ハムレットが終わらない

モト

開幕

 幕が上がるように俺は意識を取り戻した。



 俺はうすぼんやりした暗い霧の中にいた。

 俺は教室で学際に出す芝居の準備をしていたはず。

 脚本が仕上がらずにひとり残って時間も遅くなり。

 悩んでいるうちに眠くなってきて。



 それがいつの間にか霧の中に立っている。

 窓を開けっぱなしにしていたせいで、教室の中に霧が入り込んできたのだろうか。



 おそるおそる進んでみる。

 教室にしては机も椅子も見当たらない。

 フローリングではなく土の感触。



 教室の壁に当たるどころか校舎の外に出てしまうぐらいは歩いた。

 だが変わり映えしない霧が広がるばかり。

 ここはいったいどこなんだ。


 

 遠くからかすかに音がする。耳を澄ます。

「誰かいるのか!」

 俺は叫んで呼びかけたが返答はない。

 俺は音のほうへとと恐る恐る歩いて近づく。



 音はだんだんとはっきり聞こえるようになってきた。

 しゃがれた女の声だ。

「始まりは終わり 終わりは始まり」

 霧の彼方から言葉が聞こえる。

 女たちが声を合わせ、合唱のように同じ言葉を唱えている。



「誰だ、ここはどこだ!」

 俺はまた叫ぶが応えはない。

「始まりは終わり 終わりは始まり」

 女たちの声は続く。



 やむなく俺は声のほうへと歩き続ける。

 霧の奥にうすぼんやりと影が見えてきた。

 三つの影。

「始まりは終わり 終わりは始まり」

 声は影たちから聞こえてくる。俺は近づいていく。



 三つの影は黒いマントを被った者たちのようだ。

 不気味な言葉を唱え続けるその姿は、まるで三人の魔女。

「何者だ!」

 俺の叫びに応えてか、三人が身じろぎする。



「王にならざる者よ」

「王子よ」

「ハムレットよ」



 王子?

 ハムレット?

 シェイクスピアの芝居に出てくるハムレット王子のことか?

 そうだ、俺たちは学祭の出し物にハムレットの芝居を出すことになって。

 俺は脚本を担当して。

 短い時間に少ない役者と道具係でもやれるようにまとめようとしてうまく進まず。



 三人の魔女が俺を囲む。ささやきかけてくる。

「「「ハムレットよ、いいこと」」」

「終われば始まる」

「始まれば終わる」

「終わりは終わらない」

 なんなんだ!

 俺は魔女たちをつかもうとするが幽霊のように何の手ごたえもない。



「「「さあ、始まりの始まり、第一場」」」

 幕が上がるかのように、霧の下から光があふれて、ああ、世界が広がっていく。



 俺は寒風の中に立っていた。



 石造りで冷たそうな床、長い通路、左右には壁、上には夜空が広がり、月は大きく欠けて暗い。

 通路から建物を見下ろす。

 自分がいる場所は高い位置、周囲に見えるのは城のようだ。

 どうやら自分は城壁上の通路にいる。



 後ろから声をかけられた。

「どうされましたハムレット様、やはり引き返しましょうか」

 白人の青年が心配そうな顔で俺を見ている。

 お芝居で西洋の貴族が着てそうな服だ。



「ホレイショーか、いや、なんでもない」

 俺はなにげなく返答した。

 どうしたことか、俺はこの男が誰だか分かる。

 そう、こいつはハムレットの友人ホレイショーだ。



 俺はハムレットの夢でも見ているのか。

 それにしてもこの光景、冷たい空気、あまりにも現実的すぎる。

 それに妙な記憶がある。

 ハムレットとして過ごしてきた記憶だ。

 俺自身の記憶もある。

 俺とハムレットの記憶がごっちゃになっている。



 城壁の上には俺とホレイショー。

 ハムレットの脚本にはもっとキャラクターがいたはず。

 そういえば学祭の脚本では分かりやすくするためと少ない役者ですむようにキャラを減らしたが。



 通路の向こう、櫓の中に青い光が怪しく浮かび上がる。

 それはまるで手招きする人のようにも見えた。

「あれです、ハムレット様!」

 俺はまるで芝居の中に入り込んだような感覚を覚えた。



 芝居の筋書どおりに進むのならば、この先に待つのは父王ハムレットの亡霊。

 父王は自らを殺し妻を奪った弟への復讐をハムレットに託す。

 ハムレットにとって復讐の相手は叔父であり現王にして母の夫、つまり義父でもある。



「ハムレットの父がハムレット、紛らわしいな」

「え、ハムレット様?」

「いやなんでもない」



 王子ハムレットは父ハムレットの怒りと恨みを気に病み、悩み苦しんだあげく復讐に挑み、叔父も母も友人も婚約者も婚約者の父も死に至らしめることになる。

 そして自分自身も。

 ひどい話だ。



 亡霊の手招きを見ると、妙に俺の胸が締め付けられる。

 強く優しい父の姿、息子に注いできたあふれる愛、妻や弟を信頼してきた父の思いが俺の心にあふれてくる。

 ハムレットとしての記憶が確かにこの俺の中にあるのだ。

 父を殺して母を奪った叔父は人倫に反している。

 俺の次ぐべき王位も叔父に簒奪された。許してはならない。



 そう考えかけて、俺は自分とハムレットをごっちゃにしていることに気付き、ぶんぶん頭を振る。

 このまま芝居のとおりに進めば自分も周囲も身の破滅。

 夢にしても、四大悲劇のひとつを自分で再現するのは避けたい。

 父上はすでに亡くなったのだ。

 これ以上の死は不幸を呼ぶだけだ。

 父上、すみません。



 ホレイショーが心配げに俺を見て言った。

「ハムレット様、行くのはお止めください、危険です」

「うむ、そのとおりだな」

「え?」



 俺はくるりと回って暖かい自室へと引き返すことにした。

 ホレイショーは怪訝そうな、しかしほっとしたような表情を浮かべて付いてくる。

 ちらりと振り返る。

 青白い亡霊が手をぶんぶん振って全力で手招きしている。

 さようなら父上、なるべく早く天に召されてください。


 城内に戻り、まだ心配そうなホレイショーと別れ、俺は自室に戻った。

 俺にとっては初めて見る部屋なのだがハムレットにとっては幼い頃から過ごしてきた部屋だ。

 寝室に居室に書斎などいくつもの部屋があって、さすがに王子だけはある。

 調度品も見るからに高級、職人が技を尽くした芸術品だ。



 もう夜も遅い。暖炉はあるが石壁から冷気が浸透してくる。

 亡霊を見たせいか身体の奥底まで氷を詰められたかのようだ。

 俺は大きなベッドに上がって布団に潜り込んだ。

 いつもだったら寮の小さな二段ベッドで寝ているのだが。

 強い眠気が襲ってくる。


 目を覚ます。

 夢の中では三魔女の言葉が繰り返し流れ続けていたような気がする。

 俺は大きなベッドで寝ていることを確認した。

 ここは学校の教室ではない。



 まだ夢が続いているのか。こんなに長く鮮明な夢がありえるのだろうか。

 ともかく引き続き俺はハムレットを演じ続けねばならないようだ。



 居室のいかにもアンティークっぽいテーブルの上、手紙が山と置かれているのに気付いた。

 手紙はこの俺、ハムレットがオフィーリアに送ったものだ。

 オフィーリアはハムレットの愛する女性だが、交際はオフィーリアの父ポローニアスから歓迎されてはいない。



 手紙の上には紙が一枚載っている。オフィーリアの筆跡だ。

 紙に書かれていたのは、父のお言いつけに従ってハムレット様からいただいた手紙をお返しいたしますとのメッセージ。

 筆跡を見るだけで俺の心臓が大きく跳ねて驚かされる。



 オフィーリアのことを考えると胸がどきどきする。

 せつない思いが湧き上がってくる。これがハムレットの抱えているオフィーリアへの思いなのか。

 オフィーリアはハムレットの愛する娘であり、彼女の父はこの宮廷の重臣であるポローニアスだ。

 ポローニアスは叔父の忠実な手下でもある。



 俺は芝居の筋書きを思い返す。

 オフィーリアの父ポローニアスは、ハムレットがオフィーリアに遊びで手を出していると信じ、別れるようオフィーリアに促す。

 オフィーリアは父の命に従って手紙や贈り物をハムレットに返す。

 復讐を進めるハムレットはオフィーリアを冷たくあしらい、尼寺に行けと告げて彼女の心を傷つける。

 事故によってハムレットはポローニアスを殺してしまい、オフィーリアは心を深く病んだあげく川に落ちて水死する。



 俺は考え込む。

 この返却された手紙の山、いずれ贈り物も突っ返されるだろう。

 オフィーリアはこのハムレットを愛しているのだろうか。

 愛しているのなら、父に言われたからとてすぐにラブレターを返すものだろうか。

 オフィーリアがハムレットをどれだけ愛しているものやら疑わしい。



 ハムレットのほうもまたオフィーリアを本当に愛しているのか。

 俺がハムレットの原作を読んだ時にはピンと来なかったのだが、どうもこのハムレットはオフィーリアに激しく恋しているらしい。

 我ながら厄介だ。



 ともかく亡霊のための復讐は避けたのだからもうオフィーリアを悲しい運命が見舞うことはないはず。

 まずはオフィーリアに会って互いの気持ちを確かめ、これから自分はどう振る舞うのが安全か考えてみよう。


 朝食を済ませてから俺はひとりオフィーリアを訪ねることにした。

 ポローニアスの屋敷つまりオフィーリアの家は城近くの貴族居住地にある。

 歩いてもさほど時間はかからない。



 勝手知ったる屋敷だ。

 俺は警備兵に声をかけてから屋敷に入り、オフィーリアの部屋に向かう。

 扉を軽くノックしてから開いた。すぐそこにオフィーリアが立っていた。



「突然いらっしゃるなんてどうなさったのかしら、驚かされましたわ」

 言葉とは裏腹に、ずっと扉の向こうに立って待っていたかのようだった。

 着飾った姿でまっすぐに俺を見つめてくる。

 歳は十六歳ぐらいだろうか、薄い金髪に透けるような白い肌、青い目、全体に色素が薄く身体の重さを感じさせない様はまるで妖精のようだ。

 美しい彼女の視線に射抜かれて俺はどぎまぎしてしまう。



 部屋には数人の召使が控えていた。世話をするだけでなく父ポローニアスによる監視も兼ねている連中だ。



「手紙をどうして返すんだ」

 俺はそう言いながら部屋に入る。

 こじゃれた小テーブルの上に装飾品が積まれている。

 これはハムレットがオフィーリアに贈ってきた品々ではないか。



 オフィーリアが近づいてくる。

 奥の召使たちが俺とオフィーリアの距離を厳しく測るように睨んでくる。怖い。

「理由は書いておきましたわ」

「あれではよく分からない」



 オフィーリアは微笑んだ。

「ハムレット様ならすぐに来てくださると思ってましたの」

 オフィーリアはうれしそうに言う。

 さっきは驚かされたと言っていたはずだが。



 オフィーリアがテーブルの上から首飾りをひとつ摘み上げて、俺に掲げてみせる。

「これは初めてお会いしてから翌日に贈っていただいた真珠の首飾り」

 次に指輪を摘まんで、

「こちらはその八日後、手紙に同封されていたオパールのシルバーリング。とてもうれしい贈り物」



 うふふふとオフィーリアは笑って、

「でも父に言いつけられましたからお返しすることになりますわ」

 オフィーリアは首を傾げてみせる。

「そしたらまたハムレット様はすぐに来ていただけるかしら」



「その、俺は、お前のことを、そう、ないがしろにはしないつもりだ」

 おれはしどろもどろに言う。



「いつものように愛を長い長いセリフで語っていただけないのかしら。ハムレット様がお語りになる言葉はいつもまるで詩のように美しく情熱的でいらっしゃるのに。今日のハムレット様はおかしいですわ」

 オフィーリアは目をまっすぐに合わせながら顔を近づけてくる。



「いや、手紙をいきなり返してきたから俺は戸惑っているのだ」

 俺がそう言うや、オフィーリアの表情がぱっと輝いた。

 ドレスをひるがえしてくるりと回ってみせる。

「うふふふふふふ、そうでしたのね。でしたら仕方のないことですわ。ハムレット様、ねえハムレット様、またお手紙をお願いしますわ。たくさんいただいて、たくさんお返ししますわ」

 うれしくてたまらないといった様子のオフィーリアだ。



 俺は汗をかいていた。

 オフィーリアがこんなにもハムレットへの思い入れが激しいとは思ってもみなかた。

「そうか。ともかく元気そうでよかった。今日はもう帰るとしよう」

 ともかくオフィーリアとの関係性はつかんだので、ここはひとまず引き下がることにする。



 オフィーリアの表情が曇る。

「あら、もうお帰りになるの。やっぱり変なハムレット様。お父様にお話しなくちゃ」

 魅力的な彼女だが、下手に動こうものならオフィーリアの父ポローニアスにどんな話を言いつけられるかしれたものではない。

 ここでおとなしく過ごすためには、授業で習った「君子危うきに近寄らず」というやつだ。



 俺はそそくさと退散した。

 そしてしばらく自室に引きこもろうと決めた。



 ハムレット原作では、亡霊の父から伝えられた死の事情にハムレットは苦悩し、奇矯な行動をとるようになる。

 それを義父である現王やオフィーリアの父であるポローニアスが恋の病かと疑い、行動を探り始める。



 そこに芝居の一座がこのエルシノア王城を訪れて、ハムレットは芝居の内容をいじって義父が本当に父を殺したのか確かめようとするのだ。

 これが両者の関係を破綻させて、義父は暗殺者を送り込んできたり、ハムレットはポローニアスをうっかり殺してしまったり。

 王家は破滅へと転がり落ちていく。



 このまさしく悲劇を避けるためには、まずおとなしく過ごして目立たないことだ。

 芝居にも口を出さない。そうしていれば無難に筋書きは進んでいくだろう。



 目が覚めそうな気配はまるでないままに俺は日々を過ごしていった。もはやこれは夢ではないと俺は考え始めていた。

 いくらなんでも夢の中で何度も寝たり起きたりはしないだろう。

 手の甲をつねってみれば痛く、なにもかもはっきりしている。

 認めざるを得ない。

 これは夢ではなくておそらくハムレットの世界にいるのだ。



 この世界が芝居どおりだとすれば、終幕まで到達することで脱出できるのではないかと俺は期待していた。

 ただ、何事も起こさず進むのであれば終幕とはなんだろうか。どうすればたどり着けるのだろう。


 ひきこもった俺は特にやることもなく自室で過ごしていたものの、毎日それではさすがに暇すぎる。

 テレビもゲームもない。

 いくら無難に過ごすのが正しいにしても耐えられなくなっていた。

 せっかくの奇妙な体験ではあるし、俺は観光がてら王宮の中をうろつき始めた。



 適当な室内着をまとって王宮の大廊下をうろうろしながら本を読んだり聞き耳を立てたり。

 ハムレットが留学先の神学校で買い込んできた本はそれほど面白くもないのだが、他に娯楽本があるわけでもなく暇つぶしで仕方なく読んでいる。



 今日もそうしていると人がやってくる気配を感じて、俺は大きなカーテンの陰に隠れてみた。

 やってきたのは義父つまり現王とポローニアスだ。

 二人が話しているのは俺のことだった。



 義父はポローニアスに俺の様子を聞いている。

 俺はおとなしく引きこもっているのだから安心といった話があるのかと思ったら様子が違う。


 ポローニアスが義父に説明し始めたのは、ハムレットは恋の病でおかしくなって引きこもってしまったこと、あれほど話好きな王子がすっかり静かになったのはオフィーリアに王子との交際を禁じたからに違いないといった内容だった。



 俺は愕然とした。

 原作のハムレットは、亡霊に会ってからというもの誰かれ構わず食ってかかるようになって周りからおかしくなったのではと疑われるようになる。

 それを避けたつもりなのに、静かなら静かで疑われるのか。



 ハムレットが本当に恋の病なのかポローニアスが確認するという段取りにが決まった。

 義父は大廊下を出ていき、ポローニアスは俺を探そうとしてか残る。



 向こうから来るぐらいならと俺はカーテンをそっと出て、王子らしく横柄に声をかけた。

「ポローニアスではないか。暇そうだな」

 ポローニアスは五十代ぐらい、しわのある額に立派な髭、真面目だが調子に乗るとうるさそうな印象だ。

 オフィーリアと見た目は似ていない。

 中身はよくよく考えてみるとなんだか似ているかもしれない。



「これはこれはハムレット様!」

 ポローニアスは俺の姿に下から上まで目をやり、額にしわを寄らせる。

 斜め下を向いてつぶやき始めた。

「これほどだらしのないお姿で本を抱えてさまよわれるとは、やはり我が娘への恋に悩んでご憔悴のあまりおかしくなられたに違いあるまい、おいたわしや」

 俺にはっきり聞こえているのだが、ポローニアスは分かっていないようだ。



「留学先でそろえた本が面白くてな、つい読みふけってしまっているのだ」

 俺は言い訳をしてみる。

 それを聞いたポローニアスが驚きの表情を浮かべた。

 なにか間違ったことを言っただろうか。

「ハムレット様、まさか神学校にお戻りになろうと?」

 緊張した面持ちでポローニアスが問うてくる。



 俺は原作を思い返す。

 もともとハムレットは遠方の神学校に留学していたのが、父の死に伴い王位継承者として義父から呼び戻されているのだった。

 隣国ノルウェイの王子フォーティンブラスがこの国デンマークの王位継承権を主張しており、王位継承者の不在は彼に付け込まれる隙となってしまうのだ。

 新たな世継ぎが生まれるまではハムレットがいないと都合が悪いわけだ。



「うむ、それも悪くはないな。フォーティンブラスの騒ぎを気にすることもなく静かに本を読めるというものだ」

 かまをかけてみる。

 俺がこのデンマークを離れさえすれば悲劇は起きようがなくなるし、この芝居の世界も終幕を迎えるかもしれない。



「は、フォーティンブラス王でございますかな、これはまた妙なことをおっしゃられます。先代とは争って命を落としたフォーティンブラス王も今は静かに墓の下で眠るばかり」

「息子はいなかったか」

「おりません」



 どうもおかしい。

 そうだ、そうだった。

 学祭でハムレットをやるには脚本が長すぎて登場人物も多すぎる。

 だからわずかな出番しかないノルウェイのフォーティンブラス王子を学祭用の脚本から省略したのだ。

 出てくる意味がないと皆からも言われてのことだった。

 今、俺がいるこの世界はハムレット原作ではなく俺がまとめていた脚本に基づいているということだろうか。

 だからフォーティンブラス王子はいない。



 ポローニアスはまた斜め下を向いてつぶやきだす。

「フォーティンブラスがどうのなどと宣われて、やはり王子様はおかしくなられている。そうとしても王子様がまたご不在となれば王も王妃もお心が休まらずお困りになるのは必定、わしが恋をお止めしたばかりにかような事態を招いてしまった。しかし、こんなこともあろうかと王子のご友人を呼んでおいて正解でありましたぞ」



 ポローニアスは顔を上げた。

「気鬱ゆえにかようなことをおっしゃるのでございましょう、気晴らしをしていただくためにご友人を呼んでありますぞ」

「友人とは誰だ」

「親しいご友人、共に子どもの時代を過ごされた幼馴染のローゼンクランツギルデンスターンでございます」

「ギルデンスターンとローゼンクランツ?」

 ポローニアスが目を見開く。

「いえ、ローゼンクランツギルデンスターンでございます。まさか幼馴染のご友人もお忘れとは。なんたること、ご心配でなりません」

 ポローニアスはがっくりと肩を落とす。

「ああ、早く娘を会わせてみねば……」



 力なく去っていくポローニアスと入れ違いで、向こうから若い男が近づいてくる。

 ハムレットと年齢は同じぐらいだろう。

 男はポローニアスと挨拶をかわした。

 王子はそちらにおられるとポローニアスが案内して、男は俺のほうにやってきた。



「ハムレット様、お懐かしい!」

 男は親しげな様子で声をかけてきた。

「ええっとギルデンスターンローゼンクランツ」

「ご冗談を、ローゼンクランツギルデンスターンですハムレット様」



 俺は確信した。

 ハムレット原作にはギルデンスターンとローゼンクランツという二人組がいる。

 俺は学祭でハムレットをやるにあたり、二人は同じような役柄で区別がつかないし役者も足りないのでまとめて一キャラにしたのだ。

 それがローゼンクランツギルデンスターン。

 そいつがいるということは、俺がいるこの世界はシェイクスピアの書いたハムレットそのものではなく、俺が学祭用に縮めたハムレットの世界なのだ。



「ローゼンクランツギルデンスターン、長すぎる」

「よく言われることでして、どうぞ昔のようにロズギルとお呼びを」

 ロズギルは追従笑いを浮かべる。



「どうしてここに来たのだ」

 俺が問うとロズギルは目を泳がせてから答えた。

「久しぶりにお会いしたくなりまして」

「叔父に命じられたのだろう」

 ロズギルはびくりとした。

「ええ、はい、王様はハムレット様をいたくご心配なようでこの私めにお声を。幼き頃を共にすごしたハムレット様のためとあらば即参上した次第」



 俺は困惑した。芝居のハムレットと違い、この俺は亡霊の言葉を無視しておとなしく引きこもっているのに叔父もまた俺を不安視するのか。



「俺のどこが心配だというのだ」

 ロズギルは目をぱちぱちさせる。

「あの気性が激しいハムレット様がおとなしく部屋におこもりとくれば、王様も王妃様もそりゃまずいことが起きるのではとお考えになるでございましょう」



 俺は内心でお手上げした。ハムレットのキャラは厄介すぎる。

「おとなしくして文句を言われるとはな」

「また留学のご準備をなさっているのではないので?」

「留学しちゃまずいのか」

「お世継ぎと決まったハムレット様が坊様の学校に戻られては国の一大事だそうで」



 俺はちょっと考える。

 もともとハムレットは遠くの神学校に留学していた。

 何もなければ僧侶になっていたはずだ。それが先王の急死で国に呼び戻された。



 叔父は王位を継いだばかりで子どもはいない。

 先王の息子であるハムレットがいないと、この国は王子が不在となる。

 政治的に不安定な状況となるのがまずいのだろう。

 息子を呼び戻して王妃を安心させる目的もありそうだ。

 それにしては原作ではなんだかんだ言ってハムレットを暗殺しようとしていたが。



「心配させるつもりはないと伝えておけ」

「留学は止めなさるので?」

 問うてくるロズギルを置いて、俺は自室に戻ろうとした。

 そこにトランペットが鳴り響く。



「あれはなんだ」

「旅芝居の一座が到着したようで! 私めがここに来る途中で追い越した連中でございます。これは楽しみ見に行かねば!」

 ロズギルはうきうきと去っていく。



 俺も一座を見に行きたくなりかけて、己を止める。

 原作ではこの一座にハムレットが特別な芝居を演じさせる。

 叔父が父を殺したのと同じような状況を見せて、叔父の反応から本当に殺したのかどうか確かめようとするのだ。



 はたして叔父は激烈な反応を示し、ハムレットは叔父が真犯人であることを確信する。

 しかし叔父もまたハムレットが敵であることを理解して決定的な対立が始まる。



 この芝居はまずい。

 俺はこの世界でなんとか平穏無事に過ごしながら元の世界に戻る方法を探そうとしている。

 叔父を敵に回すつもりはない。

 芝居好きなハムレットの血が騒ぐのを抑え、一座には近づかないようにしよう。

 俺は自室に戻り、扉をしっかり閉めてベッドに寝転がった。


 翌日になった。

 目が覚めると相変わらずこの怪しい世界にいる。なんとか切り抜けていかねば。



 今日は一座が芝居を演じる日だ。食事を持ってきた召使がそれを伝えていった。もちろん俺は観に行かない。



 退屈な時間を自室で過ごす。



 オフィーリアの召使が、かつて俺からオフィーリアに贈った指輪を返品にやってきた。

 オフィーリアへの手紙や言付けを期待しているようだったが、ただ指輪を受け取って返す。



 芝居が始まったらしく、遠くの大広間からこの自室にまで騒ぎの声や楽器の演奏が響いてくる。

 テンションが上がって観に行きたくなる。しかし我慢だ。



 そうしているとようやく静かになって、俺が一息ついた時だった。

 がやがやと話声が近づいてくる。

 芝居の寸評をしているようだ。

 妖精と神父の芝居だったらしい。

 ハムレットが介入しない場合はそういう芝居が選ばれるのか。

 まるで本物みたいな妖精だったとか、大笑いしたとか。

 気楽なものだ。



 そしてノックの音がした。

「ハムレット様、ハムレット様」

 呼びかけてくる声はロズギルのものだ。

 俺はため息をついてベッドから立ち上がり、居間へと動く。



「入っていいぞ」

 そう返答すると扉が開き、大勢がどっと入ってきた。

 先頭に叔父クローディアス、続いて母ガートルード、臣下のポローニアス、ロズギル。

 叔父は親し気な表情を浮かべ、威厳を出そうとしてか大振りにゆっくり歩いて俺に近づいてくる。



 その姿を見た俺は、どっと血が沸き立つようだった。

 怒りが俺の身体を震わせる。猛烈な殺意がたぎる。

 父を殺され王位を奪われた王子ハムレットの激情だ。

 いかん、これはまずい。

 俺の手が剣に向かおうとするのをなんとか押さえ込む。

 叔父を大声で猛烈に非難したくなるのを深呼吸して抑える。



 ハムレットは内心に溶岩のような煮えたぎる思いを秘めていた。

 ハムレットになった俺はそれを無視してきたが、叔父と会うことで思いが決壊しそうだ。

 これでは原作どおりの暴走ハムレットになってしまう。



 怒りで血圧が上がって、目の前が赤くなる。

 怪訝そうな叔父の姿が血に染まって見える。

 俺はなんとかゆっくり手を上げて言った。

「体調が…… 悪くて」

 実際、俺の身体はふらついていた。



 母ガートルードが駆け寄ってきて俺の身体を支えた。

「ごめんなさいね、ハムレット。そんなこととも知らずに押しかけて」

 叔父も話しかけてくる。

「芝居に目がないお前が来ないから心配に思って皆で見舞いに来たのだ。許せ」

 俺はゆっくり手を振る。



 俺は母に付き添われてよろよろと歩み、寝室に入ってなんとかベッドの端に座る。王の前で無礼な行為なのだろうが知ったことではない。



 だめだ。

 ただ何もせずこの王宮に居続けるのは不可能だ。

 ハムレットはそんな俺を許さない。

 どこかに逃げねば。

 留学していた神学校に戻るか。

 いや、それは反対される。

 だとしたら。



 俺はあえぎながら言う。

「実は、国のためにイングランドに行く役目を果たせないものかと、悩んでいたのです」

 心配そうな母の顔が少し明るくなった。

「ああ、国のために悩んでいたのね!」

 後ろに控えているポローニアスが微妙な表情だ。

 彼はハムレットが恋の病でおかしくなっていると信じている。



 叔父も安心した様子で、

「そうか、我が息子よ。国を思うあまりに身体まで悪くするとは立派なことだ。イングランド行きを認めるぞ。ロズギルを供につけてやろう」

 いきなり話に出されてロズギルは首をびくりとさせる。

「良かったですね、ハムレット。ゆっくりお休みなさい」

 母が優しく言う。

 俺はうなずく。



「すぐに医者を寄こしてやろう」

 叔父はそう言い残して、鷹揚な態度で出ていく。母やポローニアス、ロスギルも付いていく。



 扉が閉まった。

 部屋は静かになり、俺は憎しみに叫び出しそうになるのをなんとか我慢してベッドを殴りつける。



 血管を膨れ上がらせるような怒りの血が全身を巡っている。

 医者がやってきたのを追い返し、剣を抜いてやみくもに振り回す。

 俺は今の自分がハムレットであることの意味を思い知った。

 ハムレットはとんでもない激情家だ。



 このままハムレットであるべきか。いや、それは勘弁願いたい。破滅に向かってまっしぐらだ。

 だが、ハムレットでなくなるべきか。この激情を抱えたまま、そんなことが可能とは思えない。



 原作のハムレットは叔父にイングランド行きを命じられている。

 この手に乗って、なんとか王宮を脱出し、ハムレットであることから逃げ出そう。

 だが俺は大事なことを忘れていた。逃げてはすまないこともこの世にはある。

 それは後に思い知らされることになる……


 俺はイングランド行きの支度をするために王宮内を出歩いていた。

 母に別れの挨拶を告げ、オフィーリアについて問われたが言葉を濁してきた。

 オフィーリアへの恋しい思いは正直言ってある。

 ハムレットとしての思いだけでなく、この俺自身も彼女に出会ったときその可憐さに心を囚われてしまったらしい。

 だが彼女に関わればいずれ死に追いやりかねない。ハムレットの激情に巻き込んではならないのだ。



 そんな思いを抱えてぼんやりと大廊下を歩いていた俺は、いきなり声をかけられて心臓を大きく跳ねさせてしまった。

「ハムレット様、お元気になられたのですか」

 オフィーリアだ。彼女が一人でそこにいた。



 普段は大勢の召使に囲まれている彼女が一人だけで出歩いているのは珍しい。

 俺は周囲を見回す。

 どこかにポローニアスが身を潜めて耳をそばだてているかもしれない。

 彼はきっとまだ俺を恋の病と疑っていて、証拠を作ろうと狙っているのだ。



「ハムレット様、どうかなっさったのですか」

 オフィーリアが怪訝そうに問いかけてくる。

「いや、大丈夫、すっかり元気だ」

 オフィーリアの声を聴くだけで心が弾んでしまう。

 病かどうかは知らないが恋は確かだ。近寄って抱きしめたくなる。



「でしたら、どうしてまた来ていただけないのですか。贈り物をすっかりお返ししたのに。あんなに語っていただいたお言葉は嘘偽りだったのかしら、ハムレット様。私を置いてイングランドに行って、そのまま帰ってこられないおつもりなのでしょう」


 オフィーリアが悲し気に責めてくる。

 彼女が手紙や贈り物を返してくるのはハムレットがまた次を持ってくるのが楽しみだからだ。

 しかし俺はただ返品を受け取るだけで何もせずにいた。

 会えば別れがたくなる。

 そう自分に言い聞かせて彼女から逃げてきたのだが。



「オフィーリア、確かに俺はイングランドに行く。でもいずれ役目が終われば戻ってくる」

「兄も同じようなことを言って出かけたままそれっきり戻って来ませんわ。私はただ待つだけ」


 オフィーリアがなじる。

 オフィーリアの兄レイアーティーズはフランスに出向いて確かにまだ戻ってきてはいない。

 父から旅など許してもらえないオフィーリアは王宮に閉じこもっているしかない。

 いや、一つだけ方法があるか。



「君だって尼寺には行けるじゃないか」

 言ってから気付いた。

 これは絶対に言ってはならない言葉だ。

 どうして俺は。舌が滑って。



 オフィーリアの表情が凍り付く。

「……私をお捨てになるのね。邪魔になったから放り出して遠くの国で新しい女を探すのね」

 まずい。

 失言してしまった。

 なのに、それがわかっていても俺の舌が止まらない。



「可能性を話しただけだ。君は女なんだから尼寺に行けるだろう」

「またおっしゃるのね。私だって行きたいところに行きます。王子様はどうぞご自由にイングランドでもドイツでもフランスでもお出かけくださいませ」

 オフィーリアの顔は血の気が引いて真っ青だ。



「止めろオフィーリア、尼寺だったら安全なんだ。外に出るな。いいか、川にだけは絶対に近づくな」

「川? 川でもどこでも行ってみせますわ」

 オフィーリアはもう俺の言うことなど聞かず、両目から涙をこぼしながら去っていく。



「だめだ川だけは止めてくれ、オフィーリア! 行くなら尼寺へ行け!」

 俺の言葉はまるで届かない。

 なんてことだ。

 口が滑った。

 ハムレットの気性がこんなことを言わせてしまう。

 俺は遠く小さくなっていくオフィーリアの背中を見ていることしかできない。



 原作のハムレットもオフィーリアをさんざん侮辱して尼寺へ行けと繰り返し、彼女を深く傷つけてしまった。

 だがしかし、原作とは違う。

 この俺にはオフィーリアの父ポローニアスを殺すつもりは全くない。

 俺がいなくなるぐらい、オフィーリアを死に追いやるほどのショックではないはずだ。

 俺はそう信じた。



 そして俺はイングランド行きの船上にいる。



 国の港を出てから数日、天候が良く穏やかな航海が続いている。

 太陽が真上に登り、船員たちが声をかけあって忙しそうに働く中、王子である俺はなにすることもなく船首のあたりで風に吹かれている。

 船酔いにもなんとか慣れた。潮風は心地よい。



 だが俺の心中は穏やかではなかった。

 叔父から供に付けられたロズギルが問題だったからだ。



「ハムレット様、気持ちいい風でございますな」

 そのロズギルが意気揚々とした様子で声をかけてきた。

 風の心地よさが失せる。

「お前は船酔いしないのか」

「元気はつらつ、面白おかしく過ごしておれば船酔いなど気にならないものでございますぞ」

 そう言い、今回のイングランド行きがどう重要でロズギルが如何にその大任にふさわしいかをべらべらとしゃべり続ける。



 今回のイングランド行きは、イングランド王にデンマークへ貢物を贈るように促すのが目的だ。

 だが原作では裏があった。

 イングランド王への親書にはハムレットを処刑するようにと記されていたのだ。



 今回は俺から申し出た任務だし、叔父を責めたりもしておらず対立はしていない。

 それでも念のため親書の確認はしておきたい。

 親書はロズギルが持たされている。叔父が彼に預けた。



「なあ、ロズギル。お前は親書を持っているよな」

「もちろん! 私めに託されたこの上なき大事なる代物、ここにしっかりと」

 ロズギルは胸を叩く。上着の内ポケットにしまってあるのだ。

「俺が預かろう」

「とんでもない! 王様から直々に渡されましてイングランド王以外の誰にも渡さないよう厳命つかまつった次第、ハムレット様のお手を煩わすことはございません」

 ロズギルは胸を張って言う。



「ローゼンクランツとギルデンスターンは一身同体だよな」

「そりゃもうローゼンクランツギルデンスターンでございますから」

「ではギルデンスターンとローゼンクランツも一身同体か」

「もちろんギルデンスターンローゼンクランツでひとつございますから、あれ?」

「俺たちは友達だよな」

「ええ、もちろん! 幼馴染にして真の友でございます」

「ギルデンスターンとローゼンクランツがひとつならば、この親友であるハムレットとも一身同体」

「ありがたきお言葉」

「俺たちはギルデンスターンローゼンクランツハムレット」

「私めたちはギルデンスターンローゼンクランツハムレット、そりゃもう」

「だから俺に渡しても命令を破ったことにはならない。だいたいイングランド王に会ったとき王子が代表して渡すに決まっているだろう。お前は王子なのか」

「ええ、はい、一身同体なので私めは王子」

 ロズギルは目をぐるぐるさせている。



「ああ、私めはデンマークの輝かしき王子、剣の達人にして学者、礼儀と衣装のお手本、美男子ギルデンスターンローゼンクランツハムレット様! 感激でございます」

「そして俺もローゼンクランツギルデンスターンハムレットだ、だから親書は俺が持っておればよい」

「そう、そうかも、そうでございます」

「さあ渡せ」

 ロズギルは上着の内ポケットから親書の封筒を取り出して俺に渡した。

「よし、これでお前は立派な王子だ。王子らしく船の指揮をとってくるがいい」

 俺がそう言うと、ふらふらしながらロズギルは自分はギルデンスターンローゼンクランツハムレット王子なのだとつぶやきながら船員たちのほうに向かっていった。



 俺は船中央の階段を降りて、自室に戻り鍵をかけた。

 絶え間なく揺れている狭いベッドに腰かけ、封筒の封蝋を割って剥がした。

 中から手紙を取り出す。

 イングランド王宛の親書だ。

 開いて読む。

 古い英語で書かれているのだがハムレットでもある俺にはすらすらと読めた。



 船室の床が崩れて海に放り出されるような衝撃だった。

 文字どおり目の前が暗くなる。

 そこにはハムレットを処刑するようにとの依頼が記されていた。



 原作どおりではある。

 しかし俺は原作のハムレットとは違っておとなしく平穏無事に過ごしてきたはずではないか。

 殺意を抱かれる覚えはない。



 俺は何か重大な事実を見落としているのか。

 ともかく親書をこのままにしては危険だ。



 原作ではローゼンクランツとギルデンスターンを処刑するようにと親書を書き換えた。

 だがそれはあんまりだ。

 憎い叔父の手下とはいえ、別に親書の内容を知っていたわけでもなく、俺への害意はなかった。

 阿呆なだけだ。



 ハムレットはどうしてそこまでしたのだろう。

 俺にはハムレットを理解しきれない。

 それがこの事態につながっているのか。

 ともかくロズギルは殺さなくていい。



 この親書を持参する者がハムレットであり、事情があってデンマークには帰せないから軟禁しておくようにと書き換えた。

 肌身離さず持っていた形見である先王の印を使って封蝋をやり直す。

 これで本物にしか見えない。



 俺は自室を出て、ロズギルの船室に行き扉を開けた。

 ロズギルが途方に暮れた顔で狭い船室の中をぐるぐる回っていた。

「この方はハムレット様、いや私めがハムレット様、ではこの方は」

 ロズギルがぶつぶつと言う。



「お前はギルデンスターンでありローゼンクランツでありハムレットだ。俺はハムレットでありハムレットでない。だからこれはお前が持っておけ」

 偽親書を手渡す。

 ロズギルはぱっと明るい表情になった。

「私めはやはりハムレット様!」

 狭い船室で親書を持って小躍りし始めたロズギルは揺れたはずみであちこちにぶつかる。

 それでも止める様子はない。



 俺は彼を置いて自室に戻った。

 親書の件はひとまず片づいたとして、これからどうするか。

 俺は叔父から命を狙われる身。

 故国に戻って闘うハムレットであるべきか。

 ハムレットでも誰でもない者として逃げるべきか。

 それが問題だ。


 翌日。天候は曇り、行先には暗雲が垂れ込める。

 冷たい逆風を進む中、流れてくる黒い霧は段々と濃くなってきた。



 考えがまとまらないままに甲板をうろついていた俺の耳を警報のラッパがつんざいた。

「海賊だ!」

「海賊船が近づいてくるぞ」

 確かに後方から船が迫ってくる。

 船尾で双眼鏡を使って確かめてみると、速そうな中型の帆船が海賊旗を掲げてこちらに向かってきていた。

 こちらは大型の商船、頑丈だが速度は遅い。

 追いつかれるのは必至だった。



 俺は海賊船の出現に運命を感じていた。

 原作でもイングランドへの航海中に海賊船が現れ、斬り込もうと乗り移ったハムレットは捕虜となるも、王子だと気付いた海賊たちから大事にされてデンマークの港に送り届けられる。

 このくだりが再現されようとしているのだろうか。



 ただ俺は原作の脚本を読んだときにここがどうにも納得できなかった。

 海賊船になぜか一人だけ乗り移り、ハムレットを乗せていた商船はなぜか彼を置いて去り、そして海賊はなぜかハムレットを港に送り届ける。

 いくらお芝居にしても都合が良すぎる。

 しかもこのくだりはハムレットが手紙と口頭で説明するだけ。

 実際に起きたことは描かれないのだ。



 何か裏がある。語られていない物語がある。明かすためには物語を進めるしかないだろう。



 海賊船は大砲を使わずに近づいてくる。

 乗り移るつもりだろうか。

 海賊船に真後ろから接近されてこちらの商船も大砲をうまく狙えない。

 巧みな舵取りで海賊船はついに衝角を商船にぶつけてきた。

 船員たちが叫ぶ。

 商船がきしみ、甲板が揺れる。



 俺は船尾から海賊船へと身を躍らせた。

 海賊船の甲板に着地して全身に衝撃が走る。

 俺は少しよろめきはしたものの倒れることなく足を踏ん張り、海賊たちに向かって剣を抜いた。

 ハムレットは剣の達人なのだ。



 海賊の叫びが聞こえる。

「面舵いっぱい、ここを離れるぞ!」

 海賊船は右に傾いで反転し、風に乗って急速に商船から離れていく。



 俺を囲む海賊たちは剣を収めた。

 海賊船長とおぼしい男が歩み出てきて俺に恭しく礼をする。

「侮辱する気か」

 俺が言うと相手は答えた。

「とんでもない、我々はハムレット派、あなた様が王位に就くことを願う者たちです。ハムレット王子万歳!」

 周囲の海賊たちもだみ声で唱和する。

「ハムレット王子万歳!」

 予想外の反応に俺は立ち尽くしていた。



 草原の中の街道を俺の乗った馬が駆け抜けていく。

 目指すはエルシノア王城のオフィーリア。



 海賊船に乗り移った後の俺は海賊に歓待されて、デンマークの港に戻った。

 海賊? いや彼らは現王に敵対する軍事勢力だ。

 この俺を担ぎ出してデンマークをひっくり返そうと目論んでいる。



 今この国は脆い。

 偉大な先王が急死して、王子ではなく叔父が王位を継いだ。

 政治の雲行きは変わり、新勢力が旧勢力を追い出している。

 旧勢力は昔を取り戻すための旗印に先王の息子であるハムレットが必要なのだ。



 もともとハムレットは人気だった。

 王を期待する者たちも多かった。

 ハムレットはこの国を爆発させるに足る火種だ。恐れられて当然だった。

 復讐はまだしも、内戦に担ぎ出されるのはまっぴらだ。

 デンマークから逃げるのが正しかったろう。

 けれども俺は急いで戻らねばならなかった。



 あれほど原作とは異なる行動をとっても親書の内容は変わらず、海賊が現れ、原作どおりデンマークに戻ってくることになった。

 であるならば。



 原作のオフィーリアは、ハムレットから手ひどい扱いを受けたあげく父ポローニアスをハムレットに殺されて心神喪失して川に落ちる。

 俺はポローニアスを殺していない。

 それでも原作どおりにこの世界が動いていくのならば。その未来は断じて避けねばならない。



 俺は馬を急がせる。



 濃くなってきた暗い霧を切り裂くように駆け抜ける。

 彼方にはエルシノア王城が見えてきた。

 俺は街道を外れて草原へと馬を踏み入れさせる。



 この先には幼いころにオフィーリアやその兄レイアーティーズたちと遊んだ野原が、そしてそこを流れる小川がある。

 柳が岸に茂る小川。俺はそこを目指す。



 風に乗ってか細い歌声が聞こえてくる。

 優しく弱弱しい女性の声、花を歌っている。

 馬は駆ける。

 歌声がふいに途絶える。

 俺は馬に鞭を入れる。馬はあえいでよだれを飛ばす。


 

 水音。

 俺は馬から転がるように降りて小川へと走る。

 小川。

 折れた柳の枝が浮かんでいる。

 それと花輪が水面に揺れていた。

 死人の指と呼ばれる紫蘭の花輪だ。

 散った花びらが流れる。

 小さな泡が川底から浮かび上がってくる。



 そこに紙も浮かんできた。



 ああ、見覚えがある。

 この紙は俺がオフィーリアへと送った手紙。

 オフィーリアが最後までとっておいた一通。

 初めて送った恋文だ。



 この川底にオフィーリアがいる。

 原作どおり、小川の端で柳の枝に腰かけようとしたオフィーリアは枝が折れて小川の底深くへと沈んでしまったのだ。



 俺は小川に飛び込んだ。

 水は黒く視界は閉ざされている。

 潜っては手を振り回すがオフィーリアの手ごたえはない。

 息が切れそうになって水面に戻り、また潜り。

 どこにもオフィーリアはいない。



 川の流れが彼女を連れ去ってしまったのか。

 彼女の身体はない。

 ただ花びらが点々と小川を流れていく。



 彼女の身体を追って、俺は川下へと深く潜る。

 底の泥が俺の身体にまとわりつき、身動きができなくなる。

 息ができず、俺の意識は薄れていく。俺は叫ぼうとする。



「オフィーリア!」

 俺の叫びが暗く深い霧にこだまする。



 ここはどこだ。周りは霧に包まれている。

 川でおぼれていたはずの俺は霧の中をさまよっている。

 遠くから女たちのしゃがれた声が響いてくる。



「終わりは始まり、始まりは終わり」

「始まりは終わり、終わりは始まり」

 俺はよろよろと声のほうへと歩む。



 霧の中、黒いマントを着た三人の女たちが踊っている。

 三魔女。

「終わらねば始まらない、始まらねば終わらない」

「始まらねば終わらない、終わらねば始まらない」

 魔女たちは唱えながら踊る。



「王にならざる者よ」

「王子よ」

「ハムレットよ」

 三人の魔女が俺を囲む。

 ささやきかけてくる。

「なんなんだ、俺をどうするつもりなんだ!」

 俺は叫ぶ。



「終われば始まる」

「始まれば終わる」

「終わりは終わらない」

 魔女たちは唱える。



「意味を教えろ! どうすれば終わるんだ!」



「人生は舞台」

「舞台は人生」

「幕が上がれば人生は始まり幕が下りれば舞台は終わる」

「最後の幕が降りれば舞台は終わる」

「舞台が終わらなければ幕はまた上がる」

 魔女たちはさっと俺にお辞儀した。三人が声を合わせて言う。



「「「始まりの始まり、第二幕」」」

 幕が上がるかのように霧が下から晴れて光をあふれさせていく。

 俺は真っ白な光に包み込まれた。



第二幕に続く

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