帝国軍人、柴犬になる

柴野なこ

序章 山下少年と桜の約束

 月が浮かぶ海上。その上に一隻の軍艦が停泊していた。

この軍艦は、大日本帝国の最新技術を駆使して建造された軍艦である。南方戦線からの救援要請に応じ、南海へ馳せ参じたのだが、合流予定の味方艦隊が現れず、立ち往生していた。


 軍艦の甲板には、双眼鏡で地平線を見つめる軍人がいた。その足元には、ぐったりとした様子の少年兵が、腰を下ろしていた。


 「山下、懲罰は終わったのか」


山下と呼ばれた少年は、ふうと一息吐いた後、


 「1日で艦内の清掃全て終わる訳ないでしょう...」


と、苦い表情で返答する。双眼鏡を覗く軍人はだろうな、と一言呟くも、微動だにせず、遠くを監視していた。


 「司馬中尉こそ、成果はあったんですかね。なさそうですけども」

 「口の利き方に気をつけろ」


 双眼鏡を覗く軍人、司馬中尉は抑揚ない声だった。山下少年は、へいへいと面倒くさそうに返事をすると、その場にごろんと寝ころんだ。

機関士長に軽口を叩いた懲罰として、ばかでかい戦艦の清掃を命じられたのだが、数千人が乗船しているであろう戦艦の掃除が1日で終わる訳もない。


 ならば、少し休憩してもいいだろうと、この甲板で油を売っていたのだが、掃除が終わるまで、飯無しと言われた事を思い出して、気持ちがどんよりした。


 「あーあ、腹減ったなあ。握り飯食いてえ」


つい呟いてしまったが、司馬中尉は、上官の前とは思えない態度の自分に目もくれず、ただ、地平線を監視していた。


自分が口を閉じると、甲板を吹き抜ける生暖かい南風と、穏やかなさざ波の音だけが静かに響く。


 「山下」


 司馬中尉が口を開いた。穴が開くほど覗いた双眼鏡を下ろし、目頭を片手で抑えていた。


 「見張りに疲れた。少し変わってくれるか?」


えー...、俺だって疲れているのに。


 「明朝の配給は貰えるよう、私から機関士長に言っておこう」

 「はい、喜んで!!」


 司馬中尉から双眼鏡を受け取ると、すぐさま覗き込み、地平線を監視する。左側からどかっと座る音が聞こえた。どうやら、司馬中尉は自分の横で休むつもりらしい。


 この人はとても変わっている。抑揚のない声で淡々と話し、かといって、他の上官のように感情的に怒鳴り声をあげることもない。

この船で最年少である自分の世話を焼いてくれている。年齢は自分より十は離れていそうだが―――――……


 「山下、徴兵される前は何をしていたのだ?」

 「え、あ、はい。親父の植木屋で修業していました。徴兵されてなかったら、今頃、桜専門の植木職人になっていたと思います」


 突拍子もなく話しかけられた為、間抜けな声がでた。双眼鏡を覗いているので、表情は見えないが、司馬中尉、ほうと、一言返した。


 「では、本艦が祖国に凱旋した折にでも、お前の桜を見に行くか」

 「えーーーーーーーー!!!!」


 意外過ぎて、大きな声がでてしまった。双眼鏡から目を離して、司馬中尉をみると、嫌なのか...とぼそりと言いながら、自分を見つめていた。


 「嫌ではないですよ。ちょっと、意外というか......まあ、司馬中尉にはお世話になっていますから、とびっきりの桜をご用意しましょう」

 「楽しみにしておこう。まずは、勝たねばな」


 司馬中尉は、優しく微笑んだ。

 微笑むところなんて初めてみた。微笑むどころか、基本的に無表情な人だが、こうしてみると男前に見える。


 そんなことを考えていると、不意に爆音とともに甲板が大きく傾いた。司馬中尉と共に甲板の手すりにしがみ付く。双眼鏡が衝撃で海に落下すると、海上の落下地点に不気味な背びれが浮かび上がり、泳ぎ回っているのがみえた。


 「ふ、フカ(鮫)がいる...!」


落ちたらフカの餌になる...!身体中から血の気が引くのを感じた。気が遠くなりかけたが、けたたましく鳴り出したサイレンが自分を現実に引き戻した。


―——敵襲!敵襲!これより、迎撃する!!総員、配置につけ!!


 「山下、ぼさっとするな!恐らく、敵潜水艇の魚雷にあたった!!機関室に戻れ!!」

 「はい!!」


 甲板のハッチを力いっぱい開け、中に飛び込んだ。その瞬間、また強い衝撃が戦艦を揺らす。転びかけた態勢を整え、機関室へ走る。


 途中の伝声管から、司馬中尉が敵の位置を砲兵に伝える声が聞こえた。あのまま甲板に残り、指揮をとっているのかもしれない。時折、聞こえるエンジン音から、航空機からの攻撃も受けているようだ。


 俺の桜、ちゃんと見に来てくださいよ―――…司馬中尉…


 山下少年は、ひとりの軍人として持ち場へ走るのであった。







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