第12話 生ける屍の作り方

 アローはある意味困っていた。

 何やら娼館の女子たちに妙に懐かれてしまい、今は銀色の前髪をやたらとリボンで飾られまくっている。

 恋に効くおまじないを聞かれて、紐ひとつあれば誰にでもできる簡易式の護符の作り方を教えていたら、次々とリボンがもちこまれ、今に至る。

「おい、アローよぉ。ハインツは確かに待っている間女の子と遊んでろって言ったけどよぉ、遊びの方向性ちがくね?」

「僕は遊んでいるつもりはない。何故かこういうことになっていただけだ」

 ハインツは教会に戻って資料を取ってくると言い残し、一度娼館を出ている。本当に資料を取りに行っているかは怪しい。アローとギルベルトをここに残す理由もない。

 とはいえ、彼と協力関係を結ぶと決めた以上、下手に詮索して彼を敵に回すことは好ましくないだろう。完全に女子のおもちゃにされている現状はともかくとして。

「ねぇねぇ、やばくない? 普通にリボンにあっちゃうんだけど! このまま化粧もしたら、普通にうちの店で働けるくらい美人になりそうじゃない?」

「しちゃう? ねぇ、化粧もしちゃう?」

 目を輝かせて化粧道具を持ち出してきたノーラとバルバラに、ギルベルトは引きつった顔で「やめてやれよ」と止めに入った。

「大体お前ら、アローに甘すぎないか? 俺の時だってそれくらい甘やかしてくれてもいいんだぜ?」

「いやよ。むさくるしい男と美少年を比べないで」

「アロー君は私たちのおもちゃ……ごほん、かわいい弟みたいなものなのよ。あんたと一緒にしないで」

「今おもちゃって言ったよな!? かわいい弟も何も、ほんの数刻前に会ったばかりだよな!?」

「ええ、しらなーい。何も聞こえなかったー。キャハハハ」

 甲高い笑い声に包まれながら前髪をリボンだらけにされたアローは、悟りきった目でギルベルトを見やる。

「ギルベルト、この状況を打開できるのは君だけだ。頑張ってくれ」

「無理だっっ!!」

 もう何が目的だったのかすら行方不明になりはじめた頃、突如扉が開け放たれた。

「うーん、なかなか楽しいことになってるね?」

 そこには羊皮紙の束を抱えたハインツと――何故か後ろに、ミステルとヒルダもいた。

「あああっ、お兄様が商売女の毒牙にかかって……!」

「毒牙って言うか、完全に遊ばれているだけだけど」

 悲鳴をあげるミステルをよそに、ヒルダは淡々と現状を把握する。

 ハインツはそれこそ告解する信者に赦しを与えるような眼差しで、優しく――それは優しく穏やかに、微笑んだ。

「ちょうど通りで会ったから、一緒に裏口から入れてもらったのだけど……お楽しみだったのなら私はもう少し遅く来た方がよかったかな?」

「楽しんでいるのではなく楽しまれているんだ。見てわかるだろう。早く何とかしてくれ。ギルベルトは役に立たない」

 リボンまみれの髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら、アローは深い深いため息をついた。



 遊びたがる娼館の女子たちを振り切って、一行はどうにか荒ぶる暴れ牛亭まで戻って来た。もうすっかり日が傾いている。

「死霊を呼ぶのって、まさか今夜やったりとか……しないよね?」

 引きつった顔で尋ねるヒルダに、アローはかぶりを振る。

「いや、後日にする。夜中まで君を付きあわせるわけにはいかない。それに、別に死霊を呼び出すのは夜じゃなくてもいい」

「え、夜じゃなくても呼べるの?」

「ヒルダ様、今日、朝からずっと私と一緒にいましたのに、何をいまさら?」

「あ、そうか。ミステルさん、霊だっけ」

「全然そうは見えねえよなぁ」

 ギルベルトがしげしげと観察するのを、ミステルは心底嫌そうに顔をしかめた。

 ハインツの関係者であることがわかったので、ミステルの正体も彼にはばらしてある。トビアスには言っていない。彼はギルベルトのおごりで、娼館で遊びだしたまま戻って来ていないからだ。戻って来たとしても、彼にまで明かす必要はない。必要があるならギルベルトがそうするだろう。ミステルが死霊だと知られたところで、こちらには大した痛手はないのだ。はっきり言ってしまえば、どうでもよかった。

「確かに、死霊は強い陽の光の下では力が弱まるから、昼間の召喚は向いていない。だけど、話を聞くくらいなら問題なくできるはずだ」

「へぇ~、すげえなぁ」

 ギルベルトの薄っぺらい驚嘆に、ミステルは渾身の怒りを込めた表情を向ける。

「誰にでもできることではありません。お兄様が死霊術に関しては天才的な才能をお持ちだからこそできるのですよ! もっと感謝なさい!」

「うーん、でも、俺は死霊術のことなんて全然知らねえしな」

「凡庸な術師でしたら、遺体の埋葬されている墓場に行ったくらいでは、まず狙った通りの死霊を呼ぶことすら不可能です。せいぜい粗悪な動物霊を呼び寄せるくらいでしょう」

「え、そんなにすごいの?」

 墓場にいったら幽霊がいるので話を聞く、くらいの考えでいたのだろう。ヒルダは説明を求めるようにアローを見る。ミステルに話を振ったら、素晴らしい私のお兄様自慢が永遠に終わらないからである。

「僕には普通のことだから、他の術師のことはわからない。同業に会ったことがないからな。ただ、師匠が言うには、僕のような死霊召喚は基本的にできない、らしい」

「つまり、アローがやるのは、ちょっと普通じゃない方法ってこと?」

「そういうことだな。正式な手順だと、まず狙った魂を呼び出すための器を用意する。死んだばかりの人間の遺体が望ましい。それに一時的に魂を降ろして使役する。このやり方で狙った人間の魂を召喚するのは大変だ。制御を間違えると役に立たない生ける屍が完成する」

「そ、そうなの……」

「後は本人の死体を掘り起こして直接それに魂を降ろす。これだと狙い通りの人物の魂を呼べる可能性が高いが、制御が難しい。最悪、術者の言うことをてんできかないタチの悪い生ける屍が完成する」

「え、ええー……」

「あとは術者自身に魂を憑依させる。影占いと呼ばれる手法だが、術者と死者が知り合いでもない限り、これも狙い通りの魂を降ろせる可能性は低い。技量にかなり左右されるし、最悪術者が乗っ取られて術も使える最悪な生ける屍になる」

「もうわかった! わかったから! 生ける屍だらけじゃない! 私は生ける屍の作り方を聞いたんじゃないんだけど!」

 死霊の類が苦手なヒルダが、ついに根を上げた。もう聞きたくないと言わんばかりに両耳をふさぐ。

「安心しなさい。先ほども言った通り、お兄様は、そんな物騒な手を使わなくても死霊を呼び出せる技量をお持ちです」

 ミステルが心なしか胸を張ってそう言うのを横目に、成り行きを見守っていたハインツが「まぁまぁ」と会話を切り上げた。そして、ずっと小脇に挟んでいた羊皮紙の束を、ひとつはヒルダに、もうひとつをアローに差し出した。

「さて、墓の場所については明日教会に来てくれれば、僕が案内しよう。ヒルダ嬢には騎士団へ教会の承認書を届けてもらう。それで問題ないね」

「はい、私は問題ありません」

 ヒルダがうなずき、アローは受け取った羊皮紙の束を見る。薄暗いので、荒ぶる暴れ牛亭の店先のランプにかざした。墓の場所についての書類かと思えば、何やら地図と住所らしき番地の走り書きがある。どうやら物件の契約書のようだ。

「……ハインツ、これを僕にどうしろと?」

「教会と騎士団に協力してもらうのに、素性のしれない旅の死霊術師では困るんだよ。その証文に書かれているのは、教会が管理していた建物でね。とりあえず、君には店を構えてもらう」

「店? なんの店だ?」

「何でもいい。それこそ占い屋でも、魔法道具屋でも。形だけで構わない。教会と騎士団の上の方を納得させるための体面だよ。世の中は面倒なことでいっぱいだ。まぁ、今日はもう遅いし、明日見に行くといい」

 クロイツァの弟子であるアローと縁をもちたいこと、教会が大事にしたくない事件に協力すること。それらだけでは、この待遇の説明がつかない。

 アローは心なしか据わった目でハインツを睨んだが、彼は飄々とした様子だ。

「そんなに警戒しないでくれたまえ。私だって常に腹の中の思惑に振り回されているわけじゃないよ。君に貸しを作ることが後々教会のためになると思っただけさ」

「…………話半分に聞いておこう」

「それでいい。今は怪死事件の真相究明が第一だからね。それじゃあ、僕は教会に戻るとするよ。仕事がたまっているんでね」

 ひらひらと手を振って去っていくハインツの背中に、ギルベルトがげんなりとした様子で呟いた。

「仕事がたまってるも何も、あいつ今日のほとんどを娼館で過ごしていたじゃねえか……」



 書状を届けに騎士団に戻るというヒルダ、飲みにいくというギルベルトと別れ、アローはミステルと一緒に宿をとった。荒ぶる暴れ牛亭の二階である。

 カルラは約束通り、宿代をまけてくれた。それどころか、若い少女が連れにいるからと、狭いながらも個室を用意してくれた。

 どこにいっても宿を断られた初日とは、大違いだ。服を着替えただけで、ここまで待遇が変わるとは思わなかった。

「身なりさえ整えていれば、世間は非モテにも優しいんだな……」

「そうですね、きっとお兄様の純真なお心に気づくことができたのでしょう」

 ミステルがすかさずそう告げる。兄の盛大な勘違いを肯定するのは、彼女にとって重要な任務である。たとえ自分の実体を得る道が遠のくとしても、変な女に引っかかる危険性にくらべれば些細なこと。

 義妹の思惑などつゆほども知らず、アローはローブを脱いでシャツだけになると、布団の中にもぐりこんだ。ベッドは教会の宿泊所よりはマシな程度だが、個室はありがたい。ミステルの姿を常に周りに見せるようにしておく必要もなくなる。

「お疲れですか、お兄様」

「ああ、さすがに疲れた。王都についてから、激動だったな。色々ありすぎだ」

「お兄様は、最後に王都にこられたのは、私がくる前ですもんね」

「ああ。七年ぶりだ。ああ……そういえば、ちょうどその後くらいだったな、お前が家に来たのは」

「ええ、お兄様に見つけていただきました」

 ミステルは、八歳の頃に森の街道を旅している最中、魔物に襲われて両親を失った。一人森で逃げ惑っている最中のミステルを、狩りの最中だったアローが見つけ、連れ帰ったのだ。

 師匠はミステルを王都の孤児院に預けるつもりでいたが、アローにすがっていつまでも離れないミステルを見て、ミステルも弟子にするように頼んだのだ。

 結果的に言えば、師匠はミステルを弟子にはしなかった。ただ、アローの義理の妹として育てることは許可した。ミステルはアローから間接的にクロイツァの魔術を学び、育った。ミステルはアローにとって、ただの義妹ではなく自分の弟子でもある。

「時々考える。僕がミステルを引き取りたいと言わず、素直に王都に送っていれば……君は死なずにすんだかもしれない。素敵な養父母をみつけて、普通の少女として幸せな人生を送っていたかもしれない」

「何をおっしゃるんですか、お兄様。私はあの時お兄様にこの手をとっていただけて、心から幸せを感じておりましたよ?」

「でも、あの時僕は、寂しかったんだ。王都に行くことも禁止されたばかりだったし、友達が欲しかった。もちろん、ミステルをあのまま放っておけなかったのもあるけど。僕の利己的な願望で、君の人生を歪めてしまった。間違いだったかもしれない、って」

「…………お兄様」

 ミステルが泣きそうな顔で、アローを見つめる。

「貴方は私の魂をこの世界にとどめていることも、私の手をとったことも、間違いだと感じているのでしょう。それは私のことを心から思ってくれているからこそだと、きちんとわかってはつもりです。……でも、お兄様はいつ救われるのですか?」

「救われる……いや、僕は特に救ってもらうようなことは」

「……私は! お兄様がこの手をとってくださった時に、命を、魂を貴方に捧げると決めました! 私はずっと、悲しかったんです。何も悪いことなどしていないのに、お兄様があんな森の中でひっそりと暮らさなければならなかったことが。私は貴方に救われたこの命を、貴方を救うことに使いたいのです。それは、間違いですか?」

「ミステル……」

 アローにとって、森での隠匿生活は自分への罰のようなものだった。

 だから師匠がいなくなって誰も止める者はいないのに、ミステルが亡くなるまでずっと森から出なかった。森から出ると『間違い』が起こる気がしたからだ。

 結局、森の中にいても自分は、間違いを犯してミステルを呼び戻し、王都にまで出てきて間違いの上塗りをしようとしている。そう、思っていた。

「そうだな。僕が自分の行動を間違いだと思うのなら、お前の願いまで間違いにしてしまう」

 ずっと自分を慕ってくれているミステルのことを、間違いだなどと貶めてはいけない。

 七年間、二人で歩んできたのだ。これからも、共に歩むのだ。この大切な妹と。

「ごめん、ミステル。僕が悪かった」

「いえ……私こそ、熱くなってしまって」

 ミステルはゆっくりとかぶりを振る。

「本当にごめんなさい、お兄様」

 そう告げた彼女の瞳が、何故か捨てないでとすがりついてきた幼い頃の彼女の眼差しを思い出させた。



 本当のことを言えば、七年前、ミステルが失ったのは両親ではなかった。

 正確には、その三年ほど前、ミステルが四歳の時に両親はあいついで亡くなっている。亡くなった理由は知らない。幼かったから覚えていない。恐らく流行病か何かだろう。

 ミステルを引き取ったのが、父方の叔父だったのだということだけは、覚えている。貧しい職人の家だった。

 ミステルは見目がよかったから、叔父は下働きができるまでは育てて、娼館に高く売ろうと考えていたようだ。力仕事ができない女子をいつまでも養っていても仕方がない。彼はいつもそう言っていた。叔父には息子が二人いたが、どちらも意地悪で好きではなかった覚えしかない。

 その当時はミステルも、娼館がどんな場所なのかわかっていなかった。だけど、急に小奇麗な一張羅を着せられて村を連れ出された時、自分は今よりももっと酷い場所に行くのだということだけはわかった。

 だから、逃げ出した。森の中を走って、走って。

 だけど、まだ八歳の少女が、慣れない森のけもの道をそんなに早く走れるはずもなく。すぐにつかまってしまった。

 その時だ。後ろから黒い影が現れたのは。その黒い影は赤黒い口を開き、白い牙をむき出しにして――。

 もうどうなってもいいと思った。

 叔父はいない。もう魔物の腹の中だ。ここよりも悪い所なんてどこにもないだろう。だから平気だ。怖いことも辛いことも、すぐに終わる。

 だけど、ミステルの想いとは裏腹に、何も終わりはしなかった。

 次の得物としてミステルを狙っていた魔物の頭を、突如現れた『骨』が突き刺したからだ。それは『骨』としか言いようがなかった。様々な動物の骨を繋いでできた、異形の化け物。

「うーん、動物のだったら制御が簡単なんだけどなぁ」

 のんきな様子でそう言って、次に姿を現したのは自分よりは少し年上に見える少年で。

『死を記憶せよ』

 彼のその一言で異形の骨はばらばらにほどけて、地に消えた。

「大丈夫? だいぶ街道から外れてるけど、両親は?」

 ミステルはただひたすら、首を横に振ることしかできなかった。

 手を差し伸べられても、まだ現実感が湧かなかったのだ。

 わずかな木漏れ日だけが届く森の奥で、銀色の髪の美しい少年が自分に微笑みかけている。今まで周りにいた、同年代の子供といえば意地悪な従兄たちとその仲間で、ミステルにこんな風に優しく手を差し伸べてくれることなどなかった。

 こんなに綺麗で優しい手が、自分に差し伸べられるなんて思わなかった。

「もしかして、さっき魔物に襲われてたの、君の親かな。ごめん、間に合わなくて」

「……いい。いいの」

「ここは危ないから、とりあえず、僕の家においで」

 手を引かれる。温もりが伝わる。

 その時になってやっと、自分はこの少年に救われたのだと実感した。

 ――それから、七年。

 今、ミステルは死んで身体を失い、それでもアローの役に立ちたくて、ここにいる。あの時自分を救ってくれた、唯一の手に報いるために。この、姿も心も美しい存在を守るために。

「……たとえ貴方が、私のことを間違いだと思っていたとしても」

 望んだのはミステルの方だ。

 アローはとても優しい。だから、自分よりもミステルの望みを優先してくれる。

「貴方を間違わせたのが私だというのなら、私は貴方のかわりにいくらでも罪を背負います」

 ベッドで眠るアローの横顔を見つめて、ミステルは薄く、哀しく微笑んだ。

「だけどお兄様……間違っているのは、私も同じなのです」



 窓から差し込む光が眩しい。

 森ではこんな強い日差しを浴びることがなかったので、改めて都にきたことを実感した。昨日の宿舎ではなるべく端の方を陣取っていたので、こんな風にさんさんと朝日を浴びることもなかったのだ。

「おはようございます、お兄様。階下でお食事されますか?」

「そうだなぁ。顔を洗って、食事をして、それからハインツに紹介してもらった店とやらを軽くのぞいて、教会だな」

 いきなり騎士団に行ったところで、門前払いされるだけだ。騎士団側からみたらアローは「不審者として捕まったどこぞかの魔術師」でしかない。それは昨日思い知った。たまたまヒルダが近くにいて、しかも非番だったからつきあってもらえただけだ。そう何度も彼女に時間をとらせるわけにはいかない。

「素直にハインツを頼っておくのが、現状だと一番の近道だと思う」

「あの男が信用できるとは思いませんが」

 ミステルはハインツに不信感を抱いているようだ。彼の言動は最初から一貫して裏に何かありそうなものばかりだから、疑われても仕方がないだろう。

「僕だって信用はしていないよ。信用できなくても手を組むことはできる。利害が一致している間はね」

 彼がアローの師匠について把握していることは、ミステルには言わないでおいた。ミステルは心配性だから、師匠絡みでアローが利用されていると感じたら、猛然と抗議しにいきかねない。

 アローとしては、師匠の名前で取引ができるのなら安いものだ。何せ、師匠本人は今、どこで何をしているのかも知らないのだ。師匠から得た豊富な魔術知識が必要なのかもしれないが、そもそもそれが必要になる状況だとしたら、アローは取引がなかったとしても惜しみなく使うだろう。師匠から隠しておくようにと言われたことは何もない。

『隠し事なんてしなくとも、私が開発した魔法をその辺の雑魚がマネしたら死ぬだけだ』

 ……というのが師匠の弁である。実際、アローも知識としてわかっているが使えない、使える気がしない魔術がいくつもある。

 師匠がアローに約束させたことは、一人で勝手に人里にいかないこと。それだけだ。結局、その約束も破ってしまったのだが、師匠だって突然旅に出て音信がないのだからおあいこだろう。

「とりあえず、僕らにはいずれにしても本拠となる場所が必要なんだ。ずっと宿屋に泊り続けるわけにはいかない。形だけでも店を構えておけ、というハインツの案は現実的だと思う」

「お金の方は、呪術道具をワルプルギス女史の店に卸せば用立てできますが……何か月もかかるのでしたら、居場所は必要ですね」

「すまないな、僕がモテないばかりに」

「いえ、私はお兄様のおそばにいられればじゅうぶんですから。実体を作ることについてはゆっくりと進めていきましょう。ゆっくりと」

 ミステルはニコニコとしながら宙にふわふわと浮き上がる。

「楽しそうだな」

「はい、今日は邪魔者がいませんので! ハインツに会うまでは!」

「そうか」

 義妹の力強い宣言を右から左に受け流しつつ。

(……昨日の邪魔者って誰だ? ギルベルトか?)

 少しだけズレたことを考えているアローであった。

 顔を洗い衣服を整え(さすがにあのローブは封印した)アローはミステルを伴って、ハインツの契約書にある物件まで歩いていく。

 荒ぶる暴れ牛亭からそう離れてはいなかったので、簡単な地図だけですぐにわかった。鍵がかかっているようで、まだ中には入れない。窓から覗くかぎりカウンターだけの小さな店のようだ。

「中を覗いてきます」

 ミステルが壁をすり抜けて、様子を見に行く。

 彼女はすぐに戻ってきて、奥にもう一部屋があることを教えてくれた。

「ベッドと棚くらいは置けそうですよ」

「そうか。じゃあ落ち着いたら宿は引き払って、ここに住んでしまおうかな」

 森で住んでいた小屋だって、これにもう一部屋あるくらいの大きさだった。師匠が旅に出るまでアローとミステルは同じベッドで寝起きしていたくらいだ。ベッドを二つ置く場所がなかった。

 師匠の部屋を使わせてもらうようになった時、一人寝が嫌だとミステルにさんざんゴネられたことまで思い出したが、言わないでおく。

「しかし、この狭い店で何を陳列していたんだ?」

「教会が持っているくらいだから、元は代書屋か何かだったのかもしれないですね」

「なるほど、代書屋はなら店に何かを並べる必要もない」

 教会は代書屋と教会は切っても切り離せない。なにかと文書に残さなければならないことが多いからだ。大聖堂には専門の書記官ももちろんいるだろうが、代書屋はとにかくどんな書き物仕事でもやってくれるので、機密性の低いものは代書屋に丸投げしているものも多いのだ。

「お兄様は何の店にするのですか? 一応、形だけ、ですけど」

「うーん、僕は魔術に関する以外のことはいまいちだからな。狩りならできるけど、ここは森じゃないし………………そうだ、影占い屋にしよう」

 影占い、とは俗に言う死体占いのことである。要するに、死人の霊を呼んで知りたい事を語らせることだ。昨日、ヒルダに説明した「失敗するともれなく生ける屍が完成する」あの術である。

 ミステルは真顔になっていた。

「……普通に占い屋にすればよいのでは?」

「僕に普通の占いの精度を期待するな。そういうのはカタリナに任せる」

「実質がどうであろうと体面が整わないと流行らないかと思いますよ。あと、思い切り素性が怪しいままですが」

「ダメか……死霊占いへの偏見は本当に深刻だな……」

 ひとまず、ミステルと相談の上結局、魔法道具屋ということで手を打った。副業で影占いも承ります。

「この平和な王都の皆様に必要な魔法道具なんて、護符程度のものですよ。あの小さな店で問題ありません」

「……その平和な王都の呪殺事件を追っているんだけどな、僕らは」

 アローは苦笑いを浮かべながらも、いずれ新居となる予定の店を後にした。

「さぁ、ハインツに会いに行こう。影占い師の初仕事だ」

「……思いっきり副業が本業ですね」

「そこはカタリナを見習おうじゃないか」

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