第三話

 ガチャリと乱暴な音が鳴り、力任せに扉が開けられる。畳の隅に腰を下ろしていた黒髪の女は、体をびくりと震わせると扉の向こうに目をやったまま怯えたように縮こまった。

 扉の位置から死角になるよう、手にしていたボールペンを物陰に隠す。

「おい何小さくなってんだよ、おかえりなさいも言えねぇのか」

 扉の向こうに佇む黒い影の威圧的な言葉を聞くと、女は冷や汗を流し、小さく口を開く。

 体は未だ小刻みに震えていた。

「……お、かえりなさい……」

 怯え、従う女の姿を、満足げに見つめる影。

 口元がニヤついている。

 蛇のような目をしている。

「っ…………」

 影は、玄関に入るとそのまま無言で立ち止まっている。

 靴すら脱がず、電気すら付けない。

 女はすぐにその意図に気がつくと、慌てて立ち上がり、玄関に向かって歩いていく。


「……失礼します……」

 女は影の足元に膝をつき、靴を脱がせる。そのまま立ち上がり電気を付けようとする女の髪を、黒い影が掴んだ。

「まず鍵、次に電気、最後に靴。鍵閉めねぇと人が入って来るよな? 暗いまま靴脱がされてもオレは家に入れねぇよな? 頭使えよ」

「ご、ごめんなさ——」

「謝れなんて一言も言ってねぇんだよ」

 影はそのまま髪を強く引っ張り、女を引き寄せる。足がよろめき影に寄りかかった女の体に、黒い影がへばりつく。目に浮かんだ涙に気付かないのか、あるいは気付いていて無視しているのかわからないが、影はそのまま体を触り続けている。

 女は影の動きを邪魔しないよう慎重に手を伸ばし、扉の鍵を閉める。

 大丈夫、殴られるよりマシだから、首を絞められるよりマシだから、痛くはないから、息はできるから、もう慣れたから、大丈夫、今更こんなのなんでもない、大丈夫、大丈夫。女は繰り返し自分にそう言い聞かせながら、黙って黒い影を受け入れている。


 さっきまでの時間が嘘のような、地獄の日々が戻ってくる。

 あんな風に優しく声をかけてくれるひとは、もういない。どこにもいない。きっと彼は雨に溶けて消えたのだ。ああ、それか、そもそも私の幻覚だったのかもしれない。逃げ出したいと強く望みすぎて、脳が幻覚を見せてしまった。そういうことだったんだろう。

 そうやって自分を慰めているうちに、女は上の空になっていた。本人は気付いていないようだが、まるで影の方を気にしているそぶりがない。

 その様子を見た影の手が、ぴたりと止まる。

「…………おい。人に会っただろ」

 なぜ影がそう確信したのかはわからない。しばらく雨に当てていた女が、思ったよりも平然としていたからだろうか。あるいは、さっき服を乾かそうとしたとき、部屋干しを勧めてきたからだろうか。

 冷静に考えれば雨の日に部屋干しを勧めるのは至極当然なのだが、影はもはやそんな風に考えてなどいない。この女はオレを裏切った。脳を占めるのは、そんな感情のみだ。

「……あ、会ってません……私はひとりで、外にいました……誰もあの道を通りませんでした……」

 女はあの出来事を忘れられるよう、自らへの説得も兼ねて、一言一句を丁寧に口にする。

 それが、黒い影の怒りに拍車をかけた。


 怒鳴り声が聞こえる。

 なにかがぶつかるような、激しい音が聞こえる。

 女の全身にあざが増え、外出すら憚られるほどになってくる。

 それでも影は止まらなかった。夜が明けるまで、拳を、足を、物を、女に振りかざす。女の髪を掴み、頭を壁にうちつける。感情任せに暴行を続け、そのまま体を抱き寄せると、欲のまま嬲る。女が泣き声をあげると、床に押さえつけるように首を締める。

 影が日の出を見て頭を冷やし、黙って家を出ていくまで、ソレは続いた。

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