誤用あらため

ラゴス

誤用あらため

 行き交う人の雑踏の中、課長がでかい声をあげた。

「もう一件行くぞもう一件」

 その顔は酒で上気し、足取りは怪しくなってきている。肩を貸しているから直に感じるが、そろそろ潮時だろうと思えた。

「いや充分呑んだでしょう。ほら、奥さんまた怒りますよ」

「んなもん、いいんだよ。ほっとけばさあ」

 鼻でため息をつく。周りの同僚も苦笑いしている。普段の大橋課長は穏やかな人なのだが、酒が入ると気が大きくなってしまうのが玉にきずだ。

「まったく森山よお、なんであいつなんだ」

 森山というのは隣の部署の課長で、大橋課長とは同期にあたる。森山さんが次の案件の舵取りを任されたのが、大橋課長としては不満らしいのだ。

 この話も何回したのか。一軒目からずっと管を巻いてるから、僕もうんざりしている。

 ところが課長の次の一言だ。

「あいつじゃ役不足だってんだよ」

 僕があっ、と思った瞬間、遠くで三味線らしき音色が聞こえた。その音がどんどん近づいてくるにつれ、曲も調子を上げていく。まるで出囃子のようだ。

 人波かき分け現れたのは、法被はっぴを着た数人の男たちだった。三味線を持った者もいる。

 赤提灯の付いた棒を携えた先頭の男が、課長を指差した。

「誤用警察だ!」

 後ろの男たちも続く。

「誤用だ誤用だ!」

 よく見れば提灯にも「誤用」と書いてある。彼らはあっという間に課長を取り囲むと、そのまま担ぎ上げた。

「ひっ、やめてくれ。おい、どこに行こうというんだ。早く降ろぶぇっ」

 酔いが覚めたらしい課長が懸命に抵抗するものの、口に布を詰められ問答無用で連れ去られていく。周りの人たちは誰も助けようとせず、手を叩いて笑う者や、携帯のカメラを向ける者ばかりだ。

 追いすがろうとしたが、野次馬たちの勢いはすさまじく、僕はあっという間に地面を転がることとなった。

「えいやっさーあ、よいやっさー」

 掛け声と共に、ちゃんかちゃんかと楽しげな三味線の音は遠ざかっていった。


 翌日出社すると、やはり課長はいなかった。社内のあちこちから、ひそひそ話が聞こえてくる。

「あの人、誤用したんですって」

「やだ本当に? そんな人には見えなかった」

 だとか、

「バレないとでも思ってたのか」

「だとしたらマジで頭悪い」

 さらには、

「もうこれ復帰無理だろ」

「ああ、終わったな」

「まだ家のローン二十年あるんだってさ」

「うわーそれもう詰んでるじゃん。なんでもっと慎重にやらないかねえ」

 等々。あれやこれやと皆が好き勝手に言っている。挙句、当の間違いとは関係ない私生活にまで言及される始末だ。課長は本当にそこまでのことをしたのだろうか。

 いつの頃からか、誤用警察は現れた。

 それまではちょっとした笑い話か失敗談で済んでいたことが、吊るし上げられ袋叩きにされるようになった。当事者ではない人たちが群がり、一種の祭りでもあるかのように囃し立て、マウントをとる。枠の外から言葉だけを浴びせ続けるのだ。

 新人の頃から、課長はよく僕のことを気にかけてくれた。前の会社は年功序列が厳しく、上司がいばり散らしていたので、こちらの目線まで降りて話をしてくれる大橋課長のことを、僕は尊敬していた。いや、今でもそうだ。

 しばらくして、課長の席がなくなった。けれど関心がなくなったのか、その頃には誰も何も言わなくなっていた。

 一体あの誤用警察とは何者なんだ。

 僕は街に出て張り込みをすることにした。動きやすいように運動靴を履き、人通りの多い広場を見渡せる雑居ビルの二階で、事が起きるのを待った。

 やがて出囃子が聞こえた。案の定人が動いていったので、その方向に僕も行く。

「誤用だ誤用だ!」

 担ぎ上げられているのは若い女性だった。必死に叫んでいるが、誰も聞く耳を持たない。むしろ周囲の人はその抵抗の様を楽しんですらいるようだ。

 誤用警察が動きだした。真後ろから行くとまた巻き込まれるので、並走するようにして、僕は彼らの後を追った。

 学生の頃、長距離走をやっていたおかげか、取りついた群衆が脱落していった後も、なんとか振り切られずに済んだ。夜の闇に揺れる赤提灯の光を頼りに、僕は追い続けた。

 誤用警察が入っていったのは、郊外の工場跡地のような場所だった。少し前から三味線の音は鳴っておらず、辺りはしんとしている。こんなところで何をするつもりだ。

 やがて彼らが大きな四角い物の前で止まったので、僕も倉庫の角に身を隠して様子を窺う。女の人は身をよじって抵抗している。

 提灯の光でその四角い物の正体がわかった。公園に置いてあるような巨大なゴミ箱だ。

 僕は我が目を疑った。

 先頭の男が蓋を開けると、男たちは彼女を放り込んでしまったのだ。

「おい、何やってるんだっ」

 気づいた時には飛び出していた。誤用警察に割って入って箱に駆け寄る。ところが僕は愕然とした。箱の中には、まったく底が見えない暗闇が続いていた。

「お前ら、なんてことしたんだ」

 振り向いて叫んだが、男たちは互いに顔を見合わせ、肩をすくめた。

「そんなこと……なあ」

「なあ。おれたちに言われても」

 信じられない。まるで他人事だ。

「どうしてこんなことをした。それから、この箱の奥はどこに通じてるんだ」

「それもおれたちに言われても知らないよ。でもまあ、死んではいないんじゃないかな」

 まったく理解できない。自分でやっておいて、なんでそんなに無責任でいられるのか。ここまでは流れで、穴に落とした後は関係ないとでも言うのか。

 彼らのうちの一人が訊いてきた。

「あんた、さっきの人の知り合い?」

「……そういうわけじゃないが」

「じゃあいいじゃん」

 何もよくない。けれど、こいつらには何を言っても無駄なようだ。

 肩を落とし、僕がとぼとぼ歩きだすと、後ろで声がした。

「なんだあいつ、いきなり来て何様だよ」

「たまにいるんだよな、ああいう勘違いしたやつ」


 すっかりくたびれて広場に戻ってきた。女性は助けられなかったし、誤用警察の正体もわからない。というか、彼らにはっきりとした意志なんてあるのだろうか。ただ条件に反応してやっているような気さえする。

 ベンチに腰掛け、人混みを眺めた。

 こいつらも同じなのかもしれない。ただ目の前に叩ける奴がいるから叩く。そこには意志なんてない。

 飽きもせず懲りもせず、新しい対象が現れる度に移っていく。きっと一過性の連続なんだろう。いつも、何もかもが通り過ぎていくだけだ。

 彼らに誤用警察と違うところがあるとすれば、悪気なくやっているようで、内心は悪いことだと知っていること。そう思うと無性に腹が立った。

「確信犯め……」

 僕が独りごちた瞬間、出囃子が鳴った。男たちがまっすぐこちらに向かってくる。

「誤用だ誤用だ!」

 目の前に、赤い光が差し向けられた。

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