短編集「綿毛」
木兎太郎
短編集「綿毛」
象牙のはんこ
象牙のはんこ
今回私が象牙の"はんこ"を作る理由はそれだけだ。
友人に勧められ、こうして古いはんこ屋の前に立っている。
店はここ最近では見ない木造の建物で、周囲の風景から少しだけ浮いている。
左右に並ぶ建物は現代的なアパートと一軒家だ。
ここは簡素な住宅街で、このはんこ屋以外に店はない。
周囲を観察すればするほど、このはんこ屋だけが時代から浮き彫りになっている。
長居するつもりもなかったので、私ははんこ屋の暖簾をくぐった。
ガラガラガラ。
昔ながらの引き戸は、かなり立て付けが悪い。
店内に入るだけでやけに大きな音が鳴った。
少しだけ不快感があった。
だがおそらく修理する気もないのだろう。
引き戸のガラスは少しだけ曇っていて、手入れはされていない。
こうした不清潔な景観を見るだけで、私の中には若干の苛立ちが生まれていた。
医者である以上、清潔感には過敏にならざるおえない。
流行しているウイルスもあるというのに、無警戒な店主だ。
引き戸の音につられてか、奥から店主が出てきた。
腰が深く曲がった老人で、鼻先に丸眼鏡をかけている。
私の視線は自然に店主の禿げ頭に吸い寄せられた。
失礼なのは分かっているが、やけに綺麗な頭だと思えた。
まるで丁寧に磨き上げた水晶のような、そんな輝きがある。
後に予定が支えていた私は、余計なことを考えるのをやめカウンターにむかった。
「いらっしゃい。」
私が側によれば、店主は無表情でそう言った。
口数が多い人間が好きではない私には好都合だが、愛想がいいとは言えない。
すぐに用事を済ませるべきだと思えた。
店主もかなり高齢で、長く働かせるのも悪い。
「すみません、ここで象牙の"はんこ"を作っていると友人に聞いたのですが。」
「象牙…またこの時代に、随分珍しいものを要求するね。」
「ワシントン条約…ですか。」
医者をしていると、色々な人の話を聞く機会がある。
その中にこうした生き物の部位による加工品に関する話もあった。
まず象牙というのは、まるで水晶のように美しく、それでいて加工しやすい。
非常に優れた材料であることは間違いない。
当然象牙の価値を理解した人々はその元ととなる象を狩った。
結果的に象牙はワシントン条約で規制されることになった。
規制が出来る前には、ある生息地域で象の生息数が半分以下になったそうだ。
種の保存を考えれば、当然の処置だろう。
もっとも、私が救う命は人間で手いっぱいだが。
余談だが、日本は中国が参入するまでは最も多く象牙を所持していた国でもある。
規制後、象牙の流通は無くなったが、自国にある残り分は加工してもいい。
しかし所持や加工には書類が必要になるが。
「ま、いいさ。でもお客さん運がいいよ。うちにある象牙のはんこは残り一つだ。」
「そうですか。」
別段象牙に固執している訳ではない。
友人に進められてここに来ただけで、そこまで幸運を感じることもない。
無ければ無いで、別の場所で見繕っていただけだろう。
店主は象牙のはんこと紙を取り出し、机の上に乗せた。
「それでお客さん、名前は?」
「名前…ですか。梓川 幸人(あずさがわ ゆきと)です。」
「へぇ、幸ある人…ね。最後の象牙のはんこにぴったりだ。」
「ありがとうございます。」
「おや、でもお客さん、少しだけ疲れた顔をしているね。」
「…私は医者でして。」
「あぁ…なるほど。今は新型ウイルスが流行っていて丁度大変だよね。」
「おっしゃる通りです。」
「でもあんたみたいな人がいてくれるおかげで、日本はなんとかなってる。」
「励みになります。」
店主の言っている通り、ここ最近の忙しさは異常だ。
新型肺炎ウイルスが各国を賑わしている。
ウイルスが流行った中国からの帰国者が隔離されるほどだ。
私が経営する小さな診療所も、珍しく忙しかった。
なるべく多くの人々を救いたいが、小さな診療所では手に余る。
しかし大きな病院に行って長く待たされるのも辛いだろう。
今は歯を食いしばって頑張るしかない。
「世の中にはいつだって流行り廃りってやつがある。」
「…というと?」
「今だけってことさ。忙しいのも、今を凌げば何とかなるよ。」
「流行り…廃り…ですか。」
「そうさ。例えばこれだって同じだよ。」
店主は象牙のはんこを持ち上げ、私の手に持たせた。
10センチ弱という大きさで、意外にもしっかりとした重量感がある。
見た目よりは確実に重い。
艶々とした光沢のあるそれは、確かに美しかった。
私は思わず目を奪われ、それを眺めていた。
「象牙だって一時期流行ったけど、今はもうほとんどの人が思い出さない。」
「確かに、私も友人に聞くまでは忘れていました。」
「今は何でも規制規制って、随分生きにくい世の中になったよな。」
「でも生活を豊かにするためには、必要な規制がほとんどです。」
「それ、本心から言っているのかい?」
店主の好奇心が少しだけくすぐられたようで、私の方を意味ありげに見た。
ただ私も嘘を言ったつもりはない。
規制がなければあらゆるものは暴走し、崩壊していくだろう。
「もちろんです。」
「ふ~ん、でも最近テレビってつまらないだろ?」
「まぁ、それに関しては分からなくもないです。」
「規制が引かれるにつれ、表現は狭まっていくのさ。例えば教育も。」
「教育…ですか?」
「そうさ、今はカエルの解剖も、鯉の解剖もやらないんだとさ。」
「確かに最近の子供は、生き物に関する造形が浅いと感じることもあります。」
「医者ならなおさらだろ。一概に"腹が痛い"って言ってもそれが腸なのか、それとも胃なのか子供は答えられないんだ。実際に手で触れて勉強していないから。」
「言いたいことは…少しだけ分かります。」
「さっき言ったテレビに関してだって、今はおっぱいが出たりしないんだぜ?」
店主はやけにスケベな顔をして、そんなことを言った。
老人なのにまだ色気があるらしい。
私は少しだけ呆れていたが、彼の言いたいことの本質は理解できる。
人間の想像力は貧困化していくばかりだ。
例えば"音楽"に関しても、真面目に教育を受けていない人間のほうが、いい詩を書いたりする。
それは固定概念のいくつかを、他の人間と共有していないからだろう。
つまるところアレをやっちゃダメ、これをやっちゃダメと脳に"規制"をかけられる前に、手を動かすからだ。
もちろん教育は必要だと思うが、必要以上の教育は毒になりえるのかもしれない。
「ま、どうでもいいけどさ。そういえばこの"はんこ"何に使うんだい?」
「近々…子供が生まれます。それをきっかけに、色々なものを新調しようと。」
「なるほどね。今は象牙なんて縁起がいいさ。きっと他の人とは違う子に育つよ。」
「それは…歓迎するべきかどうか。」
雑談をながらも、店主はついに紙にはんこを試し押しした。
縦二列で私の名前が紙の上に美しく整列した。
朱肉の赤色が象牙の白とあいまって、やけに美しく感じる。
雪の上に和服の女性が立っているかのような、そんな矛盾が私の感性をくすぐる。
私と会話をしながらも、店主は作業を続けていた。
この道が長いのか、彼の手つきは素晴らしいものだった。
少なくともこの店に最初に下していた評価は撤回できるほどに。
店主は笑顔で私に象牙のはんこを渡した。
「その象牙のはんこ、あんたにやるよ。代金はいらない。」
「いいえ、払わせて下さい。」
「いいんだよ。今一番日本を救ってくれているお医者さんに、俺から出産祝い。」
「しかし…。」
「今日だけはルールや規制は忘れておきな。俺からあんたに、幸運を。」
「…ありがとう…ございます。」
私に力強く象牙のはんこを握らせた店主は、とてもいい笑顔だった。
そういえば最近忙しくて、こうして誰かの温かさに触れたのは久しぶりだった。
払うべき料金を払わずに、私は店主の良心を受け取っていた。
振り返り店から出ようとすると
ガラガラガラ。
という大きな音がまた鳴った。
ただ店を出る時のこの音は、今の私には心地よく聞こえた。
"わびさび"を語るにはまだ少し若い気もするが、確かに違った聞こえ方だった。
何が変わったかと聞かれれば、私のちょっとした考え方なのだろう。
私は頂いた象牙のはんこと店主の温かさを、一緒にポケットにしまった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
後書き
あれ?言っていること"少年革命家"と同じじゃん。
って思った方。
私もここまで書いてそう思いました。
でも似て非なるものだとも思います。
それにしても小説って、書くの面白いですよね。
※追記
まず最初に、象牙を肯定している訳ではありません。
しかし象に対して愛着が「ある」か「ない」かで言ったら「ない」です。
ここで「ある」と言えば偽善になるので、正直に言いました。
この小説は、象牙を題材にしたある種の比喩です。
皆さん、行き過ぎた善行は偽善になり、あらゆる可能性を閉ざします。
今一度自分の胸に手を当て、本当にやりたいことだけを見つめてみてください。
これはそんな小説です。
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