怪作師ケゴー
矢壁 四漁
墨を吐く魚
自分が初めて健康診断に行ったときのことを、人はどれくらい覚えているでしょうか。自分の尿の入った紙コップを持って並ぶ人々、その奇妙な光景を僕は鮮明に記憶しています。
「それ」を見たとき、僕はそれと似たような奇妙さを感じたのです......。
今日は十二月の中でも一際、寒い。友人宅に向かう僕は白い息を吐きました。こんな日に出かけるのは本来御免被りたいのですが、このチラシを見てしまっては彼に会って話を聞かないわけにはいきません。体を冷やしてしまわないように駆けていく僕は、蒸気機関車にでもなった気分でした。
彼の家は非常にお金持ちで和風の豪邸に住んでいるのですが、家の前に立つといつもその迫力に気圧されてしまいます。ぴんぽんと綺麗な音の鳴るインターホン。これに誰が応答するのか、僕の緊張はなかなか解けません。
「おう、どうしたい」
身体中の筋肉が緩むのを感じました。その友人が出て来てくれたのです。
「やあ、これどうしたんだよ」
僕は持っているチラシを彼に見せました。そこには「岡谷川重則 達筆の歴史」と書いてあります。彼はそれを見るとああ、と納得して言います。
「たいしたことないよ。そんなの」
彼の先祖は「岡谷川重則」という大層すごい書道家で、近いうちにその人の作品や当時使っていた道具などの展覧会が行われるのです。この家にある物もいくつかその会で公開されるそうで、僕はそれを茶化しに来たというわけです。
「たいしたことないって言ったって、君の家の押し入れにしまってあったような物が、博物館で高尚なガラスケースに入った状態で出てきたりするんだろう?」
僕は岡谷川家宅を一瞥しました。
「なかなか愉快じゃないか」
「愉快なもんかよ」
なぜか不機嫌な様子だったので、話題を変えねばと思ったらその時、家の二階の窓からパリンッとガラスを突き破りながら何かが落ちてきました。僕は仰天しましたが、彼は何事もなかったかのように冷静です。よく見るとそれは墨のついた筆のようです。
「……君の御家族は仕事熱心なんだな」
僕の発言がやはり気に入らないのか、大きくため息をつきました。
「その展覧会、一週間後だよな。一緒に行こうぜ、見せたい物がある」
次に彼と会ったのはその一週間後になりました。たった七日間見ないうちに彼は目の下にクマをつくり、すっかりやつれた様子です。
「なあ、何かあったのか?しんどそうだけど」
「そのことも話すよ、おいおいね」
展示は見事でした。巨人が使いそうな大きさの筆、なんと書いてあるのか全くわからない掛け軸、傷だらけの硯。なんてことない物であっても不思議な力を持つ道具はある、そう思わせる展覧会でした。展示の終盤、出口付近で彼は僕の体をぐいと引っ張りました。
「まだ終わりじゃない、大事なのはここから」
言われるまで気がつきませんでしたが、そこには黒い遮りのしてある一室が。まだ見ていないコーナーがあったのです。その遮りを潜って中に入った時、僕は形容し難い感覚に陥りました。強いて言うならば空間がねじ曲がっていて気分が悪くなりそうな、そんな感じ。
その場所は真っ暗な四角い空間で、三百六十度どこからでも見えるようにど真ん中に一つだけ展示物である「それ」が屹立していました。
それは背中を反った鮭のような魚に円形の台座がついた石の彫像で、大きさは高さ、奥行きともに1メートルぐらいの立派な物でした。ゆっくりと近づき、彼が魚の目の前に立った時。突然不思議なことにその魚の口からぼたぼたと真っ黒い墨が溢れて、ショーケース内を汚しました。わわっと驚く僕を尻目に、彼は話し始めます。
「これのことを吐墨魚(とぼくお)と父は呼んでいた」
ガラスのケースに触れる彼の指はとても冷たそうでした。
「俺の先祖、岡谷川重則が硯をする時間を省き、書道に専念する為にある職人に作らせた謎の道具。ほら、そこにその職人のサインのような物が入っているだろう」
ようく見ると台座の下の方に「迦」という漢字一字が四角で囲われた印が刻まれていました。
「仕組み、構造は全くの不明。だが、岡谷川の血を引く人間がこの魚の視界に入ると墨を吐く。ただ、それだけの道具はずだった」
大きく息を吸い込み、語り続けました。
「これが物置から見つかった時から、父はおかしくなった。自分の部屋に篭りきりになり、字を書くことしかしなくなった。書けと訴えて くるのさ、この気味の悪い魚がね。おまけに過労で早死にした人の文献が俺の一族には山ほど残っている。これのせいで岡谷川は呪われた一族になった」
彼はそれから少し距離を取りました。
「そして俺もう限界だ」
震える腕を片方の手で無理やり抑えようとしています。
「もういい、岡谷川君!ここから出よう」
僕達は足早に展覧会を後にしました。
「あれから離れていれば、俺はまだなんとか大丈夫なんだぜ」
彼は場の空気を紛らわせるように言いました。あれを壊そうとは何度か試みたそうなのですが何をしても傷ひとつつかず、墨だけをただ吐き続けるそうです。
「必ずなんとかしてみせるさ、自分達のためにも、これから生まれてくるかもしれない子孫達のためにもね」
別れ際、彼は笑っていました。その胸に抱えているであろうとんでもない不安を胸に隠して……。
翌日、岡谷川宅を訪れると人も物も何もない空き物件になっていました。
あの日以来、友人の姿を見る者は誰一人としてありませんでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます