自分好みのキャンバス

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自分好みのキャンバス

 キャンバスを前にして、想像を指へと伝え筆を動かすがうまくいかない。だって、本当に描きたいものはこの白い範囲ではなく、枠の外にある。

 視点をずらせば窓があり、その向こうでは日の落ちかけた校庭で陸上部がラダーを飛んでいた。この景色の中に描きたいものがあるのに、描きたいものはキャンバスに納まらない。

 ままならないよな、とため息を吐きながら筆を水に浸けて腰を上げ、薄暗い美術室の電気を点ける。棚には画材、壁にはキャンバスを立て掛けている、微かに絵の具の匂いの染み付いた俺の居場所。

 本日の美術部出席者は俺のみだった。コンクール用の絵の提出は年末に終わったばかりだから人が来なくても仕方ない。こんな新年の、まだ正月ボケも抜けきれていない日に来る奴なんて、よっぽどの暇人かただ描きたい奴に決まってる。

 とはいえ部員が全員揃ったとしても三学年合わせて五人という部活存続ギリギリの人数しかいないのだが。

 「お疲れさまでした!」という声が外から聞こえて、陸上部の面々が礼をして部室棟に行っている。どうやら練習が終わったらしい。

 絵の続きを描きながら待っていると、一人の女子が一直線に美術室の窓へとやってきた。

 切れ長の瞳を細めて笑い「おつかれ!」と窓を二度叩く。開けてくれと言いたいらしい。窓を開けると、暑いねぇと学ランの下にパーカーを着ている俺に言いながら窓枠に足をかけた。

「だから窓から入るなって」

「別にいいじゃん」

「すぐそこが昇降口だろ」

「面倒くさい!」

 外履きの靴を持ち、教室に降りた女子は少年のような顔で笑う。実際、中学生の途中まではよく少年に間違われていたものだった。

 部活後の熱は引いておらず額には前髪が張り付いている。短く切った髪は頬にかかり、髪を払うように首を振ると細い首が露になる。夏には練習で焼けて真っ黒だった肌も、冬になり色は白く戻っていた。

 そんな隣の家に住む幼馴染は、興味深そうに俺の描きかけていたキャンバスを覗いた。

「犬の絵?」

「そう。正確にはコヨーテ」

 足の速い、イヌ科の動物。小型のオオカミとも言われていて頭がいい。

 群れの先頭のコヨーテを中心に、森林を疾走する様子を描こうとしているのだが、構図が定まらず描いては消してを繰り返していた。

 正直に言えばこの絵のイメージは今こうして絵を見ている幼馴染なのだが、それはさすがに伝えない。

 本人を描ければ良かったけれど、高校生にもなって幼馴染を書くのは恥ずかしくて躊躇われた。だから彼女をイメージ出来る動物を描いただけ。

「これ見て思い出したけどさぁ、お兄ちゃんの彼女が犬飼ってるらしくて、私のことを犬みたいだって笑うんだよ」

 ふて腐れるように言う。やはりこんな風に懐く感じや従順さ、運動神経の良さから連想されるのは、犬らしい。

「彼女さんは色白で綺麗な人でね、素敵なお姉さんなんだよ。でさ?お兄ちゃんは『お前も春には大学生になるんだから、化粧のやり方教わるか?』とか言われてさ」

「興味あるの?」

「そりゃあ、あんな風になれたらいいなって思うけど……」

 その言葉に俺はいいことを思い付く。

 本人をキャンバスに描けないのなら、逆にすればいい。

「じゃあ、俺のキャンバスになってくれない?」

「……は?」

「顔、貸せ」

 そうと決まればすぐにでもやりたくなった。このまま話に流されていただこう。

「話が唐突すぎて訳が分からないんですけど!?」

「お前、俺の絵好きだろ?」

「好きだけど」

「俺の絵のためにお前に出来ることがあるから尽力してくれ」

「力になれるのならやるけどさ……一体何をやるわけ?絵のモデル?」

「大方そんなところだ」

 幼馴染を丸め込むのにそう時間はかからない。時計を見れば、五時を過ぎたところ。

「今日空いてるか?」

「今から?夜ご飯までの間なら空いてるけど……」

「このまま俺の家に来な」

「ここでやるんじゃないの!?」

「下校時刻過ぎてるし」

「明日以降じゃダメ?」

「ダメ。今、描きたい絵があるんだ」

「モデルって……そ、その、脱いだりはしないよね……?」

 言いにくそうにおずおずと聞いてくるので、噴き出すように笑ってしまった。

「阿呆か。俺がそんなことさせるわけないだろ」

 笑い飛ばしたら安心したようで、それならと快諾されたのだった。



 幼馴染を俺の部屋の壁際の椅子に座らせる。側にはいつも使っている勉強机があって、今から使う道具を置いていた。幼馴染はじとりとした目でその道具を見て、怪訝そうに顔を歪ませている。

「……何、この道具は」

「画材」

「いやいや君から見たら画材かもしれないけど、なんでこんなに……こんなにメイク道具を持っているのさ!」

 机の上には下地やファンデーション、チークに色とりどりのアイシャドウなどを並べていた。

「姉に借りた」

「そうだろうけど!」

 本日は幼馴染の顔をキャンバスにして、化粧という名の絵を施そうと思う。

 姉はまだ家に帰っていなかったが、連絡をしたらすぐにメイク道具一式全部使っていいとのこと。

 姉も幼馴染のことを気に入っているので、交渉はすんなりいく。むしろこいつがどう変わるのか楽しみにしているようで色々とアドバイスをくれた。

「お前は座ってるだけでいいから、あとは俺に任せな」

 この俺がやるのだ。絶対に悪いようにはしない。

 まず化粧水を手に取った。忘れがちだけど化粧は保湿からだ、と姉に言い含められている。コットンに化粧水を染み込ませ、幼馴染と向かい合わせになると両手の平をこちらに見せて俺を遠ざけるように身体ごと後ろに引いていた。

「ちょっと待って、こんなの聞いてない。おかしい」

「目、つぶってろ」

「いやいやいやいや」

「つぶれ」

「化粧なんて、似合わな━━」

 顔を隠そうと、手を上げる。

「うるさい。キャンバスが動くな」

 宙にある手を絡めとり壁に押さえつけた。

「俺の腕を信じてないのか?」

「そうじゃないけどさぁ……。う、腕が痛いんですが……!?」

 困惑した瞳。奥二重気味の瞼を縁取るように、綺麗に上を向いた睫毛が並ぶ。その目を縁取るラインは何色がいいだろう?

「大人しくしてれば痛くないはずなんだがな」

 潤んだ瞳はこうして間近で見れば、黒目の回りを透明なコンタクトが一周しているのが分かる。中学生のときは眼鏡を掛けていたが、高校に上がってコンタクトにしたのだ。確か走るときに邪魔だからという至極可愛げのない理由だったと思うが、コンタクトを入れ慣れているというのであればカラーコンタクトを入れてもらうのも手だ。冬はこうして肌が白くなるのだから、色の薄いコンタクトを入れても似合うだろう。雪の日の影の色のようなグレーでも、寒い日に差す太陽のような金に近い色でも、似合うと思う。

 今日は用意していないので、またの機会にお願いしたいところだった。

 そうしてじっと目を見ていたら、幼馴染は観念したとでもいうように深く息を吐き、パタパタと指が動く。手首を離し開放してやると、両手は大人しく膝の上で重ねられた。

「分かったよ」

 そうして、少し上を向いた状態で目を閉じた。

「……君は昔から絵のことになると恐いからね」

「人聞きの悪い」

「事実だよ……」

 どうやら子どもの頃にあったことを言っているらしい。

「そいつらは、俺の好きなものを踏みにじったからな。当然の報いだ」

 かつての思い出を話しながら続きを始めた。コットンをぽんぽんと軽く叩くようにして化粧水を肌に馴染ませていく。

「小学五年生のときだよね?えっと、私が絵を描いてたら馬鹿にされたんだっけ?」

「もう覚えてないのかよ。お前は猫が空を飛んでいる絵を描いて、それを『猫が空を飛ぶなんて意味わかんない』って言われて、揉めている内に絵を破られた」

「で、君はキレて」

「殴り飛ばしましたよねー」

「私は良かったのに」

「俺は良くなかったんだよ」

 俺は自由に描く幼馴染の絵が好きだったし、一生懸命描いていたことを知っていたから許せなかった。俺は人が努力していることを浅はかな考えで踏みにじることが、何より嫌いだ。

 手の平で乳液を温めて、頬に伸ばしていく。

 白くてキメ細やかで、柔らかい頬。両手で頬を包むようにすると、薄く開けた目と目が合って、すぐに逸らされる。そういえば、ここまで近距離にいるのは子どものとき以来だったか。昔は肩を組んだりおんぶにだっこなんて日常的にやっていたけれど、いつの間にかやらなくなった。仲は変わらず良かったし、今でもこうしてお互いの家を出入りしているが、最近は用がない限りは行かなかった。

 下地を塗ってファンデーションをはたけば土台は完成。

 アイシャドウを選んでいると「はぁ」と幼馴染はわざとらしくため息を吐く。

 少しだけ、頬に赤みが差している。これならチークは不要かな、なんて内心で嘯きながら、自分の僅かな心臓の高鳴りがバレないようにした。

「騙された」

「睨むなよ」

 この姿で睨まれても、美人がいっそう増すだけだ。

 俺は美人が一番美人になるのは、不機嫌なときだと思っている。言わないけれど。

「ねぇ、本当にするの?」

「するよ」

「なんかやだ。絶対、滑稽になる。似合わない」

 不安そうに、目を伏せようとする。

「こら、前を向け」

 だから顎を掬い、こちらを向かせた。

「いつも前を向いて走ってるお前を綺麗にしたいんだからこれ以上、下を向くな」

「は、い」

「俺の腕を疑うのか?」

「それは無い。信じてる」

「なら、信じ続けてくれ」

 俺も、いつもの自分を取り戻すために気付かれないように深呼吸をした。少し心が乱れている。いつも美術室で絵を描くときの自分ならば、乱れることもないだろう。スイッチを切り替えるように、俺も真っ直ぐ前を見る。

 目の前には自分好みのキャンバス。

 可愛く美しく、彼女の良さをより魅力的に見せることが俺の使命だ。

 悩んだ末に、机の上のアイシャドウの一つを選んだ。

 目元には深い色の青を。色白だから淡い色や暖色も似合うけれど、こいつのこの純粋な瞳の美しさをより際立たせるには森の奥にある凪いだ湖のような色がいい。

 このままだと冷たくなりすぎるから、チークは赤みのある色を。普段の活発さを表現するように。

「下向いて」

 まつげにマスカラを乗せていく。ダマにならないように、丁寧に。

「慣れてるみたいだけど、普段からやってるの?」

「たまに姉にやらされてる」

「そうなんだ?」

「色彩センスと手先の器用さは俺の方があるから、アドバイスしてたら『あんたに任せた方が良さそう』って、アイシャドウパレットを渡されたことがあってな」

 シャドウとハイライトを入れて、細かいところを微調整して最後に粉を降る。

「はい、できた。美人さんの出来上がりだ」

「茶化さないでよ」

「素材がいいからな。さすが」

「もしかして、本気で褒められている?」

「もちろんですとも」

 鏡を差し出して自らと向き合うと、驚くように一瞬目を見開いで、照れたように鏡を俺に返した。

「どうですか?俺の絵になった気分は」

 そう言えば、俺の絵が好きな君は「嫌だ」なんて言えない。

「……悪くない、気分です」

 幼馴染を素直にするには、少し頭をひねらなけらばいけないのだ。

「よし、絵は飾らないといけないからな」

 そうして部屋の扉を指し示すと、眉を曲げて不服そうな顔をした。

「このまま外に出るわけ!?」

「当然だろ?お前の着替えもあるし、あの姉は外に出るための口実を作るためちょっとしたレストランも予約しやがった。だから俺も着替える」

「は!?」

「諦めろ」

「もうどうにでもなれ、だ……」

 姉が幼馴染に用意したのはAラインのワンピースだ。腰にリボンの付いた、形の綺麗な結婚式の二次会くらいならば行けそうな服だった。

 俺も着替えて外に出る準備をする。

 玄関にはワンピースに合わせたボルドーのハイヒールを準備していた。少しよろめきながら両足を通すと、「すごい」と小さく呟いた。

「足が、綺麗だ」

「俺もそう思う」

「背筋が、伸びる」

「元々姿勢がいいから、一層綺麗に見えるな」

「目線が、高い」

「俺の身長とほぼ変わらなくなることだけがいただけないが」

 「お手をどうぞ」と手を差し出せば戸惑いながら手を取って、息を吐き、大きく吸って前を向く。

 心の準備が出来たようなので、俺は扉に手をかけた。

「では行きましょうか。美しい絵のお嬢サマ」

 茶化して言えば、ギリと奥歯を噛みながら悔しそうに口を開く。

「腕のいい画家が描いたので、絵が美しいのは当然ですことヨ」

 俺好みにされた幼馴染は、そう苦し紛れに言うのだった。

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