第11話 抱擁

夜はまた一人で散歩する。

いつも明るい方へ行ってしまうので、今夜は暗い方へ歩いてみよう。

かえるの鳴き声が聞こえ、ほたるが舞う。

梅雨も終盤に入っているが、空は晴れて、星がまたたいている。

昔、咲は暗がりを怖がった。

探検と称して遠くまで歩き、帰り道の途中で日が暮れてしまった時には、いつも強気な咲が泣き出して困った。

手のひらに包んだ蛍を見せると、無邪気に笑った。

暗い夜道を、手を繋いで歩いた。

いつもお姉さんみたいに僕をしかるのに、咲の手は小さくて、幼子おさなごみたいに僕の手をぎゅっと握っていた。

大きくなるにつれ、咲は色付く花みたいに綺麗になって、昔とは逆に手を繋がなきゃどこかへ行ってしまいそうに思えた。

今でも、手を差し出せば届く距離にいて、けれどこの手は何も触れない。


山のふところにある神社の鳥居をくぐる。

真っ暗な参道の奥に、常夜灯のともる拝殿が見えている。

ここも昔、肝試しで夜に訪れたことがあって、あの時は僕と咲と希、それから近所の子が三人、集まったんだっけ。

くじ引きで僕と希がペアになったのに、咲は僕の腕を掴んで離さなかった。

僕は困って、いや、嬉しくて怖さなんて全く感じなかった。

今の咲には、もうすがる腕は必要無い。

咲は強くて聡明そうめいな女性だ。

僕はそれが嬉しくて、それがちょっと寂しい。


鈴を鳴らすことは出来ないし、柏手かしわでを叩く動作をしても音は出ない。

賽銭さいせんは持っていないし、あったところで取り出せない。

ただ手を合わせるのみだが、ご利益はあるだろうか。

あの肝試しの日にも、咲と並んで手を合わせたはずだが、何を祈ったか思い出せない。

今は、咲の幸せを願おう。

自分はもう終わってしまった人間だから気楽なものだ。

自分のことに振り回されることなく、咲のためだけに祈れるのは嬉しいことだ。

……矛盾、そして訂正。

僕が僕である以上、咲のためだけではいられない。

母と妹の悲しみが癒えますように。

もしかしたらそれは、僕を忘れてと願うことと同義だろうか。

楽しい思い出だけ残して、悲しいことは忘れ去る、っていうのは贅沢ぜいたくかなぁ。


来た道を引き返して、自宅の前まで戻る。

今が何時なのか判らないが、家の明かりはともっていない。

母親が寝るのは十時過ぎ、希は十一時過ぎくらいだから、たぶんもう十二時は過ぎているのだろう。

隣の咲の家も真っ暗だ。

二階の東側の窓、咲の部屋に目を向けるとカーテンが動いた気がした。

そう言えば、僕の部屋の窓から咲の着替えを見てしまったことがあって、あれ以来、カーテンの閉め忘れは無くなったなぁ。

確か中学一年のことで、咲がブラを着け始めた頃。

あの年の夏は、制服の下に透けて見えるブラがまぶしいようで、咲だけ一足飛びに大人になったようで、僕は屈託のない咲の笑顔に戸惑うばかりだった。

いつしか、いや、いつだって僕は、咲の隣を歩きながら、咲の背中を追っていた気がする。

「こら、勉」

「!?」

心臓があるのか無いのか判らないけど、心臓が飛び上がるほど驚く。

「未成年が深夜徘徊してちゃイカンぞ」

パジャマ姿にサンダル履きの咲が、おどけた調子で言う。

いつも顔を合わせていても、不意打ちされると話は別だ。

咲に話し掛けられるだけで、感情は大きく乱れて揺れ動く。

「勉?」

咲が僕の顔をのぞき込む。

甘やかな匂い。

額がくっつきそうな距離で僕をうかがう瞳。

「びっくりした、泣いてるのかと思ったじゃない」

「僕はアイドルと同じで、トイレすらしない」

「どうせ私はアイドルにはなれませんよーだ!」

夜の暗さのせいか、咲はいつもよりはしゃいでいるように見えた。

「だいたい勉は──それって……トイレすらしないって、涙も出ないってことよね?」

咲が僕の腕に手を伸ばしてくうつかんだ。

「それってやっぱり、泣いてたってこと!?」

僕は子供の頃から、あまり泣くことなんて無かった。

でも咲は勘が鋭くて、泣かない僕を慰めたりするものだから、僕はいつも咲に泣かされてしまうのだ。

「……希を、泣かせてしまった」

「どういうこと!? 希ちゃんと接触できたの!?」

僕は首を振った。

「アイツはいつも僕を無下むげにしてきたし、葬式のときだって涙ぐむ程度で……でもそれは、アイツの強さで、兄に頼らず確固たる自分というものを持っているんだと思ってた」

優しい溜め息が聞こえた。

「勉が女心をかいさないって言われるのは、そういうところでしょ」

「……僕の部屋でうずくまって泣いてたのに、僕は動けなかった」

「……勉、ほら」

優しい声が聞こえる。

咲が両腕を広げていた。

僕には意図が理解できない。

「おいで」

何を言っているのだ。

僕は泣いている妹に触れることさえ出来ず、無力感に打ちひしがれていたというのに。

「もう、そっちがその気なら私から行くぞ」

咲が僕に歩み寄って、その腕で僕を包んだ。

れることすらかなわないのに、胸の奥にポッと火が燈ったように温かくなる。

体温は伝わらなくとも、僕は咲の温もりを知っている。

伝わらない筈のものが伝わり、感じられない筈のものが感じられる。

「勉は昔から理屈で考え過ぎなのよ」

「でも」

「ちゃんと、勉を感じるよ?」

「でも」

「もう、世話の焼ける」

「ごめん」

「毎晩夜中に寂しがってないかなぁ、なんて窓の外を見てたけど、やっと現れたと思ったら案の定」

「え?」

「ん?」

「毎晩? 窓の外?」

「え? あ、違う! たまたま! 偶然だから!」

僕を包むようにしていた腕をほどき、後退あとずさりしながら否定する。

「実際、凄い偶然だと思ったんだ。でも確率的に考えて……」

「あーもう、だからそういう理屈はいいのよ! 感覚! 第六感!」

「第六感なんて非科学的な」

「非科学的を体現している勉が言うな!」

それもそうだ。

僕が見える咲なら、何かを感じ取って僕に気付いたとしてもおかしくは無い。

「なに笑ってるのよ」

「え、僕は笑っていたのか?」

そう言う咲も、ほほふくらませながら目は笑っている。

「まあいいわ。笑う門には福来るって言うしね」

「幽霊にも?」

「そうよ!」

つまり咲は、僕に笑っていろと言いたいのだ。

たとえ無理矢理でも、僕が笑うことで咲も笑ってくれるなら、それは確かに福来るなのだと思えた。

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