アンプラグド・メッセージ
倉橋刀心
第1話 告白指南
「甘じょっぱい、という言葉に至上の違和感があるのです。甘酸っぱい、という類義語もありますが、音の響き同様に意味は全く異なると思います。まずじょ、から、っぱいに向かう理由がわかりません」
時折、笑いながら校舎の渡り廊下を横切る女子にさっと手元を隠す。大丈夫、私の存在さえとりあえず気づかれていない。
「じょ、という発音は限りなく濁っている上、じょ、という音にも何やら隠微な匂いが込められている錯覚を覚えます。それに比べて甘酸っぱいとはなんたることか。ずっ、からの、っぱいに多少の違和感は残りつつ、幾らかスムーズに発音できるし、耳障りも良くはありませんがとりたてて悪いということでもありません。要するに、甘+塩っぱいと両極端さに違和感を無性に感じるのです。それはもう、甘+酸っぱいの比ではなく。甘くてしょっぱいなんて、なんて不謹慎なのかと思います。しかも、しおっぱい、ではなく、じょっぱいと、特有の連濁現象が見られます。比較的使いなれた濁りの効果が、さらにこの言葉の違和感を助長しているように思えてなりません」
風がまだまだ冷たい。4月の半ばにもなれば、少しはゴールデンウィークに向かって気持ちが盛り上がってくるように、気温も上がってくると思っていたのに。私はペンを握ったまま右素足をさすった。
「甘じょっぱいとは、一度にそのようなアンバランスな味覚を口の中で味わった時にのみ表現できる言葉であり、決して甘いの後に塩っぱいがくる訳ではなく奇跡的に併存する味覚なのだと思います。この異世界、いやパラドックスを何とか分割させるすべはないものでしょうか。否。その必要はありません。そもそも存在しないものに言語は存在しないのです。人類が想像し得ないものに名前はありません。そう、甘じょっぱいは確かにこの世界に存在する極めて異端な感覚なのです。そう思えるなら、この梅干し大福の存在意義も大いにあるというものです。ただし多分、日本のみに限ります」
ここまで書き終えて、私、東郷りおは再び顔を上げた。校舎の中庭は、どの教室からも一応見渡せるが、逆にどの教室も見渡せる場所だ。特に葉の伸び始めの季節には。いつもはバイトの後に家でこっそり書く手紙を、思いのままにここで書き上げてしまった。最近のお気に入りスポットに一本だけ生意気そうに立っている桜の木はすでに葉桜で、時折手紙の上に花びらの残っていない赤茶色い花柄が落ちてくる。手でさらりと払うと、うっかりインクボールペンの文字が斜めにかすれた。ああ。膝を机の代わりにしていたので、高さを出そうと立てていた足もいい加減痛い。やっぱりあの時大きくても、イケアでクッション付きの膝置き机を買えばよかった。
手紙、しかも手書きの手紙なんてさぞや珍しいものだろうと自分でも思う。しかし、今時メールも電話も、SNSのやりとりさえできない化石ほどの貴重なお相手とあっては、こちらが笑ってしまうほどやむを得ない。
しかも、そのお相手である一回り以上も年の離れた男性と文通していることは、たった一人しかいない肉親である母親にも内緒にしていた。背徳感マシマシ。友達のれいかならそう言うのかもしれない。
「なに書いてんの?」
不意を突かれた。後頭部から響く男の声に、身体中からさっき飲んだコーヒー牛乳が噴き出してきそうだった。鼻からは死守しないといけないのに。
「なななななななんですか」
振り向きながら頑張って声を張り上げた。舌噛みそう。見上げると、髪が私の顔にかかりそうな程近い。
男は気がついてか無意識か、少し長めの髪をさっと耳にかけた。仕草がなんだか嫌に派手な男の子だった。そして…真下から逆に見上げたその顔は、多分絶対かなりのイケメンと言われる造り。切り忘れたような微妙な長めの黒髪に、少したれ目気味のまっすぐな視線。自分に自信がありそうな雰囲気が、すっと通った鼻筋からも見て取れる。やだなあ、男なのに私より綺麗だよ、この人。
しかしこの不意打ちの接近戦といえど、この造りには見覚えがある。れいかが時々名指しで、そのカッコ良さゆえに行動を監視せよ、論議せよ、同調せよ、と要するに『一緒にファンになって!』と強制される彼女の恋愛対象だ。無理矢理捻ったような体制を、息ができるほどに整えつつ視線を落として足元を追いかける。私の目の前にゆっくり回ってきたこの上履きの色は、2つ上の3年生。確かにこの人だ。ああ、意外と綺麗に上履きを履いているな。ちゃんと洗ってるのかな。えと…名前なんだっけ?
私はささっと手紙を隠し、先輩をインギンブレイに睨みつけた。とっさに漢字がわからないので、カタカナで睨みつける。ち、後で調べておかなくちゃ。とりあえず、スカートの裾を直しながら、お前は誰だ、迷惑なんだと視線でアピール。手紙の内容、見られただろうか。あれ、インギンで合ってたっけ?
「ね、あんた1年だよね?何組?」
目の前にいる女子の、驚きながらの迷惑アピールにも気がつかないこの男は、ニッ、と一瞬笑って私の前に封筒を出した。その意地悪そうな爽やかな笑顔、いかにもモテそうな男の余裕の表情だ。気にくわない。余裕の表情を隠してないところが全く不愉快だ。
「1組ですけど、、、え?何?ラブレター?」
心とは裏腹に、慌てた声が口から出てくる。なんかこういう時自分でも余裕ないんだな、と思うと時々後で落ち込む。
「残念ながら、あんたにじゃない。ごめんね?これ、同じクラスの秋山れいかって子に渡して欲しいんだけど」
混乱から来た一瞬だけの恥ずかしい自惚れだったのに、いやだ、表情に出てたのか。謝られた。そして差し出されるは、くたびれた縦長の茶封筒。ちょっと中身が透けてる感じのストライプの薄いやつ。今どき。本当に。ラブレター??
しかもまたいい笑顔で封筒を押し付けてくるもんだから、私の自尊心は5秒くらい前から傷ついていた。なんかやだ。なんか許せない。私に勝手に恥をかかせておいて。リベンジ禁止月間、すなわちリベ禁中だった私なのに、すっかり忘れるほど頭に来て、思わず言ってしまった。思わず。
「ラブレターはご自分で直接渡してください。自分で告白もできないで、あんな可愛いれいかと付き合えると思ってるなんて驚きです」
先輩は表情を変えた。カウンターアタック、なぜか効いてる。
「しかも、せめてラインのID教えてとかならわかるけど、ラブレターでイマドキのれいかを落とせるとはとても思えません。戦略練り直して、一昨日来た方がいいですよ」
ちょっとボディブローが入りすぎたか。でも、もしかして手紙を読まれたのではないかという焦りと自分宛と勘違いした恥ずかしさが、ダブルで私に勢いをつけさせた。
「……」
男は、封筒の角で唇をトントンと叩きながらしばらくの間黙り込んでいた。口で本当に点、点、点、点、とでも言いたげだった。私の発言に意外性を感じたのは多分間違いない。しかし…。私は決してこの男を傷つけたかったわけじゃない。もやもやと、あっという間に私の胸の中に墨汁のような暗い罪悪感が広がった。
「あ、でも、一応試して見るだけでも、、、あの子意外と変わったもの好きだし」
駄目押しなのか、フォローなのかよくわからないことを言ってしまった。なんで私はこんなに口が悪くてひねくれてるんだろう。
そのうち、やっと男は表情を崩し始めた。
「あ。なるほどなるほど。ははあ、なるほどね」
酷い独り言。楽しそうに笑っていやがる。
私は、自分が勘違いしたことをこの人がさも勿体ぶって味わっているのを確認し、顔があっという間に熱くなった。あ つ い!
いたたまれない、恥ずかしい。常日頃恥ずかしいという感情を持たないためか、一度自覚するとその思いは加速する。どこでもいいからとにかく逃げてしまいたかった。私は立ち上がった。
「あ、待てよ。用件はまだ終わってねえ」
男はあろうことか、私を引き止めた。立ち上がった私の肩をがっつり掴んで。気がつけば、立ち姿でも斜め上を見上げなくてはいけないほど男は背が高い。イケメンだけど、ヤンキーってほどでもなく、制服をきちんと着ている。まあこの学校はまあまあ進学校だから、そもそも不良っぽい人も見かけないけど。
立ち上がった拍子に、当たり前のように膝の上で下敷きがわりにしていたノートとボールペンがタイルに転げ落ちた。
「それよりお前、なんかちょっとムカつくんだけど。なんで俺が説教されないといけないの」
無理矢理手を払ってみせつけた背中越しに、脅迫めいた発言が聞こえた。あんたがお前に変わってる。
「それに、ラブレター渡して告白だっていいじゃん。俺はそんなに女に困ってねえけど。れいかちゃんって子がめちゃくちゃ可愛いらしいってのは今わかったけど、何なんだよ。俺だって今、一応…彼女いるし」
私はあろうことか、男を怒らせてしまった。らしかった。ああ、そうか。私とは住む世界が違うから、恋愛対象なんかじゃないから、別に機嫌取らなくてもいいから。こんなイケメンでも、最初は優しそうに振舞ってても、結局眼中にない女には地が出るのか。でも、怖くはなかった。怒りが堂々と恐怖を乗り超えてきた。ムカつくから何?なんかされるの?脅されて、暴力を振るわれる?力で抑えられる?
ふっと笑いがこみ上げた。そんなのが怖いって思ったのは、もう遥か彼方の昔話。私がまだ小学生で、純粋で、SF小説の中の吸血鬼が怖かった頃のおとぎ話だ。私は斜め上の男の目を改めて睨み返した。
「説教なんてしてませんよ。ただ私はちょっとあれだな、と思っただけです。ラブレターで告白したら〝今時手紙なんてダサい〟って言われる。SNSのメッセージで告白したら〝顔も見ず直接言わないなんて男らしくない〟って言われる。直接告白したら〝直接すぎる〟って馬鹿にされ、〝告白しないならしないで〝勇気ない〟って指を指される。結局何したって、何かしら人から言われるものですよ。だったら」
私は一呼吸置いて、なるべく落ち着いて言った。
「自分の好きなようにしたらいいじゃないですか。私はラブレターを人に渡してもらうのは〝直接振られるのが怖くて保険かけたのかよ、だせえ〟とか、思っただけですから。あと〝彼女いるのに他の子に告白かよ、もっとだせえ〟とかも思っただけですから。そんなムカつく他人様の意見なんて、ちっとも気にする必要ないと思いますよ」
ああ、ちょっと声が震えた。でも、本当のことだ。時々自分に言い聞かせる言葉が、今また自分の口から出て、自分の耳につっかえながらも再び胸の中へ染み入る。
男はため息をつきながら頭をかいた。じっと私を見ているっぽい。驚いているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか。でも私は到底睨み続けることができなくて、下を向いていた。男を凝視できなかった。明らかに発言と態度が一致していなかった。
沈黙の間に風がピウと吹き、私のスカートの裾を少しめくった。
男は黙ったまま、気がついたようにゆっくりと私のペンと便箋を拾った。
「こういうの、意外に遠くまで転がるよな、そう思わない?」
便箋を丁寧にはたき、息まで吹いて綺麗にほこりを落とし、私の目の前に封筒とともに突き出した。
「だせえ…って、他のことにも言えるのかなあ。なんか、ちょっと胸に刺さったわ」
男の声は、なぜか静かで既に落ち着いていた。
ペンが転がったくらいで感傷的になるなんて、さてはお年頃か。私は黙ってペンと便箋だけ受け取り、茶封筒をわかりやすく押し付けた。男はそれからまた一つため息をついて、ゆっくり空を見上げた。長い間見ていたから、私もつられて、同じ空を見上げた。綺麗に染まった赤い夕焼け雲が、四角く校舎に切り取られていた。
「あとお前、俺のこと知らないの?確かにSNSとかはやってないけど。マジで?」
私は見上げたまま、また首を横に振った。
「れいかが知ってる、ってことは知ってます」
男は一瞬鼻で笑って、腕を組んだのが視界の端に映った。
「なあ、わかったよ。これは確かにラブレターだった。謝るよ。で、直接告白したいんだけど、どうしたらいいか全くわからない可哀想な俺に協力してくれないかな?」
男は手元に残った封筒をひらひらと振りながら、私の顔を覗き見た。とても謝ってる態度には見えなかったけど、今はそれどころじゃない。それにしても、協力って何よ?
頑張ってもう一度睨む私。なんだかしおらしい顔で返事を待っている男。また髪をかきあげた。ああ、なんだろ、この構図。騙されてる気がする。
「私、お前なんて名前じゃないですけど。これ以上私に絡むようなら、大声出しますよ」
男は慌てて私の口元に手を当てた。
「え、ちょっと大声は、俺の将来のためにやめてあげて。本当に、本気だから。俺これでも色々悩んでるんだ。あーほら、何で涙目になってんの。俺が泣かしたみたいになってんじゃん」
自分では気がつかなかったけど、確かにちょっと鼻の中がつんとしていた。私は、感情的になると、その時の気分に関わらず、涙が出てくる体質だ。これで色々得もしたし、損もした。ああ、ちょっと勘違いして恥ずかしかっただけのに、なぜか心を持て遊ばれたように感じたからかもしれない。
「名前、聞いていい?俺、乃木。乃木智樹。3年2組の特進クラス」
私は男の手を強引に掴んで口からはがし、しっかり目を見てこう言った。どんな理由にしろ、泣かしたのは正真正銘お前だ。
「お嬢様とお呼びなさい!」
瞬間、けたたましい笑い声が中庭中に響き、私のあだ名はこの時から「お嬢」になった。
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