沈丁花
ひろり
それぞれの反抗
さらさらと頬を撫でる風の中に、甘い沈丁花がしっとりと香り始める頃になると、胸の奥に走る鈍痛。
時は巡り、周囲の景色は目まぐるしく変わっていくのに、この季節になるとあの瞬間に引き戻される。
逃げるように家を出ることしか考えられなかったあの頃…
父の再婚が決まり、志望校を自宅から離れた寮のある私立高校に変更した。
もちろん父には相談していない。
ある日突然、見知らぬ女性を連れてきて、
「この人と結婚することになった」と、父は照れを隠すように、視線をチラチラさせながらほころぶ唇に必死で逆らっていた。
母が亡くなって2年、これからはお父さんと一緒に頑張っていこうなと、肩を抱き寄せてくれた父が虚しく脳裏によみがえる。
これから始まる、母とは似ても似つかない女との生活を、想像することなどできなかった。
合格したことを伝え、当初志望の近くの公立高校だとばかり思って「おめでとう」と祝う父に、高校の名前を告げた時の驚いた顔と言ったら。
憮然とする父の前で感じた爽快感、穏やかに笑う息子を見て、初めて自分の再婚が拒否されていることを知った顔が、ただ滑稽だった。
「
少しだけ薄い茶色の瞳の中に、幼い正義感をたたえて彼は言った。
「笹原でいい。君は付けなくていいから…
そんな話は誰にもしていなかった。誰にも話すつもりもなかった。なのに、親しくもない同級生に話していることが不思議だった。
彼は隣のクラスの
入学して初めての連休、家に帰ったはずだったが、その日の夜に戻ってきたのだ。目の周りに絵に描いたような青あざを作って。
「父さんに殴られた… 僕のことが気に入らないんだ」
「お前、なんかしたんだろ。何もしないのに青タンできるほど殴るか」
父親に殴られるどころか、怒鳴られたこともほとんどない。深刻な事態に陥っているようだが、それがどのような状況かが想像もできなかった。だから
父親に殴られて、家を飛び出してきた蒼葉の孤独が、少しでも和らげられたら、そんな同情心がオレの口を軽くさせたのだろう。
「りょういち…くんは何で帰らないの? 新しいお母さんにいじめられたりしたの?」
「いじめられるほど一緒に住んでねーよ」
「もしかしたら良い人かも知んないし… お母さん。待ってるかも知んないでしょ」
「待ってねーよ」
思わず感情に任せて吐き捨てた。
「今、妊娠中なんだ。友達と遊びにいくから帰れないと言ったら、『残念ね』て言いながらホッとしてんのが丸わかりなんだよ、あのババア。『赤ちゃんできちゃったぁ』とか気持ち悪いんだよ」
「やっぱり亮一君はガキだ!」
ガランとした食堂に、蒼葉の声が響いた。
「それにマザコンだ。亡くなったお母さんだって絶対悲しんでるよ」
至近距離まで近づけてきた蒼葉の澄んだ瞳が、徐々に熱を帯びてきたように細かい血管を伸ばしている。その瞳の周りに痛々しく貼り付いた青あざが、まるで炎のようだ。
シュールな絵面… なのに美しい。
「ほっとけよ」と言うのが精一杯だった。
鼓動が早くなるのを感じながら、咄嗟に蒼葉を押しのけた。
「でも逃げちゃダメだよ」と食い下がってくる。
「家族なんだから逃げちゃダメだと思う。自分から中に入らなきゃダメなんだよ。家族は一緒の時間を過ごして初めて家族になるんだ」
『黙れ、ウザいわ、お前の説教くらうために話したんじゃねえよ、何様だぁ。オレはアザができるほど親父に殴られたお前に同情して、わざわざしたくもねー父親の話をしてやったんじゃないか。なのに何説教してんだよ』という言葉が頭の中だけで虚しく響き、その邪気のない必死な眼差しに掻き消されていく。
思わず視線を逸らした。
怯えたような薄茶色の瞳はどこか不安定で、誰とも視線を合わさず寮の隅でおどおどとたたずんでいた、あの蒼葉とは別人だった。
「バ…バカヤロウ」と呟くように言う。
「親父から逃げてきたお前に、そんなこと言う資格あるかよ」
蒼葉は「あっ」と声を上げる。
「そうだった… すっかり忘れてた。生意気なこと言ったね。ごめん」
その素直さにいくらか落ち着きを取り戻す。
「いいさ… お互いに親父とは距離を置きたい年頃なんだ。別に逃げてるわけじゃない… お前もオレも」
「うん、そうだね」
蒼葉の人懐っこい笑顔に、思わず頬がゆるんだ。
「あらぁ、一人増えてる」
しゃがれた声が食堂に響く。パジャマにカーディガンを羽織っただけの寮母が立っていた。
蒼葉が反射的に立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
「お父さんお母さんの元にも帰んないで、親不孝な子たちだねえ。お腹空いてないかい。焼きそばでも作ろうか」
そう言うと冷蔵庫からいくつか食材を取り出し、手早くカットし始める。
「おばさん、気が利くじゃん」
「おばさんじゃない。みわさん!」
「はいはい、サネカズさん」
「もう! 大人をからかうんじゃない!」
彼女の名前は
「あ、あの、実和さん、何かお手伝いしましょうか?」
蒼葉がおずおずと実和に声を掛けると、彼女はにっこり笑顔を返す。
「いい子だねえ、蒼葉くんは。座ってていいよ。もうできるから」
あっという間に出来上がった焼きそばは、蒼葉のほうが大盛りだった。
「
「アンタ、夕飯腹いっぱい食べてたでしょ。太るよ」
「実和さん、オレたちがいなかったら自分も休めたのにって思ってるんだろ」
「アホ、あんた達が居ても居なくても、ご飯は毎食作りますよ。憎まれ口叩いてないで早く食べなさい。明日の朝はゆっくりでいいね。眠いとこ起こされちゃって迷惑ったらありゃしない」
蒼葉が慌てて立ち上がり「ごめんなさい」と頭を下げるが、口いっぱいに頬張っていてうまく言えない上に、口から焼きそばがぼろぼろとこぼれた。焦って両手で口を覆う蒼葉に、実和がやさしく微笑んだ。
「違う違う、蒼葉くんに言ったんじゃない。亮一のアホに言ったの。蒼葉くん、ゆっくり落ち着いて食べなさいね」
実和は、やわらかな笑みを残して出て行った。
深夜の食堂に、焼きそばをすすり上げる音と、コリコリと野菜を噛む音だけが聞こえる。
そのうち、蒼葉の鼻をすする音が混じる。
「なんで僕が夕飯食べてないってわかったのかなあ」
蒼葉が絞り出すように言う。
「そりゃお前、そんな目の周り青くして、家族で楽しくご飯食べてきましたとは思わないから」
「そうだね」
蒼葉の瞳から涙がこぼれ落ちた。
少しだけ薄い茶色の瞳は、たまった涙のせいでグレーにも見える。
「おばさん、青あざについて一言も聞かなかったな」
蒼葉はうんと頷くと腕で涙を拭った。
「ダメだよ、亮一君。実和さん! おばさんじゃない」
涙と鼻水で顔をてからせながら、蒼葉が笑った。
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