8

 ハイライトを一本吸ってから、職場に戻った。最近お局があんまり僕に近づいてこないのは、吸う本数が増えたからだと思う。コーヒーとタバコのにおいの組み合わせは最悪と聞いたことがあるけれど、どうやら香水を振りまいてもそれは消えないらしい。

 化粧の濃いパートのおばさんの隣で、僕はしばらく返却業務を行い。それから排架業務をして、夕方にはまたカウンターに立って返却される本を眺めた。小学生が借りてきた図鑑だとか、老人が借りていった数年前のベストセラー小説とか、そういうのを集めては、バーコードを読みとって、パソコンに情報を吸い上げていった。借りていった人間の顔なんて、ひとつも覚えてなかった。

 たった一人を除いて。


「あの、これ借りたいんですけど」

 返却カウンターに立つ僕に、そう言った女がいた。文盲かと思った。でも、違った。

「申し訳ございません。お手数ですが、あちらの貸し出しカウンターにどうぞ」

 山のようなハードカバーから目を上げて、僕が相対したのは女だった。それも白髪の若い女だった。

 白か、グレーか、シルバーか。短く切られた男性のような髪は、まるでアニメーションの登場人物みたいな色合い。そしてうっすらと青白い血管の浮き出た頬と、カラコンでも入ったような焦茶色の瞳。

 僕は、一瞬言葉を失った。

「……八坂?」

「ええ、だから来たんだけど。返却カウンターってのは知ってるけど、知り合いのほうが話しやすいと思って。ねえこれ、借りてもいい?」

「かまわないけれど。利用者カードは?」

「あるわよ。住民票移してなかったから、作るの大変だったのよ。はい、これ」

 差し出されたのは正真正銘、八坂未彩の利用者カードだった。間違いなく、僕の目の前に現れたのは八坂未彩だった。髪型は変わってるし、服装もなんだかフォーマルになってるけれど。濃紺のジャケットにパンツスタイルの彼女なんて、初めて見たけれど。でも間違いなかった。突飛でもない色の髪と、季節ごとに変わるスタイル、そしてツンと鼻につく紫煙の匂い。言葉遣い。どれをとっても八坂未彩だった。

「じゃあ貸し出しカウンターはこっちだから。こっちで受け付けるよ」

「ごめんなさい、余計なことして。ふつうに貸し出しカウンターに行けばよかったのに」

「べつにかまわないよ」

 カウンターにいたお局様に一言断りを入れてから、僕は八坂のカードを読みとった。それから彼女が借りたいという本を受け取った。八坂が持ってきたのは意外にも絵本で、佐野洋子の『100万回生きたねこ』だった。

「意外だね、君が絵本を読むなんて」

「そう? じゃあどんな本なら読むと思った?」

「そうだね。たとえば三島か太宰かって言ったら、太宰を読んでそうだよ」

「残念。『金閣寺』と『豊饒の海』なら読んだ。太宰は教科書で読んだ『走れメロス』だけかしら」

「『女生徒』とか好きそうだと思ってた」

「それ、とても悪趣味に聞こえる」

「だね。はい、手続きは終わったよ。貸出期間は二週間だ。延滞したら、しばらくして督促状が来るから気をつけて」

「大丈夫よ、明日には返すから」

「そう、なら安心だ。じゃあ、楽しんで」

「ええ」

 僕はそれだけ言って、八坂との会話を打ち切ろうとした。

 どうしてだろう。あれだけ八坂に逢いたかったのに。彼女に曲を聞かせたくて、今日だってカセットテープを持っているのに。僕は喉まで出掛かった言葉が出ず、最後までただの良い人を気取って終わりにしようとか考えてた。

 でも、八坂は違った。

「ねえ、森島君。今日、仕事何時まで?」

「あと一時間だけど」

「そう。じゃあさ、隣の喫茶店で待ってるから。終わったら来て。奥の喫煙席にいるから」

 じゃあ、と八坂は『100万回生きたねこ』を手の代わりに振って、図書館を出た。

 僕はその姿を呆然と見ることしかできなかった。


 定時になると、僕は貯まっている仕事もすべて投げ出してバックヤードを出た。直属の上司にあたる司書の職員がなにか言いたげに見ていたけれど、僕には関係なかった。

 鞄のなかには歌詞を刻んだノートと、ペンケース。財布とタバコとマッチと、そして彼女に渡すべきカセットテープ。それだけあるか確かめたら、僕は図書館を出て、横断歩道を挟んで向かいの喫茶店に向かった。

 その喫茶店は流行りのフランチャイズで、看板が言うには甘ったるいパンケーキが今月のオススメメニューだった。ハチミツとホイップクリームが増量中らしいけど、きっと八坂は食わないだろうなと思った。

「いらっしゃいませ、一名様ですか?」

「いえ、待ち合わせで」

 店の奥、喫煙席の方に目を泳がせると、一人ぽつんとたたずむ八坂がいた。誰もいない喫煙席で、黙って絵本を開いてた。

「あ、いたんで、大丈夫です」

「そうですか。ご注文決まりましたらまたお呼びください」

「ブレンドひとつでいいです。あと、灰皿を」

「かしこまりました」

 バイトの少女がキッチンに捌けていくのを見ながら、僕は八坂の前に座った。でも、僕が来ても、八坂は絵本から目を反らそうとしなかった。

「不思議よね。子供の頃は何とも思わなかった絵本も、いま読むと実はすごい深い意味が込められてるんじゃないかって、必要以上に邪推してしまう。それっていいことなのかな。それとも子供のころの純粋さを失ったってことなのかしら」

「わからないよ。八坂はどう思う?」

「わたしにもわからない。……ねえ、森島くんはこの絵本の内容知ってる?」

「知ってるよ。『あるときねこは、誰々のねこでした。ねこは何々なんてだいきらいでした』……ってアレだろう? 百万回も死んでは生きて。いろんな人間のもとを転々としても、何も好きになれなかったねこが、あるとき素っ気のない白猫が好きになって。そしてもう生き返ることをやめる……」

「そう。ねえもしも『あるときねこは、バンドマンのねこ』だったとして。ねこは、そのギターの爆音に鼓膜を突き破られて死んでしまったら」

 八坂はタバコを吸い終え、灰皿に灰を落とした。

「その飼い主は、ねこのことを思って泣いて、アパートの裏庭にでも埋めてくれたのかしら」

「どうだろう。でも、だとしたらそのねこは、白いねこを見つけたんだろうか」

「どうだと思う?」

「少なくとも僕が知るねこは見つけてないと思うよ。いまだに探してるし、それは振り向いてもくれてない」

「そう」

「そうだよ」

 僕は八坂の行動をミラーリングするみたく、一緒にタバコを吸った。ハイライトに火をつけ、そして一緒にタバコのパッケージ大の大きさのカセットテープを取り出した。

「僕は100万回も死んではないけれど、四つの曲を書いた」

「そう」

「聴けとまでは言わないけど、受け取ってくれるとうれしい」

「そう」

「君のそのウォークマンで」

「わたしのウォークマンで」

「君の元カレが埋め込んだ音楽で、この曲を聴いて欲しいんだ」

「……そう」

 八坂は優しくカセットテープにふれた。

「ねえ、どうしてわたし、突然あなたの前から消えたと思う? 約束したライブにも行かずに」

「理由なんてない」

「そう。理由なんてない」

 理由なんてない。

 そうつぶやいた彼女は、カセットテープを取り上げ、上着のポケットからウォークマンを取り出した。あのカセットに満たされたウォークマンを。あのウォークマンを。あのウォークマンを。

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