第49語 蘇我氏
第12代〜第16代天皇に仕えたとされる伝説の忠臣 武内宿禰(建内宿禰)を祖とする氏族(『古事記』)。
武内宿禰—蘇我石川—満智—韓子—高麗—稲目—馬子—蝦夷—入鹿
石川から蘇我の名乗りをする。満智の名が第15代 応神天皇のときに百済から渡来した木満致と重なることから百済系の渡来人ではないかとする説があるが、時代が合わないこともあり 現在では否定的に捉えられている。
半島との繋がりを匂わせる2代を経て、稲目の時代に台頭。稲目は 第29代 欽明天皇に少なくとも2人の娘を嫁がせ、後に 欽明と稲目の娘の子らが 蘇我系天皇として登極した。(稲目自身の配偶者は 葛城氏か?)
馬子の時代に、
蝦夷の時代、推古女帝の後継を巡る争いが起こるが、蝦夷は 馬子の弟を退け 自らの推す候補(舒明天皇)を至尊の座に推戴。第35代 皇極女帝の御代に、蝦夷は 独断で紫冠を入鹿に譲り渡した。なお、蝦夷の配偶者は不明。
入鹿の時代に、皇極女帝の子 中大兄皇子と藤原氏の祖 中臣鎌足が中心となって引き起こした政変により蘇我宗本家は滅亡(645年)。かの政変(乙巳の変)については、首謀者は別にいたとも囁かれている。
本拠地は飛鳥(奈良県明日香村)。蘇我氏は鳥を重視していたとも言われ、それが地名などに反映。また、一族と近しい人物などの名称には"豊"の字を冠している。他氏族に子や兄弟を送り込むことで、多数派工作を行っていた。
余聞だが、蘇我は"スガ"・"スカ"とも読み、出雲地方とも深く関係。飛鳥は "ア(接頭語)"+"スカ"の合成語であるとも言われている。
壬申の乱の勝者 天武が編纂を命じた正史『日本書紀』は 天武の次代 持統を経て 中臣鎌足の次男 藤原不比等が最高実力者の時代に完成しているが、かの書物は"反蘇我の書"として 蘇我氏の悪行等を後世に伝えている。『日本書紀』には、伝説上の忠臣 武内宿禰を蘇我氏の祖とする記述もない。
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