白砂利に陽光が反射して、都大路は輝いていた。

 嶋麻呂はその路上で、黒馬あおをゆっくり進めた。速度を出す自信は彼にはない。路上がまぶしすぎて、まともに目があかないからでもある。それでも、行く手に緑の瓦屋根が多数横たわっているのは分かる。

 南北に通る大路である西一坊は、かなり道幅が広い。最近ではだいぶまともにはなってきたが、それでもまだ粗材の板葺き屋根の民家が続く。どの家も屋根の上に大きな石を幾つも置き、たいてい中まで丸見えだ。それでもまだ空地も多い。雑草が我が物顔に、人の背丈ほどにもなって生い茂っている。

 四条まで上ってくるとようやく空地も少なくなり、三条との四ツ辻を越える頃には全くなくなった。路上にはどこから沸いたかと思われるほど、みすぼらしい人々がうようよ歩いている。広い都大路は、ほとんど人でぎっしりだ。何が目的で歩き回っているのか、見当もつかない。ただ、嶋麻呂が馬を進めると、群集の方から自然と道を開けてくれた。

 右手遠くに、若草山が望まれる。前方へ視線を戻すと、大内裏の甍は驚くほど近くにあった。

 首を伸ばして風の中に涼を求めても、すぐに額に汗がにじみ出てくる。そのたびに嶋麻呂は、袖で顔をぬぐった。

 すぐに二条だ。二条西一坊は大内裏の西南角にあたる。長い築地塀ついじべいが東と北へと続き、その内側の別世界と外界とを区切っている。その東に塀が続く向こう、すなわち右手奥に大きな楼門が見えた。

 それが朱雀門だ。

 それに向って嶋麻呂は右折し、築地塀沿いに二条を東へ向った。子供たちが群がって、首引きをしている。ほとんどの子供が上半身裸だ。その脇を過ぎた。子供たちは誰も、嶋麻呂を意識もしなかった。

 朱雀門が近づくにつれ、嶋麻呂の胸は高鳴り始めた。道の左側の塀の向こうの巨大な建物が、威圧感となって彼に襲い掛かる。もう何も考えず、ただただ馬頭を凝視して彼はゆっくり進んだ。

 ついに朱雀門に着いてしまった。

 何本もの太い円柱の朱塗りの柱に支えられ、いかにも重そうな緑の瓦屋根が乗っている。頂上の黄色の鵄尾しび、楼上の欄干、そして鬼瓦、左右に開かれた三基ある巨大な朱塗りの大扉。すべて色鮮やかで、真新しさが感じられる。

 馬上から嶋麻呂は、斜め前方の位置よりしばらく茫然として楼門を見ていた。とてつもない巨大な生き物が静かに息づいているという、そんな感じさえ受ける。

 嶋麻呂は暑さに耐えられず、馬から下りた。そのまま黒馬を引いて、朱雀大路の角の屋敷の塀の軒下の日陰に彼は入った。そして汗をぬぐい、左手で顔の前を仰いで風を起こした。

 気がつくと、楼門の下で何人かの少年が衛士えじと何やらもめている。好奇心にかられるまま嶋麻呂は馬をつなぎ、門の方へ歩み寄った。騒ぎを起こしているうちの一番年かさと思われる少年もかなりの若さで、十七歳の嶋麻呂よりも年は下のようだ。あとの二人に至ってはまだ子供である。服装から見てさほど高貴ではないにしろ、そのへんの庶民の子供とは明らかに違う。

 周りに通行人が群がり始め、見る見る人垣ができた。嶋麻呂もそんな中に加わった。

「いいかげんにして、帰ってくんねえかな」

 居丈高のはずの衛士が、困り果ててかえって懇願しているようだ。

「いいえ、父にひと目会わせて頂けるまでは、帰れません」

 衛士は二人いた。

「冗談じゃねえよ。まいっちゃったなあ」

 人垣の中で忍び笑いがもれた。この衛士の東国訛りを笑ったのであろう。照れ隠しに衛士は急に威を正し、ついでに言葉も正した。

「官の許しなき者は、ここを通すわけにはいかぬ」

「そこを何とか。父が官の漆を盗むなど、信じられません。父に会わせて下さい」

「漆を盗む……?」

 嶋麻呂はハッと目を見張った。そして左右の人を押しのけ、人垣の前に出た。右隣の中年の男は、明らかに迷惑そうな顔をして嶋麻呂を見ていた。

「丈部路忌寸石勝が長子、祖父麻呂おぢまろ、伏してお願いいたします」

「やっぱり」

 と、嶋麻呂はつぶやいた。人垣の中の左右の人が、ちらりと彼を見た。

「もうこのくそあちい時に、いいかげんにしねえとぶっ飛ばすぞ!」

 感情的になった衛士はもう東国訛り丸出しで、祖父麻呂と名乗った若者の肩を押した。祖父麻呂は少しよろめいた。その間に衛士は所定の位置に戻り、槍をついて無愛想に前方を見て立っていた。その衛士の一人の足元に、祖父麻呂はひざまずいてすがりついた。

「お願いでござる」

 衛士の一蹴りで祖父麻呂の身体は宙に浮き、さっと人垣がよけた空地に尻餅をついた。人垣の中の白髪の老人が祖父麻呂の肩に手を置き、黙って首を横に振った。祖父麻呂の弟と思われる二人の子供は、ついに声をあげて泣きだした。祖父麻呂は立ち上がり、幼い弟を促すようにして立ち去ろうとした。人垣も三々五々に散らばり始めた。

 嶋麻呂は一つため息をついた。先客がいた。それによると、どうやらこの朱雀門はくぐれないらしい。帰るしかないと思って馬を引き、嶋麻呂は二条大路をもと来た方へととぼとぼ歩きだした。歩きながら、石勝の長子祖父麻呂と名のった若者の顔を思い出した。

「ガキのくせして利口づらしやがって」

 小声でつぶやいたあと、嶋麻呂は路上に唾を吐き捨てた。


 翌日も、朝から蒸し暑かった。

 都の四方を囲む山々の山入端やまのはに平行したような形で入道雲が湧き、それがむくむくと成長している様子がはっきりと分かる。やがては中天まで達するはずだ。

 家から程近い空地の草むらに、嶋麻呂は仰向けに寝そべってそんな空を見ていた。太陽は直接顔面に光を注いでいるが、地面に近いせいかそれとも風があるせいか、暑さは感じなかった。

 彼は目を閉じた。まぶたの裏が、赤く見えた。右腕を伸ばし、両目を覆った。顔面がかなり火照っているのが、右腕を通して感じた。

 しばらくそうしているうちに、彼はいつしかうとうとし始めた。

 かなりの時間が流れていった。少なくともそうしている時間は、平和な時間だった。

 手のひらが彼の目を覆った。しかしそれが明らかに他人のものであることを感じた嶋麻呂は目を開け、手をそっとはらった。

 少女が腰を曲げ、微笑んで嶋麻呂をのぞきこんでいる。

「なんだ、小鹿か」

「そうよ。私で悪かった?」

「いや、上等だ」

 一度開いた目を、嶋麻呂は再び目を閉じた。突然陽光が目に飛びこんで来たので、すぐには耐えられなかったのだ。小鹿というその少女は、裳裾の膝下あたりを押さえて草の上に横座りに座った。嶋麻呂は上半身を起こし、一度だけ伸びをした。そのまま両手を後ろについた。

「よく眠っていたみたい」

「ああ、眠っていた」

「夢でも見ていたのかしら」

「そうかもしれない」

 嶋麻呂は目をこすった。

「それよりどうしたんだ、今日は、突然」

「だって最近、少しも来てくれないじゃない」

「どこへ」

「どこへって、決まってるでしょ」

「おまえの家か」

「そうよ。私のことなんか、忘れてると思った」

「俺がおまえのこと、忘れるわけがない」

「本当?」

 小鹿は苦笑した。

「ねえ」

 と、彼女は言った。

「ん?」

「今日のあなた、何かへんよ」

「なぜ?」

「何となく」

 嶋麻呂は身体の向きを小鹿に向け、、あぐらをかいて座りなおした。

「何しに来たんだ? こんな所へ」

「これから山のほうへ、山菜を摘みに行こうと思って」

「この暑いのに?」

「山のほうは涼しいわ」

 確かに今日の嶋麻呂は、ニコリともしない。いつもはこんなに冷たい彼ではない。

「ねえ、何かあったの?」

「何のことだ?」

「へんよ、絶対」

「そうか」

「ええ」

「私には何でも話してくれるって、約束したでしょう」

「うん」

「ねえ、どうしたのよ」

「聞いてくれるか」

「もちろんよ。私はあなたのお嫁さんになる人よ」

「そうだった」

 嶋麻呂はふと言葉を切り、うつむいた。

 風が近くの木立をざわめかせた。入道雲が発達し、ついに日が翳った。

 うつむいたまま、嶋麻呂は、

「実は」

 と、切り出した。

「うん」

「親父が役人に捕まった」

「うっそー、なんで?」

「官の漆を盗んだんだそうだ」

「えーっ、そんなことって!」

 小鹿は、あとは絶句だった。、そして恐々と嶋麻呂を見た。

「それなのにあなた、何でこんな所で昼寝なんかしてるの」

「仕方ないんだ。おやじには会わせてももらえないし、手の施しようがない。そのうち、向こうから何か言ってくるだろう」

「信じらんない。そんな、のんきな」

 嶋麻呂は再び両手を後頭部で組み、仰向けに寝転がった。そしてつぶやいた。

「こうしている時だけが、わずらわしいこと何もかも忘れることができる」

「そんなこと言ったって、お父様が……」

「親父は親父。俺はもう何も考えたくない気分だ」

「それでいいのかしら」

「もう十分考え尽くして、出た結論がこれだよ」

「これって?」

「考えることの放棄」

 あとは沈黙だけが、二人の間の空間を支配した。

 小鹿は嶋麻呂が自分の頭の下に敷いている彼の手を、ひじをにぎって引き出した。

「私にできることなら、何でも言って」

 嶋麻呂はすぐにその手を払いのけ、もとの頭の下に戻した。

 その時、遠くで叫び声がした。

「若! 若!」

 嶋麻呂は跳ね起きた。白髭の爺が息を切らせて、こちらへたどたどしく駆けてくる。

「爺、ここだ!」

「若! たいへんじゃ。はよう戻って下され」

 嶋麻呂は急いで立ち上がり、尻を軽くはたいた。

 家へ戻ると、庭には甲冑をつけた兵士が五人と身分の高そうな官服の役人が一人いて、嶋麻呂を待っているようだった。役人は床机に腰をおろし、兵士たちは槍を持ってそれを警護していた。

「秦大麻呂が長子、嶋麻呂とはそなたか」

 いきなり役人の甲高い声が響いた。嶋麻呂は一応、

「はっ」

 と、言って、その場にうずくまった。役人は床机を立ち、懐中より竹簡ちくかんを取り出して、音を立ててそれを開いた。

「秦大麻呂が罪状だ。『漆部司直丁秦大麻呂、官の漆を盗みしとがにより、流罪に処す』。右、刑部省の判決だ」

 無表情で嶋麻呂は、その役人が竹簡に書かれた内容を読み上げる声を聞いていた。役人は竹簡の官符を嶋麻呂に向けてさっと示し、やむなく嶋麻呂は一礼した。

 竹簡を懐中にしまいながら、役人は急に口調を変えた。

「ところで嶋麻呂。今から刑部省へ同行せよ」

「なぜ……でござるか」

「来れば分かる」

「親父に会わせてくれるのですか?」

「いや、そうではない。とにかく、来いと言われれば来ればいいのだ」

 役人の口調が激しくなった。

「断わる!」

 と、嶋麻呂は叫んだ。

 役人は左右にいた兵士に目配せし、兵士たちはさっと嶋麻呂を取り囲んだ。

「分かった」

 と、力なく嶋麻呂は言った。

「刑部省へは、どっちみち俺も行きたかったんだ。行こう」

 ほとんど兵士たちに連行される形で、嶋麻呂は歩きだした。白髭の爺と、ともに駆けつけた小鹿が心配そうにそれを見ていた。


 刑部省の役所は、朱雀門の一つ西の皇嘉門を入ってすぐ左の所にあった。嶋麻呂がそこに連れて行かれた時は、ほとんど罪人のような扱いだった。

 門を入ると、中庭のような所があった。その白砂利が敷かれた庭の中央で、兵士の一人は嶋麻呂の肩を押した。座れという合図らしい。仕方なく、嶋麻呂はそれに従った。正面の石段の上には、朱塗りの柱、緑の瓦屋根の、一層造りの漢風建築があった。こじんまりとした建物で、壁は白地に黒格子のしとみだ。そこから左右へ鳥の羽のように建造物が伸び、狭い中庭を囲んでいる。

 そうやってだいぶ待たされているうちに、背後の門より別の人々が入ってきた。振り向いて見てみると、三人の少年が嶋麻呂と同じように兵士たちに連行されて来た。

 嶋麻呂の隣に座らせられた三人は、どこかで見た顔だった。すぐに嶋麻呂は思い出した。それは、昨日朱雀門の下で衛士たちともめていた、石勝の子と名乗った兄弟であった。

 嶋麻呂は見るまいと思って、正面の建物の中央にある赤い扉を凝視していた。

 また少し時が流れてから、その赤い扉の中から、

「刑部卿殿ーっ、いでーさせー給うー!」

 という大声が聞こえ、扉は音とともに開かれた。

「刑部卿殿、直々のお出ましである」

 兵士の一人が声を張り上げた。嶋麻呂は両手をついて、頭を下げた。隣に座った少年たちも、そうしているようだ。

 刑部卿が直々に……これはただ事ではない。本来ならあり得ないことである。

 やがて沓音が聞こえ、衣擦れの音が頭上でした。

「頭を上げよ」

 甲高い声が響いた。すぐに、

「頭を上げよ」

 と、同じ言葉が別人の声で繰り返された。

 嶋麻呂はそっと頭を上げた。しかし、刑部卿を直接見るわけにはいかず、下を向いていた。

「漆部司令史丈部路忌寸石勝が長子、祖父麻呂」

「は」

「同じく庶子、安頭麻呂あづまろ乙麻呂おとまろ

 名前を呼ばれた順に子供たちは再び手をついて、頭を下げた。名前を呼んでいるのは、刑部卿ではないようだ。

「同じく漆部司直丁秦大麻呂が長子、嶋麻呂」

「は」

 嶋麻呂も同じようにした。

直答じきとうを許す」

 今度は、刑部卿の甲高い声だ。続いてすぐ、

「直答を許すとの仰せである。ありがたい仰せである。謹んでお受け申せ」

 と、別人の言葉があった。

 刑部卿が直々に出てくるだけでなく直答まで許されるという破格の待遇に、嶋麻呂は怪訝な顔つきで刑部卿の次の言葉を待った。

「そこもとらの父は」

 と、刑部卿は言った。

「漢の漆を盗んだ科により流罪と相なったこと、聞いておろうな」

「は」

 と、嶋麻呂麻呂と祖父麻呂が同時に答えた。

「では、手短に申そう。そこもとらの父の罪は、そなたたち次第で許されるのじゃ」

 嶋麻呂と祖父麻呂ら三兄弟の四人は、ただ沈黙を守ることしかできなかった。話があまりにも唐突すぎる。

「そなたらが身代わりとなって官奴かんぬとなるなら、そなたらの父の罪は許されるのだ」

 しばらくたってから、

「何ゆえに?」

 と、嶋麻呂は聞いた。

「おかみのことにいちいち疑問をはさむではない!とにかく、そうしろと言ったら、そうしろ。いいな!」

 ヒステリーに近い怒号が、刑部卿より発せられた。だが、嶋麻呂は、

「訳の分からぬことは御免こうむる!」

 と、きっぱりと言った。刑部卿は声を落とした。

「いいか。そなたらの父は、そなたらを養うために盗みをしたんだ。そういうことだ。そういうことにすれば、そなたらの申し出は筋が通る。いいな、そういうことにするのだぞ」

「冗談じゃない!」

 すでに嶋麻呂は背筋を伸ばし、正面をしっかりと見据えていた。胸部卿は冠、しゃくつきの赤い官服を着て、正面の石の階段の上に持ち出された椅子に座っていた。

「嶋麻呂とやら、落ちつけ。官奴といってもだな、ほんのひと月だけのことだ。そのあとはすぐに、りょうに戻してやる」

「全く訳が分からぬ。そのようなことは、はっきりと断わる」

 祖父麻呂ら三人は、さっと嶋麻呂を見た。嶋麻呂は立ち上がった。

「下がらせて頂く」

 刑部卿に背を向けて門の方へ大股で歩きだすと、兵士二人が慌てて先回りし、門の前で槍を交差させて道をふさいだ。背後から、刑部卿の声が追ってきた。

「よかろう。一晩の猶予をやろう。明日中に出頭せよ。さもなくば、そなたの父はに付されるであろう」

 振り向いて嶋麻呂は、

「親父は親父、俺は俺。別個の人間だ」

 と、叫んだ。

 刑部卿の目配せで、兵士は槍をはずした。

 嶋麻呂は大内裏から、都大路へと出た。

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