二分の一の幼馴染

杜社

第1話 漫画と幼馴染

僕の家のインターホンを押そうとして、さきはその指を止めた。

気の強そうな目元と、気位の高そうな口元をほんの少し穏やかにして僕を振り返る。

「どうしたんだ?」

「だって、つとむがいるのに勉んちのインターホンを押すのって、どうも慣れなくて」

ちょっと苦笑気味に笑うが、そんな笑顔でさえ、辺りが華やいで見えるくらい咲は綺麗だ。

「まあ、いると言っていいのか怪しいけれどね」

僕も苦笑する。

どちらかと言えば、自嘲じちょう気味の笑みだ。

自嘲や卑下ひげ、自信の無さみたいなものを表すと、咲はいつも怒る。

だからそんな僕を叩こうとして手を振り上げ──結局その手を下ろした。

何か気に食わないことがあると、すぐに背中や腕を叩いてくるけれど、昔からのコミュニケーションの一つのようなもので僕は嫌いじゃなかった。

咲は「ふんっ」と顔をそむけ、インターホンを鳴らす。

ヘンな意味じゃなく、叩かれたいなぁ、なんて思ってしまう。

「あら、咲ちゃん」

ドアから母親が顔を出した。

顔色は……悪くはないな。

日によって起伏があるし、まあ今朝も見たばかりだけれど、少しずつ以前の元気さを取り戻しているようなのは喜ばしい。

「おばさん、こんにちは。あの、勉君に本を買ってきたので、その、部屋に……」

「いつもありがとう。どうぞ上がって。あの子も喜ぶわ」

咲は僕にちらりと視線を向けてから、家の中へと入る。

その遠慮がちな背中を見ながら、僕も後に続く。

階段を上がるときには、つい、脚も見てしまう。

子供の頃から見慣れていた、駆けっこの速い日焼けした細い脚。

いつしかそれが、白く、柔らかな曲線をまとうようになって、僕を少し戸惑わせる。

日ごと女らしくなる咲は、いずれ僕を置き去りにしてしまうのだろうか。

それとも、僕も成長するのだろうか?


二階に上がって右にある部屋。

何の飾り気も無いドアの前に立って、咲は一度、僕を振り返る。

「入るわよ?」

当たり前のことかも知れないけれど、ちゃんと了解を求めてくれるのが嬉しい。

部屋の中は、半年前と変わらないままだ。

いや、ちゃんと掃除されているからこそ、変わらないままであるのだけど。

しわ一つ無いベッドのシーツに、咲は腰を下ろす。

「変わらないね」

僕が思ったこと、それと同じことを咲は口にする。

咲がこの部屋に入るのは一ヵ月ぶりだ。

前回も咲は、僕のために漫画を買って、この部屋で僕に読ませてくれた。

取り敢えず僕には続きが気になる漫画が五つほどあって、それらの漫画の完結を見届けないことには死んでも死にきれないのだ。

いや、比喩ひゆでも何でもなく。

だから単行本の発売日には放課後に本屋で買ってから、こうやって僕の部屋に立ち寄ってもらっている。

「読むわよ?」

「うん、頼む」

ページをる咲の細い指。

読む速さはほぼ同じ、はずなのだが、角度的に読みにくい僕は遅れがちになる。

「ちょっと待て、まだ」

「もう、遅いわね」

元々、咲は漫画なんて読んでなかったのに、僕に読ませてるうちに結構ハマってしまったようで、今は読ませるというより盗み見させているみたいになっている。

「えっと、もう少し近くに寄っていいか?」

咲がにらんでくる。

睨むと綺麗さが増すように思うのは、おかしいことなのかどうなのか。

「判った、諦めよう」

「いいけど、呼吸しないでね」

随分と酷いことを言われてる気もするけど、妥協してくれたのはありがたいし、実際、僕に呼吸は必要ない。

それどころか、存在そのものが曖昧あいまいだ。

物に触れられないし、そもそも他人から見えない。

僕の声も届かない。

なのに僕には視覚があり、聴覚があり、嗅覚がある。

物に触れられない以上、触覚と味覚は無いみたいだが。

言うなれば、希薄で、二分の一くらいの存在。

それも咲にとってであって、他の人にはゼロに等しい。

咲に近付く。

咲だけが、僕が見えて僕と会話できる。

呼吸はしてない筈なのに、懐かしくていい匂いを感じるのは何故だろう?

そもそも、どうして咲だけなんだろう?

母親ですら僕が認識出来ないのに。

「ちょっと、重なってるから!」

気が付けば、咲の身体と僕の身体が重なっていた。

僕に実体が無いからで、僕の身体は全ての物がすり抜ける。

とは言え、視覚的に気持ち悪いことになるし、身体が重なると聞けば聴覚的にもマズイことである。

僕は慌てて距離を取ったが、咲は顔を赤くするほど怒っていた。

「す、すまない」

「いま完っ全に合体してたわよ!」

いや、そんな風に言われると、男子としてはヘンな気分になるのだが。

あれ? でも性欲ってどうなってるんだ?

お腹は空かないけど美味しいものは食べたい。

眠ることは無いけれど、暖かさと布団の柔らかさを感じたい。

性欲は……物理的に溜まったり出したりするものは無いけれど、見たい、かな?

つまり欲求自体は残ってるわけだ。

「ほら、そんなに離れなくてもいいから」

睨み付けながらだけど、咲は優しい口調になる。

肩と肩が触れ合うくらいの距離。

それくらいが許容範囲だろうか。

もっとも、ここ数年はそこまで近付くことなんてあまり無かったけど。


家が隣で、小さい頃からずっと一緒だった。

周りからからかわれても咲は他人の言動に左右されないし、僕も咲といるのは楽しかった。

友達かと訊かれると、それは違うと答える。

家族みたいなものかと言えば、そうでもない。

やはり幼馴染としか言いようのない関係性。

ただ、その間にも咲はどんどん綺麗になって、僕はいつしか、近くにいるのに遠くを見るような目で咲を見てしまうことが増えていた。

何となく実際の距離以上に距離を感じ始めていたけれど、最近は、こうして以前のような距離感を取り戻しつつある。

「ねえ」

「ん?」

「このマンガ、そろそろ終わりそうだね」

「そうだな。無理な引き延ばしさえ無ければ、あと数話ってところか」

「完結したからって満足しないでよ」

「え?」

「定期購読してるマンガが五作。その中でずーっと完結しそうにないのが二作」

「そうだな。咲も判ってきたじゃないか」

きつい、けれど綺麗な目で睨まれる。

「許さないわよ」

「な、何が!?」

「マンガが完結したごときで満足したら」

「……」

以前のような距離。

でも、以前より心の距離は近くなったのではないかと思うこともある。

「勝手に成仏じょうぶつしたら、絶対に許さないから」

そう、半年前に僕が死んでからは。

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