それぞれの企み

 帰省していた寮生達が戻り、普段と同じ時間が流れ始めると、つるんでいた連中がいつもと同じように群がり、蒼葉と一緒にいることはなくなった。

 顔を見ればオウと目線を合わせることはあっても、それ以上の会話はない。

 時折、離れたところで、

「どうした蒼葉、そのアザ」

「父さんにぶたれたぁ」

「ダッセー」

 そんな会話が笑い声とともに聞こえたりしても、あえて視線を向けたりその中に入ろうとはしなかった。

 それは蒼葉も同じだった。互いの秘密を共有したあの時間が消え去ったかのように、以前の関係に戻っていた。


 そして次の憂鬱が襲ってくる。

 夏休みだ。

 部活動があるから夏休みは帰れない、という理由付けのためだけにテニス部に入った。どこでもよかったが、テニス部は顧問がテニス未経験の養護教諭で、ほとんど顔を出さない弱小部だからだ。

 家を脱出するための情熱は今なお燃え続け、もうこのまま永遠に帰らなくて済む方法を必死で探っていた。


「亮ちゃん、お盆も帰らないんだって?」

 亡くなった母の姉からの電話だった。

 お盆を挟んで五日間は閉寮になる。出ていかなければならないが、何とかして友人宅にでも転がり込もうと画策していたので、とりあえず父には帰れないかも知れないと伝えたすぐ後だった。

「早いね、悦子えつこ伯母おばさん」

あきらさんから電話が来たわ。あいつ陽子ようこのお墓参りもする気がないのかって」

「そのうち一人で行くよ」

「ま、亮ちゃんの気持ちもわかるわ。お母さん死んで間がないのに、お父さんは女連れ込んでもうお腹が大きいんだから… 節操がないわ」

 電話の向こうで悦子の深いため息が聞こえる。


「晃さんには困ったものだわ。婿養子の自覚もないんだから。頼りない人だとは思ってたけど、たちの悪い女にまんまとひっかかるなんてね」

たちの悪い女…」

「そうよ。歳も歳だし水商売で客だませなくなったから、後妻に入って旦那の財産根こそぎ持ってこうって魂胆よ」

「ふうん… でも、うちは財産ないし」

「何言ってるの。家も土地もお墓もあるんだから亮ちゃんしっかりしてよ。瑠美るみさんとお腹の子供は、笹原とは全く血の繋がりのない他人なんだからね。ホント冗談じゃないわ」

 家も土地も、とてもたくらんで手に入れるほどの価値はない。まして墓など厄介なだけではないか。勝手に質の悪い女にされている父の再婚相手、瑠美が少し気の毒になる。


 悦子は母の陽子と二人姉妹だ。

 未婚の頃の悦子は「うちには守るべき財産もないし、継がなきゃならない商売もしてないから、養子を取る必要なんてない。私はお嫁に行くから」が口癖でその通りにした。

 続いて母が適齢期になる頃、「陽ちゃんまでお嫁に行ったら、お父さんとお母さんがかわいそうだよ。家やお墓を守る人もいない。笹原の名前も無くなるのは寂しいよ」

 姉妹は仲が悪いわけではなかったが、母は「晃さんが婿養子でもいいよって言ってくれたから、そうしてもらったけど、ホント、悦ちゃんは自分勝手な人」とこぼしていた。


「ああ、そうだ。こんなこと言うために電話したんじゃないのよ」と、悦子が思い出したように言う。

「家に帰らないならうちに来なさいよ。パパがね、一緒に釣りに行こうって。ほら、うちは女の子ばっかりだから興味なくて。付き合ってあげてよ。お墓参りはね、秋のお彼岸にでも一緒に行きましょうよ。陽ちゃんだって、亮ちゃんが瑠美さんと並んでるとこなんて見たくないから」

 早口でまくし立てる悦子には、ノーと言う選択肢はないようだ。

「じゃあ、待ってるから。体には気を付けて勉強も部活も頑張ってよ。じゃあね」

 そう言うと、一方的に電話を切った。

 母の言う通り勝手な人だと思うが、とりあえず休みに行くところができてありがたくもあった。



 八月も第二週に入ると、部活に励んでいた寮生もぽつぽつと帰り始める。閉寮日には数人が残っただけで、それも昼食が終われば早々に追い出される。

 仲の良い友人たちは皆帰省し、一人で昼食を取っていると「ケン、お前帰るの?」とどこかで聞こえる。上級生の声だ。

「帰るわけねーだろ」と答えているのは三年の綾野あやのつよし。つよしと呼ぶヤツはいない。皆、ケンと呼ぶ。

「1週間、ペンションで住み込みのバイト」

「なんだよ、それ。誘えよ」

 そういう手があるのかと鳥肌が立つ。

『ケンさん! 次はオレも誘ってください』と会話に加わりたい衝動を抑える。

 ふと周りを見渡すと、どれも浮かない顔ばかりだ。なるほど閉寮日ギリギリまでここに居るということは、帰りたくないヤツばかりということか。思わず口元が緩む。自分独りだけではないとわかることが、こんなにも気が楽になるとは。


「ここ、いい?」

 見上げると、昼食の乗ったトレイを持つ蒼葉が立っていた。

 オウと頷くと前の席に座り、いきなり「帰るの?」と訊く。

「お前は?」

「帰るしかないし。亮一君は?」

「帰るよ… 伯母さんちに」

「それ帰るって言わない」

「だな。オレはまだ距離が必要なんだよ」

 食事の手を止め蒼葉を見る。こちらも浮かない表情だ。

「蒼葉、お前、大丈夫か」

 蒼葉は食べる手を止めずに、うんと頷いた。


「何とかなるでしょ。また殴られたらおばあちゃんの所に行くつもり」

「おばあちゃん…か。いいな、大嫌いな親父から離れられる、そういう逃げ場があるって」

 うんと言って顔を上げると、ぬっと首を突き出す。

「おばあちゃん、蒼葉はそのままでいいよっていつも言ってくれる。無理しちゃダメだって」

 小声でそう言うと、笑顔を作って見せた。

「それに『大嫌いな親父』じゃないよ。父さんはたくましくて豪快で…」

「お前の親父がたくましくて豪快? 全然想像できねえな」

「運動が趣味なの。僕も運動しろっていつも言われるけど、僕は苦手だから… そういう自分に厳しいところも尊敬してるし… それに楽しくて優しくて大好きだよ」

 楽しくて優しい親父が息子を青あざできるほど殴るか? と返したかったが蒼葉の無邪気な笑顔に押しとどまった。


「亮一君はどうなの? お父さんのことが嫌い?」

 改めて訊かれると言葉に詰まる。

 父のことを嫌いになったのかと問われれば、それは違う。再婚相手の瑠美はと問われれば、好き嫌いの部類にも入らない。

 父のことを嫌いになったわけではないが、父の選択が受け入れられないだけである。

 それなら、距離を置いて他人に近い関係を目指すしかない。

「オレも嫌いになったわけじゃない… 距離を置いてるだけだ」

「それ便利な言葉だよね」

 蒼葉がにやりと笑う。


「大人になれば誰だって親とは距離を置くだろ。それが少し早まっただけだ。次の休みはオレたちも住み込みのバイトでも探すか」

「無理だよ。一五歳じゃダメだって断られた」

 思わず箸を落としそうになる。

「お前… 断られたって、応募したの」

「うん、ケンさんに教えてもらって電話した。十八歳以上じゃないとダメだって。正直に言うヤツがあるかって笑われた」

 いつも柔弱さばかりを、全身から漂わせている蒼葉だった。その彼の中に潜んでいた、意外な一面を見たような気がして、言葉が出なかった。

 どこにも属さず、独り切りで時を過ごすうちに身につけた強さなのか。

「でも探せば高校生でもOKなところもあるんだって。そういうとこ探して次は一緒にバイトしようね」

 蒼葉は無垢な瞳を見せてにこやかに笑った。

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