな理由で?」
「そう。そんな理由で」田辺さんははっきりと言った。
「それが四年前くらいかな。その頃に別館ができたんだ。それからほぼ毎日のように来て、柳本さん達を説得して俺らがいたらちょっかい出して、風呂に入って帰っていく。説得と言ってもきつく追い詰めないところがいやらしいよ」
「ここに来るためだけに家からやってくるのですか?」居石が言った。
「いや、外出するついでのようだな。ここに来ることが主目的っていう感じでないな」
「でも、今日はきっと主目的でしょうね」居石が言った。
「なんでそんなことがわかるんだ?」田辺が素っ頓狂な声で言った。
「通行止めが出ているからですよ。ダムの下側にもゲートが閉まっているから出ることができないでしょう?」
居石の発言で田辺は大きくかぶりを振った。
「あのくそ爺の家はどこにあるのですか?」
くそ爺はないだろう。しかし、誰もがスルーしていることに共通認識のようなものを感じて面白い。
「ああ、そういえば倒木の箇所よりはダムの方が近いな。ホテルの別館に住居があるはずだったからな」
と言うことはホテルの別館へは行けるのか。美紀さんはこの付近にホテルはないと言っていたが。それほど嫌っているのだろうか?
「と言うことは、倒木の連絡が来てからこちらに来ているから、山の向こう側に行くついでに、と言うわけではない。ま、遠回りになるっていることには目をつぶってください」
目をつぶれとはずいぶん上からだな。
「さらにさっきの連絡でダムから県道へのゲートが閉じられることはこんな感じの雨が降れば、締められるってことは想像できるわけですよね?この地域の人であれば」
その言葉は田辺さんに向かう。
「まあ、そうだな。この地域に住んでいればな」
「だとすると、今日みたいな地元の人でも驚くような雨の場合、かなりの確率でゲートが閉じられることはわかるわけですよね。その状態でここに立ち寄るっていうことは、ここが主目的だと俺は思うんですよ」
「まあ、その可能性はあるだろうな」田辺さんは居石の発言を流すように言った。
外は雨が降り続いている。喫茶店の扉は再び開くことはない。中で何が行われているのか、良く分からなかった。
「男子浴場の掃除も終わりました。皆さん、入りますでしょうか?今お湯を貯めておりますので、五分ほど待っていただければ準備できます」三橋さんが手拭いで汗を拭きながら出てきた。
田辺さんが膝を勢いよく叩いた。
「よし、まずひと風呂浴びるか」
え?風呂かよ。
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