第一部 春 『華のようなヴァンパイア・レッド』

1

 イヤフォンから響くナンバーガールは、最近の僕のお気に入りだった。夕暮れ、仕事帰り。空はすっかり暗くなり始め、カラスがカァカァと鳴き喚き、少年少女が電車にへし合い押し合い帰るとき。僕は音楽で自分を満たして、家路へと着く。それがいつもの日常でありルーチンワークだった。

 終着駅で吐き出された人々が、わらわらと溢れ出す。スマートフォンに目を落としながら、目の前の背中を追うようにして、蟻の群れみたく、波みたく。僕はその中を駆け抜け、改札を通り過ぎた。

 歩道橋をわたって線路の向かい側へ。古ぼけた列車が真下を通り過ぎ、秋風を巻き起こしては過ぎ去っていく。風。鋭い鉄のような風。向井が耳のなかで歌っている。

 やがて僕は人波からはずれて、一人寂れた商店街を歩き出した。僕の目的地は、そのシャッター街のはずれにある小さな個人商店のレコード屋だった。店先に出されたチョークボードには『中古CD・レコード・カセット買います』の文字。だが、売れそうなモノをもって来る客は見あたらなかった。そのじつ僕も売りに来たわけではない。ただ掘り出し物があればと、いつも日課的に通っているだけだった。

 それに、今日はここが僕らの待ち合わせ場所だったから。

「やあ、待たせた」

 四畳半ほどしかない狭い店内に、さらにところ狭しと積み上げられた音楽の群。そのなかで、僕のガールフレンドは所在なさそうに立っていた。

「おそいよ。遅れるならちゃんとラインしてよね」

 彼女――芳丘郁は、恋人である僕を見るなり、唇をむっとさせて言った。ただ彼女の怒り顔というのは、本当に怒っているというよりも。『でもしょうがないよね』という優しさとあきらめを含んでいる。特に僕に対するときはいつもそうだった。

「ごめん、クレーマーのおじいさんに捕まってね。大変だったんだ」

 僕は彼女の横に立ち、プラスチックケースに並び立てられたレコードに触れた。ボックスごとにジャンルで区切られ、さらにAtoZで並んでいる。僕が手に取ったのは九〇年代のロック・ミュージックの棚だった。

「大変だったんだよ。そのおじいさんはね、新聞の切り抜きを持って来て、『この健康法が書いてある本がほしい』って言うんだ。でも、見るからにあやしい健康法でね。なんとかイオンが含まれる物質が溶け込んだ野菜を摂ると、ガンが治るって言うんだ。でも、もちろんそんなトンデモ科学のあやしい本が図書館に置いてあるはずがないし。置いてあったとしても、職員がそれをすすめたいとは思わない。だけど、おじいさんはその本が読みたいと言って聞かないんだ」

「ふうん」郁もレコードを手に取りながら、「じゃあ薫くんはどうしたの?」

「どうもしてないよ」

 一枚、気になったレコードを取り出す。ブラッドサースティ・ブッチャーズの『kocorono』。でも値段を見て、すぐに棚に戻した。即決で買える金額よりも、少し高かったから。

「僕はただ『図書館よりもまず病院に行ってみたらどうですか?』って聞いたんだ。そうしたら、そのおじいさんってば『俺はあいつのためにいくつもの病院に行った! でもどいつもこいつもまともに取り合ってくれなかった! あいつはもう死ぬんだ!』って叫んで、泣き出しちゃってね。けっきょく、さんざん泣きわめいてから、彼は出て行ったよ。何の本も持たずにね」

「かわいそうなおじいさん」

「そうだね」

 でも、きっと彼はただ自分の苦しみや痛みをどこかに吐き散らしたくて。ただその場所がエセ科学の宗教まがいの集会場か、市立図書館のエントランスフロアだったか。その違いにすぎないんだよ。

 ……と、僕は郁に言おうとしたけれど、やめた。

 何故かって、郁の目が何度もまばたきを打っていたから。ゆらゆらと瞳が宙を泳いでいたから。郁は退屈なとき、そうやって景色を眺めるクセがあった。

「一枚だけ買わせて。それだけ買ったら、帰ろう」


 結局、僕はスロウダイヴの『SOUVLAKI』のリイシュー盤だけ買って、店を出た。店主のおじさんとはたまに言葉を交わすくらいの仲ではあるのだけど。僕が郁を連れてるときは、彼はいつも無口で無愛想になる。たぶん郁が音楽に興味がなくって、この店に退屈しているのが伝わっているんだろう。店主にしてもあまり気分のいいものではなかったはずだ。

 だけど、それでも僕は時折この店を郁との待ち合わせ場所にしている。アパートから近いし、駅からも近いし、最寄りのスーパーからも近いし。それに掘り出し物を探すのは習慣だから。

「夕飯、鶏肉と野菜のトマト煮にしてるんだけど。いいよね?」

「いいよ。ご飯炊いた?」

「まだ。薫くんお米研いでよ」

「べついいけど。無洗米買わなかったの?」

「お米は研ぐものなの」

「なんだよそのこだわり」

 郁の右手にはスーパーの買い物袋。左手には僕の右手。そして僕の左手にスロウダイヴ。重量盤が左手に重くのしかかる。

 ジミ・ヘンドリックスは、「左手で握手してくれよな。その方がハートに近いだろ」って言ったらしいけれど。僕のハートはガールフレンドよりスロウダイヴに向いていた。そんな気がした。

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