第五章 約束

      1

 いくやまさとが、一瞬の隙をつき、すっと抜け出した!

 そのままドリブルで駆け上がっていく。


 フサエもちょっと油断していたのかも知れないけど、しかし、里子も、ああも見事な技術でかわすとは。

 虚と思わせて実を突くフェイントのフェイントで、フサエの肉体の隙と精神の隙を作り、迷いのない判断で一気に突破したのだ。


 はる、そしてフサエを抜いた里子だが、快進撃も続かなかった。

 最後列に控える頑強な砦であるらくやまおりに、身体を寄せられて、ボールを奪われてしまった。


 わたしは、残念なような、安心したような、複雑な気持ちだ。


 フットサル一年目だろうと凄い能力を持つ者がいるのは分かるし、そういう存在がいないとさびしい。

 でも、やっぱり経験豊富なはずの上級生がいとも簡単に抜かれるようでは、部の雰囲気というものに色々と影響が出るし。


 しかし、里子は凄いな。

 はなが常々自慢している通り、逸材かも。


 まだ荒いし、まだ経験が少ないし、まだルールを身体で覚え切れていないし、だから公式戦で使うには厳しいけどね。


 少し、いや、相当に我が強いところがあるので、下手すればチームを壊しかねないし。


 紅白戦などを経験していく中で、おいおいとチームワークを学んでいってくれればいいけれど、現在のところは花香や、づきの方が使えそうだ。


 端っこに目をやると、たけあきらなしもとさきの二人が、ゴレイロ専用練習メニューを淡々とこなしている。


 もともと表情をほとんど変えることのない晶ではあるが、最近、心なしかちょっといきいきしているように思える。

 きっと、ゴレイロ専門の後輩が出来たからだろう。

 晶は去年から、専門ゴレイロの二人体制を希望していたし。


 顔だけ見ると、二人とも実につまらなさそうだけど。

 晶は無表情だし、咲は見るからに不機嫌そうだし。


 咲のは、そう見えるというだけでなく、実際いつも不機嫌みたいだ。

 本人は、地なんで気にしないでくださいなんていっているけど、無理だって。


 里子ほどじゃないにしても、実際気難しい面が多くて、扱いづらい後輩だよ、咲は。

 まあ、だからこそ晶に適任なのかもな。

 いつもあんな不機嫌なオーラを出されてちゃ、一緒にいて耐えられないよ。王子くらいしか。


 専門ゴレイロ二人体制になったことにより、わたしとけいと春奈の三人は兼任から外れることになった。


 春奈は「ゴレイロも面白いけど、その分FPの練習したかったから、よかった」と喜んでいる。

 軟弱そうな顔しているくせに、春奈は感心するくらいフットサルに熱心だ。

 経験は二年生の中で一番少ないけど、熱意があり、実際、努力を惜しまないし、それに頭がいい。

 去年の秋からだから、まだ一年もたっていないというのに、まさかここまで計算出来る戦力になるとは思ってもみなかった。

 去年、入部して間もなくの大会で突然ゴレイロやらされたり、なんだかんだ修羅場もくぐっているし。……って、やらせたのはわたしなんだけど。


 わたしと景子の二人は、兼任からは解放されたとはいえ、週一程度でゴレイロ練習は継続している。

 晶と咲のどちらかでも欠けたら、紅白戦でゴレイロがいなくなるし、万が一にも晶が退部することにでもなったら、咲にゴレイロを教えられる者がいなくなってしまう。

 だから最低限、感覚が鈍らないようにしておかないとならないのだ。


「おい、づき、そこでこっちにパスだろが」


 王子こと山野裕子が怒鳴る。

 言葉遣いは汚いが、表情はにこやかだ。先輩として後輩に教えていることが、楽しくて幸せなのだろう。


「すみません」


 づきは小さく頭を下げた。


 ボールを持った葉月は、判断に迷って囲まれてしまい、無理に突破しようとして奪われてしまった。それを王子に叱られたのである。


 葉月も見ていて面白い一人だ。

 レベルはまだまだたいしたことはない。いや、正直、相当に低い。


 ただ、練習態度が非常に真面目で、筋も悪くないものだから、少しずつだけども確実に成長していっているのが傍目からでもよく分かる。その成長ぶりが、見ていて気持ちいいのだ。


 性格がおとなし過ぎるのが難点だと思っていたのだけど、久樹は、それはそれで丁寧なプレーに繋がるし、チームにそういう選手がいてもいいんだ、という。

 それを聞いた時は、なるほどなと目から鱗が落ちた。


 色々な個性を組み合わせて独自のチームワークを出すことが集団競技の醍醐味だけど、気弱なところまでメリットに捉えてしまうのだから、久樹は器が大きい。


 突破を避けてバックパスばかりになっても問題だけど、そこは練習で、しっかり鍛えていけばいい話だ。


 葉月は、紅白戦ではとりあえずのところアラばかりやらせているけど、意外とピヴォで使っても面白いかも知れないな。

 里子とあまりにもやることなすこと正反対だから、交互に使ったら相手も混乱するかも。


 まあ、大会でとなると、すべてはわたしたち三年生が引退したあとのことだろうけど。

 まだフットサルはじめて数ヶ月だからな、仕方ない。


 しかし、繰り返し褒めてしまうけど、本当に久樹は見る目があるよな。

 勉強しないから成績は悪いけど、考え方もしっかりしていてとても大人だし、わたしなんかよりずっとリーダーシップがあるし。

 試合中はすぐカッとなるけれど、練習では優しくて、感情的に怒ることなんて絶対にないし。

 絶対に……


「サジ、なんでそこで戻すんだよ!」


 久樹の怒鳴り声。


 え……

 なんだ、いまの。


 いや、分かるよ。

 消極的なプレーを続ける佐治ケ江に、久樹が怒っただけだ。

 それは分かるけど。


「すみません」


 頭を下げる佐治ケ江。


「同じこと何度もいわせんな。いい加減にしろ」


 久樹、大会に向けてか、相当に気合いが入っている。


 でも、それだけでは片付けられないなにかを、わたしは感じた。

 なんだか、久樹っぽくないのだ。


 久樹は、声を荒らげていようとも、どこか柔らかさ、優しさがあるのに、いまのいい方は、ただ刺々しいだけだった。


「織絵! なにしてんだ、公式戦だったら絶対失点してたよ! プレーが軽いんだよ、ベッキのくせに!」


 今度は織絵に矛先を向けている。


「まっ、公式戦じゃないんだからいいじゃん」


 織絵は、けろっとした顔で全然気にしてない。

 ほんとず太い神経だな。


 久樹が熱くなるのも仕方ないか。

 わたしたち三年生には、今度のが最後の大会だからな。


 わたしも頑張らないと。

 しっかり練習して、大会で完全燃焼して、そして引退だ。

 それからは、昼夜勉強漬けの日々が待っている。

 でもフットサルも……


「梨乃もばんばん注意しろ! 部長のくせに!」


 うわ、ついにわたしにまで来た。


     2

「よーし、行くぜー」


 たかミットの声が響く。


 児童公園には、ちっちゃな子供が何人か遊んでいる。


 でっかいのは、わたしとミットの二人だけだ。


「ミット君、殺人魔球第一投目。投げました!」


 ソフトボールより大きい、風船のようなボール。

 モーションやけたたましい叫び声とは裏腹に、ふわふわと、ゆっくりと、わたしの方へと飛んでくる。


 わたしはうまく狙いを定めてバットを振ったつもりなのだが、ボールは風を受けてするりんと抜けてしまう。

 空振りだ。


「下手だな、お前は」

「違うよ。ボールが勝手に逃げちゃうんだよ!」


 わたしは口をとがらせて抗議。そして二人は笑った。


「そうなるボールをどう打つか、ってオモチャじゃんかよ。まったく」

「でも、難しいんだよ、これ」


 わたしは野球が下手だから、普通のボールとバットでも、どのみち空振りだったかも知れないけど。

 小学生の頃に公園でよく男の子たちと野球で遊んでいたけど、あまりに空振りばかりだったから専らバントヒットばかり狙っていたし。


 公園のベンチに座っていたら、この妙に太いバットと、風船ボールが落ちているのに気付き、ちょっと黙って遊ばせてもらっているのである。

 バットには名前が書いてあり、見ると近所の男の子のだ。

 あとで届けてあげないとな。


ちゃん! と、梨乃ちゃんの彼氏君、こんにちは~」


 おおきぬさんがスーパーの紙袋を手に下げ、柵の向こうの道路を歩いている。もう片方の手をぶんぶんと振っている。


 彼女はお父さんの婚約者。

 再婚相手になる予定の女性である。


 お父さんの仕事が落ち着く時間帯に、こうしてよく遊びに来るのだ。


 ちなみに、わたしに彼氏がいること、お父さんには内緒にしてある。絹江さんにはなんとなくバレて、知るところとなってしまったけど、お父さんにはいわないように口止めしてある。

 隠す立派な理由は特にはない。

 彼氏が出来たというだけでも、なんだか恥ずかしいのに、小さな頃から顔を知っている高木ミットが相手だなんて、ますます恥ずかしいから。と、ただそれだけだ。


「こんにちは~」


 わたしも挨拶を返す。

 会ってまだ数ヶ月だけど、もうかなり打ち解けた仲になれている。


 正式にお母さんになると、また、色々と、照れてもじもじとしてしまうことが出てくるのだろうけどね。


 ミットも、「どうも!」と体育会系に叫び、軽く頭を下げる。


 大野さんは再び軽く手を振ると、そのまま通り過ぎていった。


「嫌味のない、いい感じの人だよな。いつ結婚だっけ」

「今年の十二月。あとそれ、あたしが嫌味のある性格って意味じゃないよね」

「さあ」

「さあじゃ、ない、だろ!」


 わたしはミットのほっぺたを両手でつねった。


「いてえっつーの。……あの人、梨乃の、母親になるんだよな。え……ということは、もしかしたら、おれのお義母さんに」

「なに、ミット、あたしと結婚するつもり?」

「しないつもり?」


 即応するミット。

 逆に切り返してくるとは、小癪な真似を。


「そんな、ずっと先のこと……でも、するの……かな」


 絶対結婚しない、なんて思ってる相手と、普通は付き合わないもんな。

 付き合っている時は、このままいけばいつかは結婚と思っているはずだ。


 ということはわたしは、将来この相手と結婚するつもり、と思っていることになる。


 そういうこと、だよな。

 まだまったく実感はないけど。


 結婚か……


     3

 わたしは、部室から出た。

 横長のプレハブ建築を細かに区切った一室が、女子フットサル部の部室だ。


 ドアを閉め、鍵を閉める。


 空を見上げる。

 もう七時半。さすがに長い夏の日も暮れて、空は真っ暗だ。


 こんな時間になってしまったのには理由がある。部長ノートの内容をまとめるのに、時間がかかっていたのである。


 部長ノートとは、わたしが勝手にそう呼んでいるだけの、単なる大学ノートだ。


 要は、わたしが部活で使っているメモ帳だ。

 開いてみても、わたし以外には意味が分からないだろう。


 だから、まだ誰になるか分からない次の部長のために、役立つであろう部分をまとめているのだ。


 ノートが何冊もあるのでまだまだ道のりは長いが、でも、半分くらいはまとめることができた。

 続きは後日だ。


 部活を終えて帰る時は、通路を体育館沿いに半周して、北校舎に入るのだが、途中、ちょっと足をとめて、窓から体育館を覗き込んでみた。


 大会が近づいているといつものことだけど、男子がまだ残って、フットサルの練習を行なっている。


 女子は、部活動であまり遅くまで残るのはなるべく避けるようにいわれているけど、男子はよく八時くらいまで練習している。


 高木ミットの姿を発見だ。

 頑張っているな、我が彼氏。


 二十人ほどの部員を四チームに分け、女子がいなくなった分とコート二面を使って、紅白戦をやっている。


 あれ……


 小学生みたいなのがいると思ったら……

 ひさだ。


 男子たちの中に、はまむしひさが混じっている。


 審判なしのセルフジャッジなので、みな接触もいとわずガツガツと身体をぶつけ合うように激しくプレーしている。久樹に対しても、まったく容赦がない。


 久樹がボールをインターセプトした。

 さっと詰め寄ってきた男子に爪先をつっかけられるが、踏ん張ってバランスを保ちドリブルに入る。

 が、しかし、横から他の男子に奪われてしまった。


 久樹はすぐさま、後ろから取りかえしにいく。

 手を伸ばし、男子のシャツを掴む久樹だが、肘で簡単に振り払われ、今度こそバランスを崩して転んでしまった。


 両手をついて、上体を起こす。


 もうすっかり、息があがっている。でも、目だけが異様にぎらぎらと輝いている。


 久樹、どれだけ、こんなことやっているんだ。

 よく見ると、腕や膝、擦り傷だらけだよ。


わら、こっち!」


 久樹は立ち上がると同時に、叫び、前方へと飛び出していた。


 加地原孝からのパスが、久樹に通った。

 久樹は一人をルーレットでかわし、詰め寄ってくるベッキも素早く横へのステップでかわし、そして、シュートを放った。


 躊躇のないその一蹴りに、ボールはゴレイロのやすこうの手をすり抜けて、ゴールネットに突き刺さった。


 久樹……男子相手に、ゴール、決めちゃったよ。


 相手をかわした際に、バランスを取って踏ん張るよりも、素早くシュートを打つことを選んだのだろう。

 久樹は真横へと倒れ、転がった。


「すげえ、浜虫!」

「やるじゃん!」


 周囲からの声に、久樹は自分がシュートを決めたことを知ったようで、立ち上がると会心の笑みを浮かべた。


 男子たちが久樹を取り囲んだ。

 髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回されながら、男子たちと抱き合って、破顔させている。……ミットが相手チームでよかった。


 それにしても久樹、すごい動きだった。

 ボールの受け方。飛び出し。かわしざまのシュート。

 小柄故の俊敏さを徹底的に利用していたし。


 もう一年くらい前になるか、成り行きで、フットサル部の男子対女子で練習試合をしたことがある。

 女子の中には久樹もいた。

 結局、男子のパワーの前にはまるで歯が立たず、大量失点しかも無得点、まさに大虐殺だった。


 わたしは、悔しいと感じながらも男女の差があるのは当たり前と割り切っている部分もあった。

 しかし、久樹は違っていたんだ。


 個人技という面では、わたしは久樹の何歩も後を追いかけている。

 経験が違うから当たり前なのだけど、またさらに引き離されてしまったようだ。

 久樹は去年と比べて格段に成長している。


 ゲスト部員がゴールした余韻にいつまでも浸ってはいられず、紅白戦が再開された。

 久樹の顔にもう笑みはなく、先ほどまでのような鬼気迫る表情へと戻っている。


 自分もかなりフットサルへの情熱はあると思っていたけど、久樹にはまるでかなわない。

 分かっていたことだけど、こういう光景を見せられたことで改めてそう実感した。


 久樹、本当に、凄すぎるよなあ。

 なにから、なにまで。

 

     4

「ごめんなさいねえ。あたしらひさほど才能ありませんから!」


 もとこのみの、とげとげしい口調。

 不満満面表情で、はまむしひさと相対している。


「才能の話なんかしてない。いわれた通りに動こうともしないから、ぼけっとしてんなっていってんだよ!」


 久樹も、むっとした感じを隠しもしない。


「だから、誰もぼけっとなんかしてないでしょ!」


 口論の発端は、久樹が、なつフサエの動きにダメ出しをしたこと。

 そのいいかたがキツく、しかも何度もいうものだから、パスの出し手であるこのみの方がカチンときてしまったのだ。


「いいよ、このみ。あたしが動かなかったのが悪いんだから」


 普段温和な久樹に何度も怒られた挙句、自分のプレーが原因で口論が起きてしまったことに、フサエは折れば折れそうなくらいすっかり弱々しくなっている。あとで自棄やけマックスコーヒーかな。


「よくない! 昨日のフォーメーション練習の時はあたしも同じこと散々にいわれたし。……そうだな、じゃ、あたしのこととして話そう。えっとねえ、いいかなあ? いくらいわれようと、出来ねーもんは出来ねーんだよ! そういう奴は寝る間も惜しんで二十四時間練習しなきゃならないんか!」


 このみは完全にヒートアップしてしまっている。


「そうはいってない。集中しろっていってるだけだろ。いいかたが悪かったのなら謝るよ」


 久樹の方が、ちょっと勢いが弱くなってきた。

 無意識に激しくいってしまったことが原因で、部員がここまで怒るなどと思ってもいなかったのだろう。


「集中はしてますう。ぼけっとしてるから出来ないわけじゃありませえん。久樹のいうような動きだしが、能力が足りてなくて出来ないだけで~す。そんな、生まれつきの才能まで責められる筋合いないんだよ高校の部活でさ。じゃあ、久樹も勉強頑張っていい点取ってみろ!」

「ちょっと、いい加減にしなよ。久樹もこのみも」


 すっかり緊迫した空気に、わたしはさすがに見かねて仲裁に入った。

 このみの最後の一言には、ちょっと笑いそうになってしまったけど。


「久樹、どうしたの? 最近、ちょっとおかしいよ」


 わたしは久樹の小さな両肩に、手を置いた。


 ふと、昨夜のことを思い出していた。

 男子に混じって練習している久樹のことを。


 今朝、登校中にミットに聞いたら、内緒だぞ、と渋々話してくれたのだけど、なんでも一週間くらい前から、男子に混ざって一緒に練習しているらしい。


「あたしは……普段通りだよ。もう大会も近いんだから、しっかりやって欲しいだけだ」


 久樹は、いいわけするかのように、ちょっとおとなしくなった感じにぼそりといった。


「だから、しっかりはやってるでしょうが! 聞いてねえのか。も一回、一言一句同じこと説明してやろか!」


 このみが、またくってかかる。……このみって、怒るとこんななんだな……。


 とにかく、このみのいう通りだ。

 この件は、久樹の方が間違っている。


 でも、ズバッとそういっていいものじゃない。

 自分も悪かった、と軟化してきた久樹の気持ちや感情が、また戻ってしまう。


「久樹。……みんな、頑張ってるよ」


 わたしは、なるべく柔らかい口調で、そういった。

 久樹ほどの才能、努力、情熱を他人に求めるのは酷だよ。


「そんなことは分かってるよ!」


 どうしたんだろう。

 試合の時にカッとなるのはいつものことだけど、普段の練習の時にこんな態度取ったこと一度もなかったのに。

 むしろわたしの方がつい棘のあるいい方してしまって、久樹はそれを優しくフォローしてくれていたのに。


 久樹の態度、注意というよりは単なる難癖だ。

 無意味にチームを壊すだけのものでしかないよ。


「みんな、ぼけっと突っ立ってないで、練習しな!」


 呆気にとられている周囲にも、久樹は毒を撒き散らした。


     5

「いけない、お線香あげるの忘れてた!」


 おおきぬさんが、フライパン片手に大きな声を出した。


「ご飯のあとでもいいのに」


 わたしは居間で、お風呂上りのストレッチ中だ。


「ダメダメ。家に来た時にあげるお線香というのは、ご先祖様たちへの、こんにちはの挨拶なんだから」


 絹江さんはそういうと、フライパンを置いて、とたとたとわたしの方へと小走りでやってくると、自分のトートバッグからお菓子の箱を取り出し、仏前に備え、そしてお線香をあげた。


 家に来たばかりの絹江さんを、わたしが、料理を見てもらおうと台所に呼んでしまったせいだ。

 流れで、絹江さんが料理を引き継ぐことになり、わたしは絹江さんの言葉に甘えてお風呂に入ってしまったのだ。


 絹江さんは、時間さえあれば料理を作ってくれる。

 うるさいくらいに、わたしに色々と感想を聞いてくる。

 また、よく一緒に作りたがる。


 お父さんの好みの味を、わたしから学びたいようなのだ。


 わたしの作る料理は、死んでしまったお母さんのとはかなり違うと思うけど、でも、お父さんが文句いわずに食べているのだし、色々と共通点もあるのだろう。

 絹江さんとしては、そういったところを学び取りたいらしい。


 勉強家だよな。

 こんな、まめまめしくやってくれて。

 昼は仕事をしてるんだから、大変だろうに。


 それから二十分ほど経ち、絹江さんの料理(わたしもちょっとだけ手伝った)が出来上がり、夕食の時間になった。


 お店で仕事の後片付けをしていたお父さんを呼ぶと、もさもさとやってきて、テーブルについた。


 四角いテーブルの三辺に、お父さん、絹江さん、わたし、と着き、いただきますの挨拶で食事開始だ。


 目の前に並んでいるのは、和食中心のメニュー。

 ご飯、貝のお味噌汁、漬物、肉じゃが、小魚の煮付け、ひじき、レタスとその上に豚肉のから揚げ。


 美味しい……いつもながら。

 絹江さん、凄いよな。我が家の味付けを教えてあげると、その方向性をきっちり守りつつ、予想よりも遥かに美味しいものを作ってしまうのだから。


 わたしの方こそ勉強しないとだな。

 去年から本格的に料理するようになったわたしは、そこそこ上手なんじゃないかと自惚れていたのだけど、絹江さんの手料理を初めて食べた時、穴があったら入りたい気持ちになった。

 同じ食材を使って、こうも違うのかと。


 現在でも、こうして食べるたびに思い知らされる。


 それにしても、

 お父さんと絹江さんの二人、なんかイチャイチャしてて腹立たしいなあ。


 絹江さん、スプーンでお父さんに食べさせちゃったりしてるしさあ。

 しかも、いつの間にか二人ともテーブルの角に寄って、寄り添うみたいになってるし。


 まあいいけど。

 せいぜい、幸せになりなさい。


 目の前であまりべったりされるのもなんだけど、でも応援はしてるからさ。


 食事も終わり、お父さんは明日の仕込み作業へと戻った。


 わたしと絹江さんは、雑談しながら食器の片付け。


 絹江さんがわたしの交友関係を聞いてきたことから、はまむしひさあぜけい、彼氏のたかミットの話などをして、その流れで今度は絹江さんの友達の話になった。


 友達の数はそんなにいないのだが、一人、大親友がいるらしい。

 自分が荒れていた時に、その親友の、心配が故の言動の数々がとにかく腹立たしくて鬱陶しくて、でもその負の感情の絶対値が、そのまま現在の絆の深さになったのだそうだ。


 それを聞いて、ふと景子とのことを思い出してしまった。

 去年、わたしは不安定な精神状態に陥り、傍から見ても分かるような自暴自棄になってしまった時があったのだが、でも景子は、見捨てず、優しく見守り続けてくれた。

 それどころか、自動車に轢かれそうになったわたしを、身を犠牲にして助けてくれた。


 わたしも、あの時の負の感情の大きさが、そのまま景子への感謝の気持ちに繋がったのだ。

 いつか恩返しをしたいのだけど、その機会がなかなか得られずに現在に至っている。

 でもまあ、親友として付き合い続けていくことが恩返しなのかなとも思うけど。


 そのためには、景子にハナキヤのイタリアンジェラートを奢らないことだな。


「でも、絹江さんが荒れてたなんて信じられないな」


 そもそも、まだ結婚前なのに、義理の娘となる相手に昔荒れてたなんていっていいのか。


「かわいいもんだよ」


 などと本人は涼しい顔でいってるけど、意外に凄かったのかも。ひとは見かけによらないというからな。


 友達の話になったことから、わたしは絹江さんに、ちょっとした悩みを打ち明けた。


 久樹のことだ。

 最近、妙にカリカリしているし、なにかあるのではないか。


 普通に生活していれば色々と、嫌なこと、疲れること、大変なことはあるわけで、単にそれでイライラしているだけかも知れない。

 でも、そうでないかも知れないわけだし、しっかりと話を聞いてあげた方がいいのだろうか。

 でも、単にイライラというだけならば、火に油をそそぐことにもなりかねないし、本当に悩んでいるのなら、それはそれでうざったいと思われるかも知れないし。


「聞いてやった方がいいね」


 絹江さんは即答した。

 確かに、余計なお世話だと不快に思われるかも知れない。でも、そんな感情は一瞬のこと。本当の友達なら分かってくれる。と。


 そうだよな、と意を決意したわたしは、絹江さんも帰った夜の九時過ぎ、久樹へと電話をかけた。


 心配していることを伝えると、久樹は笑った。 

 「別に、なんにもないってば」元気そうにそういうと、「他に用がないなら切るよ」


     6

 ボール七つかかえて首もねじ曲がって、そんな視界の悪い中をもったりもったりと歩いていると、突然声をかけられた。


、相談があるんだけど」


 また織絵かよ。


「なに、やっぱり子供出来てたか?」


 わたしは、わざと面倒くさそうな口調で、しかもチクリと刺してやった。


「はあ? なにいってんだ」

「うわ、ひさか! なんでもない。織絵が悪い、全部」


 ボール全部、落としてしまったじゃないか。

 せっかく集めたのに、畜生。


「なに、いまの話?」

「だから、なんでもない。こっちの話。で、相談って?」


 二人の声ってまるで違うけど、ぼそぼそ声になると、なんか似てるな。紛らわしい。


「あのさ、昨日は、その……ありがとう」


 なんだか照れたような、もじもじとした態度の久樹だ。

 普段はさばさばとして男っぽいのに。


「なにが?」


 焦らすわけでなく、本当に疑問に思ったから聞いた。


「だから! わざわざ、心配して、電話してきてくれて。感謝してる。それと……ごめん。確かに、あたし、ちょっと、カリカリしてた……かも」

「そのことか。謝るなら、フサエたちに謝りなよ」


 久樹に怒られたことや、それが原因で久樹とこのみがやりあってしまったことで、フサエはすっかりしょげかえって、自棄やけ酒の代わりにマックスコーヒーを何本も飲んでたんだから。


「もう謝ったよ。そしたら、このみのやつ、鼻つまんでぐりぐり回してきやがった。痛い痛いいってんのに、大笑いしやがって」

「あ、遠くから見てたけど、さっきのあれ、そうだったのか。王子にまでやられてたよね」

「あん畜生、関係ないくせに。三倍にしてやり返してやったよ」


 わたしは声をあげて笑った。


「で、相談って?」

「そうそう、ここじゃ話しにくいから部室行こう。ボール運び終わってからでいいから。手伝うよ」

「手伝うもなにも、このみと久樹がやんないから、あたしが運んでんじゃんか!」

「はいはい、あたしが悪かった」


 まったく、こいつは。

 でも、機嫌悪いのがおさまってよかった。

 なんだろう、悩みって。


 二人でボールを体育館に運び終えると、それから部室へと向かった。


     7

 横長のプレハブの建物を、細かく仕切ったうちの一室が、女子フットサル部の部室だ。


 ドアを開けると、もわっと鼻に入り込んでくるカビと埃と汗の匂い。

 もうすっかり慣れっこで、臭いとも臭くないとも思わない。むしろ、ほっと安心出来るくらいだ。

 剣道部員が感じる防具の匂いみたいなものだろうか。


 久樹は机の上に座り、わたしはボロボロのパイプ椅子に逆向きに、大股広げて座った。

 上品とはいえない二人だが、女子は、女子しかいないところではこんなものだ。たぶん全国的に。


「静岡県のね、サッカークラブから誘われてるんだよ」


 久樹はおもむろに口を開くと、なんだかもの凄いことを、ぼそぼそと呟くように、しかしはっきりとした声でいった。

 それは、自分自身にいい聞かせているようにも思えた。


「サッカー?」


 はっきりと聞き取れたにもかかわらず、わたしは聞き返した。

 まあ、誰でもこういう反応になるだろうけど。


「そう。知らないだろうけど、熱海あたみエスターテっていう将来のJリーグ入りを目指しているクラブがあってね、といいつつ、Jリーグ一歩手前のJFLから地域リーグに降格しちゃったんだけど。予算出して本格的にJ昇格のための取り組みを始めるみたいで、その一つとして下部組織等を充実させようということで、来年からユースとレディースが作られるんだって。でさ、そのレディースに誘われた」


 確かに、久樹のいう通り、熱海なんたらなんて聞いたこともない。

 まあ、Jリーグのチーム自体、二つ三つしか知らないけど。なんだっけ、浦和レッド、とかなんとか。


「フットサルじゃなくて、サッカーか……」


 自分の心にどう思えばいいのかすら分からず、間持たせの言葉を呟いてみる。


「フットサルをずっとやってきたような子に、何人か声をかけてんだって。相手を抜く技術なんかサッカーと色々と違うから、そういうのがちょこっといると、いいアクセントになるんだって」


 いわれてみればなるほどと思うしかないが、とにかくわたしには、よく分からない。


「久樹は、サッカーを、やりたいの?」


 わたしの問いに、久樹は沈黙した。

 それは答えに詰まってというより、単に言葉を整理しているだけのようだ。

 そして、語り始めた。


「あたし、いままでフットサルのことしか考えたことなかったんじゃないか、って思うんだよな。いやいや、実際、考えられないし、これからもきっとそうだと思う。今回の話を受けて、そんなあたしだからこそ、サッカーを経験して、自分のプレーや感性の幅を広げたい、と思うようになったんだ。中途半端は嫌だから、やらないつもりなら今回の誘いは断固断って、もうサッカーなんか見向きもしたくないし、やるのならば自分がなにかを掴めるまで、自信を得られるまで、しっかりとやってきたい。……まあ、似た競技だから、何年経とうとそれでフットサルの技術が衰えるものじゃないしね」


 一気にそう喋りきると、久樹は口を閉ざした。


 今度はわたしが口を開く番。

 しかし、なにを喋るべきかまとまらないどころか、自分自身がこの件に対してどんな方向性の考えなのか、それすらまったく分かっていない。いきなり聞いたことだから当然といえば当然だけど。


 だというのに、わたしは無意識に言葉を発していた。


「無責任なことをいっていいのなら、久樹、行くべきだよ。その誘い、受けるべき」


 その言葉に、久樹はにっと笑みを浮かべた。


「そういうと思った」

「でも、最後に判断するのは久樹だよ。そんな、人生左右しちゃうような、責任を押し付けられても困るんだから」

「その熱海エスターテってのに、来年から組織全体が移管されるだけで、女子チーム自体はとっくに存在してるんだよね。話を受けるのなら、夏休みくらいからはそっちにかかりっきりになるかも。……もしかしたら、高校も辞めちゃうかも」

「え、なんで?」


 あと半年で卒業なのに。意味が分からない。


「この件って、自分のわがままだから。引っ越し代や、転校費用に向こうでの学費、出してくれなんて親にいいにくい。でも、アルバイトして学費稼いでじゃあ、学校行って働くだけで、なにも出来ない。だからだよ。それに、来年になったら、熱海エスターテの母体の会社で働かせてもらえるかも知れないし」

「いや、でも高校くらいは出ておいた方がいいよ。でないと、それこそご両親に悪い」


 ……でも、こういう良識ぶった一言も、久樹の夢を否定することになってしまうのだろうか。

 どうも、たけふじの一件以来、こういうことに対して強い発言が出来なくなっているな、わたし。


「ま、なるべくね。そうしたいけど。とはいえ、高校卒業することに、あまり関心もないけどね。とにかく、今度の大会、十代最後のフットサル大会になるかも知れない。……いや、もう今後ずっと、こういう大会に出ることなんてないのかも知れない」

「久樹……」

「だから、優勝、したいんだ。梨乃、景子、このみやフサエ、サジや王子、みんなと。……馬鹿なこといってるよね。そんな甘いもんじゃないのに。でも、とにかく、やるからには、本気で優勝を目指して悔いなく頑張ったんだ、って思えるようにしたいんだ」


 それで、知らず知らずに部員への態度がきつくなってしまっていたのか。


 それで、男子に混じって、あんなにボロボロになりながら練習していたのか。


 凄いな、久樹は。

 そこまで熱く、真剣に考えているなんて。


 ちっちゃい身体のくせして、

 どこまで、大きい奴なんだよ。


 じわ、とわたしの目頭が熱くなっていた。


「優勝……させてやる」


 わたしは、はっきりと、そういった。

 もちろん優勝出来るかどうかなんて分からない。

 でもいま、そういっていい時だと思った。

 いや、そういわなければならない時だと思ったのだ。


「絶対にさ、みんなで、優勝を勝ち取ろう」


 わたしは手を突き出した。


 久樹は笑みを浮かべると、黙ったまま、がっちりと、強く、わたしの拳を両手で包み込んだ。

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