ショートショート小説集
こむち
電車の行き先
ゆっくりと動き出す姿は、まるで俺を挑発しているかのようだった。毎朝のように乗っているからといって、いちいち俺を待ってくれるはずもなく、もつれる足で電車を見送った。
くそっ。昨日は飲み過ぎた。頭痛がひどい。頭の中で風船が膨らんでいるみたいだ。
乾いた秋風が砂ぼこりを運んだ。体内のアルコールもどこかに飛んでくれればいいのに、と思った。
電光掲示板で次の電車を確認する。
次は十三分後か。
ここから職場の最寄り駅までは、電車に乗っているだけで約三十分。そこからまた会社までダッシュすればぎりぎり間に合うだろうか。まあ、少しだけ遅れても誰にも文句は言われないんじゃないかな。
ひとまずベンチに落ち着き、昨日を反省する。
ユウヤのせいだ。あいつが「久しぶりに飲もうぜ」なんて刺激的な誘惑をするからこんなことになったんだ。
ユウヤからの連絡は二年ぶりだった。中学からずっと一緒だった親友は大学の卒業と同時に上京し、それ以来、すっかり疎遠になっていた。自分で会社を興したというのだからきっと忙しいのだろうと、特にこちらから連絡することもなかった。
対して俺はというと、特にやりたいこともなかったから、出任せの熱意を語り、地元のよくわからない不動産会社に入社した。俺にとってはそれが人生のゴールだった。毎日のように続く残業も、心を無にしてやり過ごし、目標といえば給料をもらうことだけ。偉くなりたい、だなんてこれっぽっちも思ってない。
そんな日常に飛び込んできた「久しぶりに飲もうぜ」の一言に、俺は懐かしい興奮を覚えた。「母親の体調が悪くて」と嘘をつき、上司に仕事を押し付け、夕方5時には親友と二年ぶりの再開を祝していたのである。
ユウヤの二年間はとても充実していたらしかった。軌道に乗り始めた会社には社員も増え、秘書もいるらしい。そして「夜の街」の素晴らしさも教えてくれた。その話はとても魅力的で、聞いているうちに俺まで同じ生活をしているのだと錯覚してしまった。そんな気分で飲む酒は、麻薬のごとく身体中に染み渡り、気が何倍にも大きくなったまま、朝方まで飲み歩いていた。
だが、その代償は大きい。頭の中の風船はどんどん膨らんでいくし、なにより、これからまた今までの日常が続くという現実が絶望的だった。
いっそ死んでみようかな。どうせ俺なんて生きてても死んでても、世界はなにも変わらないだろ。
本気ではなかったが、なんとなくそう思ってしまった。
ベンチに座り二日酔いと闘っていると、スーツ姿の男性が目の前を通り過ぎた。血色の良くない顔には、疲労がありありと浮かんでいる。
あぁ、今の俺もあんな顔してるのかな。
思わず自分の顔に手が伸びる。
次いで、制服姿の女の子が肩を落として通りすぎていった。俯いた顔にショートボブの黒髪が重なり、その表情はよく見えなかった。
俺もそろそろ並んでおこうかな。
立ち上がり、まだ誰も並んでいない二両目の待機場所で電車を待つ。
「まもなく、電車が参ります。ご注意ください」
ほどなくして、鼻にかかった男性の声でアナウンスが流れた。
速度を落とし、定位置ぴったりに電車が止まる。プシュー、と勢いのある空気音とともに、ドアが開いた。
お、ラッキー!
座席こそ空いてはいなかったが、つり革に掴まることができた。二日酔いにはつり革があるだけでも十分にありがたい。普段なら、汚いおっさんの肩しか掴むところがないくらいに混雑しているのだ。
空気音とともにドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出した。
ポケットからスマホを取り出し、SNSで他人の日常を覗く。『二日酔い辛すぎ』と投稿しようとしたとき、誰かのすすり泣く声が聞こえた。
視線を移すと、目の前に座る女性が、膝の上で両手を力強く握りしめ、何かに耐えるような表情で頬を濡らしていた。
潤いのない髪に、ねずみ色の顔。痩せていることがボロボロの服の上からでも窺える。そんな女性が電車の中で泣いているのだ。どうみても普通じゃない。
声をかけるべきか迷っていると、アナウンスが流れた。
「ご乗車いただき、誠にありがとうございます。この電車は、特急、地獄行きです。自殺志願者以外の方はご利用いただけませんので、ご注意ください」
地獄? 自殺? なにかのキャンペーンだろうか。いや、違うのか。目の前では女性が泣いているし、その隣に座る髪の少ない男性は、魂が抜けたようにどこか遠くを見つめている。電車を一本乗り過ごしただけなのに、酒のせいもあってか、いつもと違う状況に思考の整理が追い付かない。
後ろを見ると、どちらも五十代に見える男と女がお互いの手を握り、真剣な顔でなにやら囁いているのが聞こえた。
「あの子には悪いことをしてしまったわ」
「あぁ。でもあいつなら、わしの借金をなんとかしてくれるはずだ……。わしらはもう生きてても仕方ないんだ」
やはり、ただ事ではないのかもしれない。そう思った時だった。
どこかから、ガコンッ、と大きな音がして、電車が不自然に速くなった。見慣れた景色がものすごい速さで流れていく。今まで経験したことのない、明らかに普通ではない速度だ。
「ちょ、ちょっと!」
背中に嫌な汗を感じた。頭がうまく回らない。
急いで隣の先頭車両に走る。この車両にも絶望感が漂っていて、目に映る全員が、何か大切なものを放棄しているように見えた。
「ちょっと、すみません! これどこに向かってるんですか」
運転席へ続くドアを叩き問いかけるが、明らかに聞こえているはずなのに、ガラス窓から見える運転手はなんの反応も見せない。
こうしているうちにも、電車はみるみる速度を上げていく。
後ろを振り返ると、乗客達が哀れみに満ちた目で俺を見ていた。
もう一度、今度はドアが壊れてもいい覚悟で叩き、必死に訴える。
「おい、降ろしてくれ! なにかの間違いだ! 俺は死にたくなんかない!」
ドアノブをガチャガチャといじるが、押しても引いても開かない。
電車の進む先を見ると、線路上に黒いなにかがあった。トンネルの入口かと思ったが、違う。黒いカーテンのように揺らめくなにかが、そこにある。
「止めてくれ! 聞こえてるんだろ!」
何度も何度もドアを叩く。電車は限界まで速度を上げ、車体は小刻みに振動し、甲高いモーター音が耳を貫く。
その時、運転手が、いや、運転手の顔だけが動いた。焦らすように時間をかけてゆっくりと振り向く。
ーーえ。
全身に鳥肌が立ち、恐怖で体が動かなかった。
運転手の顔は青白く、眼球があるはずの場所は洞窟のように暗い。笑っているのか口元が不気味に歪み、黄色い歯が覗いた。
「な……あ……」
うまく声が出ない。
線路上にある黒いなにかは、すぐ目の前にあった。
ぶつかる。
すべてを覚悟して、目を閉じた。
ーー目を開けると、無数の人の背中と、それに隠れるように動きを止める電車が見えた。
俺は、プラットホームの壁際の古いベンチに座っていた。辺りを見回して状況を理解しようとする。
電車を待つ間に眠ってしまったのだろうか。ということは、あれは夢か? 俺がここにいるということは、きっとそうなのだろう。汗でベタつく体にスーツが纏わりついて気持ち悪いし、頭の中では相変わらず風船が膨張しているみたいだ。
とりあえず電車に乗らなければ。
傍らの鞄を掴んで立ち上がり、次々と電車に乗り込む人の背中に続く。
つり革に掴まると思わず深いため息が出た。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
それにしても変な夢だった。もうしばらく酒はいいかな。
電車は速度を上げ、今までに何度も見てきた景色が窓を流れる。きっとこれからも死ぬまで見続けるんだろうなと、つり革を片手に思った。
酒のせいで、なんとなく車内の空気が重たく感じられた。
「ご乗車いただき、誠にありがとうございます。この電車は」
〈了〉
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