たとえ深淵へ堕ちても俺は現実に還りたい
田中なかなか
ネバラ
序章 異世界
鼻腔を爽やかな木々の匂いがくすぐった。
一拍遅れて自分が地面にうつ伏せで倒れていることに気付く。次の瞬間、開けた視界に飛び込んできたのは全身を覆いつくす緑。どうやら俺は森の中で寝ていたようだ。はて、一体どうして。というよりもここは一体どこ?
ゆっくりと立ち上がりながら、昨日の自分の行動を思い返す。昨日は確か、大学の研究が一段落して、久しぶりに友人たちとの飲み会に興じていたはず。それで少し遅い時間、微妙に千鳥足になりながらも何とか帰ったはずなんだが。……まさか、酔っ払って外で寝てしまったのか?
立ち上がって見ると、見事に酷い吐き気と頭痛がする。これは二日酔いか? と言っても昨日はそんなに飲んだ記憶がないのだが……。転んだ拍子に頭でも打っていたら大変だ。
ぼんやりする頭で身に着けていたものを探す。
すぐに脇に置き去りにされていた、黒の普段使いのリュックを開き、中身の貴重品を確認する。幸い、何も取られてはいなさそうだ。金もちゃんと入っているし、『兼川舜』という俺の名前が入った免許証なども無事だ。
そこでふと思い出した。俺はたしか、いつも通りの帰路辿って帰っていた途中、黒く淀んだ穴を見たんだ。アスファルトで舗装された通りに突如現れた、人がちょうど一人くらい通り抜けられそうなマンホール大の穴。何もなかったはずの空間に、突如出現したその穴を俺は避けることができずに、俺は真上からそれを思いっきり踏んでしまった。
……いやいや、ちょっと待てちょっと待て。東京の道路の下にこんな森が広がっている訳ないし。ここは本当に何処なんだ。しゃがみ込んで足元を見てみれば、見たこともない紫色をした気色の悪い花が、その体を根元からゆらゆらと揺らし楽しそうに佇んでいる。
俺は別に植物に特別詳しいわけではないが、こんな花一度も見たことないぞ。
まさか、これって、もしかして……、今時流行りの……?
「――――っああぁ」
とある近年の日本社会で流行り始めた転生というワードが頭をよぎった瞬間、かすかではあるが人のような声を俺の耳が捉えた。声がした方角は、深く生い茂る木々で先は見えないが、迷っている場合ではない。
まるで意志を持って行く手を阻んでくるように分厚い植物をかき分けながら、声の下方向へ走る。必死に、吐き気を抑え込みながら走る。何枚かの大人一人分以上の大きさをかき分けた先に、突如現れた草原。その中に、人の影のようなものが見えた。人だ! 横になって気持ちよさそうに寝ているところ悪いけれど、とにかく誰でもいいから事情を聴かないと!
「おーい! そこの人!」
しかしあの人はこちらの声が聞こえていないのか、立ち上がる気配がない。まあいい、とにかくもう少し近くに。
その時、草原で寝ていた人の肩がぴくっと動いた。そして何やら真っ赤な液体が突如噴き出す。
最後の一枚。彼の下半身を隠していた植物をどけた俺の視界に飛び込んできたのは、大きな鳥だった。俺よりも一回りも大きく、真っ赤な体をしたその鳥は、自慢の鋭利な嘴で横たわる彼の腹部を貫いた。
「……は?」
怪鳥がグッと力を込めた。そして力づくで彼の臓物を引っ張り出す。ブチブチ、と肉が裂ける音が響く。真っ赤に染まった腸を無邪気に引きずり出した怪鳥は、まるで大好物を食す子供の様に無邪気にそれを頬張った。
何度も、何度も、何度も。彼の中身全てを味わい尽くすように、胃を、肝臓を、腎臓を、そして最後のデザートを慈しむように、心臓を丸呑みした。
俺はその、あまりに現実離れした光景から目を離すことができなくなっていた。
足が震える。あれは一体、人が、人が食われて……、なんで、ここは一体。
桐よりもずっと鋭い嘴に貫かれ、引きちぎられ、ついにその人が肉を完全にそぎ落とされるまで、俺は逃げることができなかった。
そして、怪鳥と目が合ってしまった。
……逃げなきゃ、逃げなきゃいけないのに、足が竦んで……。
俺の目線をじっと掴んだまま、目の前の化け物の赤い目が笑った。まだ今日は獲物を食べることができるのかと、嬉しそうに鳴く。体の芯から震える、その嫌な重低音の鳴き声を一瞬響かせた後、鳥は大股で駆け出した。ドシンドシン、と人では到底起こしえない地響きを奏でながら俺に迫る。
早く、早く逃げないと!
そして想像する。俺の数秒後の未来。
目の先で倒れているあの人の様に、嘴で貫かれ、臓物をまき散らしながら化け物の胃の中に納まっていく光景を。
もう……奴が目の前に。
死を覚悟して目をつむった瞬間だった。
空間が歪んだ。
空気が凝集していくのが分かる。圧倒的なエネルギ―。それが一点に集まって、まるで小型の太陽がそこにあるかと錯覚するほどの熱が生まれる。
そして爆ぜた。
『ギャアアアアアアアアアア!!!!』
突然の爆発。範囲は狭いが、圧倒的な熱量を持ったその衝撃は、化け物の腹を全て吹き飛ばした。そして飛び出す中身も、血も、一瞬で蒸発する。
目を開けられないほどの光がようやく収まった後に飛び込んできたのは、下半身が完全に消し飛ばされた化け物の亡骸。
……もう何がなんだか。これは、夢なんだろうか。
そして前からゆっくり歩いてくるのは、軽装の女性、まだ少女と呼ぶべきだろうか。白く美しい髪を携えた優雅な人だ。彼女が柔らかに微笑みかける。
「危ないところでしたね。無事ですか? ここはクロアライドの縄張りですから、あまり無暗に近づかない方がいいですよ」
「君が助けてくれたのか……君は一体、そもそもさっきの化け物は、クロアライド? それに人が食われて……そもそもここは一体どこなんだ?」
余りに現実離れした出来事の連続に、失礼も承知で質問を連続で投げつける。そんな混乱している俺を見て、なにか合点がいったのか、彼女はポンっと手を叩いた。
「そうか、あなたはもしかして【外】から来た人ですか! 通りで見慣れない格好をしていると思いました」
「へ? あ、外?」
「たまにいるんですよね、突然別の世界から飛ばされてくる人」
彼女はこの手の出来事に慣れっこなのか、あははと乾いた笑いを浮かべはするものの戸惑った様子はない。しかし聞き捨てならない単語が聞こえたぞ、別の世界だと? それじゃ、まるで本当に。
「このネバラの中は時空が歪んでいるのか、違う次元の人たちがたまに飛ばされてくるんです。まあたいていは保護される前に食べられちゃうんですけど、運がよかったですね!」
「あはは……」
これは、本当に、俗に言う異世界転生とやらに巻き込まれたっていうやつなのか。でもさ、でもさ? 一つだけ言わせてくれない?
「どうしてこんな世界に飛ばされたんだ―――――――――――!!」
これが俺の、現世へ帰るために地獄をめぐる大冒険の始まりになるなど、その時は知る由もなかったのである。
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