人間らしく

イシカワ

人間らしく

朝起きるたび胸が苦しくて痛い。深々と噛まれた右腕は絵の具で塗ったようにドス黒く、包帯をグルグル巻きにしても腐敗の進み具合がよく分かる。

後悔しかない。

なぜ武器も持たずに夜中のコンビニへ出掛けてしまったのか。屍食鬼は見つけ次第警察か軍が処分することになっているし、近所で目撃情報はないからと安心したのがいけなかった。


朝飯を食べる前にパソコンを立ち上げる。

ネットニュースやSNSでは感染者、死亡者、治癒者、蘇生者の数が更新され続けていた。

自分の住む地域がこれほど世間の関心を浴びた例はない。

公共交通機関は全面ストップし、隣接地へ通じる道路も完全閉鎖。都市は一部の流通網を除いて事実上孤立し、病院には感染者の群れが大挙して押し寄せている。

人々は自宅に留まり、外出は政府指定の小売店のみ。


ウイルスの感染経路は飛沫及び蘇った屍食鬼の噛みつき。

特効薬やワクチンはない。


免疫機能が強靭な者や遺伝子的にウイルスに耐性を持つ者は感染後も治癒の可能性があるようだが、自分はそのどちらでもないらしい。


だから死を待つ以外にないのだ。


日ごとに頭痛、吐き気、関節の痛みが激しくなってくる。このウイルスの特徴は感染から死亡までの期間が約1~2か月と長期に及ぶことだ。


感染することは死刑宣告を受けることと同じ。

感染者は死刑執行までのあいだ不安と体の不調に苦しみながら、老後に使うはずだった余生を突然目の前へ突きつけられる。


感染者は死亡後、一定の確率で蘇生し新鮮な人肉を求め彷徨う。

生き残った人々に迷惑をかけまいとしアパートの屋上から飛び降りたり、自分の喉元を包丁で切り裂く感染者もいるらしいが、自分にそんな勇気はなかった。


かといって死を待つ以外何もすることがない。


朝起きたら自分がまだ生きていることを確認する。

底知れぬ不安を抱えながらパソコンの画面で感染者とウイルスの情報を眺める。数か月前に熱中していたゲーム制作もまるでやる気が起きなかった。その代わりにドラッグストアを徘徊する屍食鬼や買い物中に突然倒れる主婦の動画を何度も見て、その度に不安と恐怖が募る。

そして日が暮れたらまた床に就くのだ。


毎日毎日、ただ時間が流れるのを待っているだけ。


何かすることがある。

死ぬまでに何かできることがある。


そう考え頭の中で答えを見つけようとする度、不安と恐怖に思考を横取りされ、何も考えることができなくなる。

ベッドの中で天井を見上げ、一日中起き上がれない日もあった。


一日を生きているのが、明日が来るのがとてつもなく辛い。


朝食用の栄養バーを齧り終わったとき、携帯に着信があった。


「こんにちは。お久しぶりです先輩」

前の会社で同じプロジェクトに配属されていた後輩。

明るく素直で気配りが上手い。

好奇心も目的も失い、勤続年数が長いというプライドだけで偉そうに指示を出す親父社員ばかりいた会社にはもったいなさ過ぎる人材だった。

映画好きという共通点のお陰で昼休みによく話もした。

変なちょっかいを出す前に彼氏がいるかどうかを確認しておいて心底良かったと思っている。

最後に連絡を取ったのは彼女の結婚報告のとき。

相手は4歳年上の銀行マン。今も幸せな生活を送っているのだろうか。

「私感染したんです。最後になるだろうと思ってご連絡しました」

先週看取った最愛の夫の傍を離れることができず、立ち上がった彼に左手を噛まれたらしい。


慰めや慈悲の言葉をかけるべきだろうか。

頭の中でシミュレーションするが、どんな言葉も薄っぺらい虚言にしか聞こえない。


「怖くないか?情けないが、俺は毎日怖くて仕方がない。朝起きるのも、夜寝るのも、息をするのさえ。いつ死ぬか分からない恐怖に怯え続けるのは怖い」

「先輩もですか・・・XX市にいる同僚も8割くらい感染してます。もうそういう運命なんですかね」

「怖いのは私も同じです。それに寂しい。あの時腕だけじゃなく、全身噛まれていた方がよっぽど楽だったと思うときもあります」

「でも私今小説書いているんです」

「小説?」

「ええ、先輩には恥ずかしくて黙ってましたけど、会社にいるときからずっと書いていたんです。ベタな恋愛ものですけど。何としてでも死ぬまでに完成させたいんです」

「自分が生きた証を残したくて。あまり意味はないかもしれない。誰も読んでくれないかもしれない」

「でも、最後まで人間らしく生きたいんです。不安とか迷いに主導権を渡して、毎日怯えながら死んでいくのは嫌なんです」

通話を終えた後も、彼女の言葉が何度も脳内を駆け巡る。


人間らしく生きたい。


俺は今まで生きていたか。


第1志望の業界でないことを理由に仕事は適当にこなし、家に帰っても動画視聴を意味なく続けるだけで何もしていなかった。


屍食鬼と変わらない。

目的もなく、肉を貪り彷徨い続ける。

今の俺と何が違うというのか。


もう一度屍食鬼へ戻る前に、俺にはやるべきことがある。


Cドライブの奥底に眠っていたフォルダを開き、ゲーム制作画面を表示する。

シナリオ、プログラミング、グラフィック、サウンド。あまりの手間で中盤まで進めて投げ出したままだ。


「何としてでも死ぬまでに完成させたいんです」


彼女の言葉をもう一度頭に呼び起こし、作業を開始した。


1週間後、大手小説投稿サイトに彼女の本名で恋愛小説が掲載されていた。

若い男女が出会い、結婚し、共に死んでいく話。


下手な新人作家の小説よりよほど読み応えがあった。


彼女に感想を伝えたくて電話を鳴らしたが、返事が来ることは一度もなかった。


左手だけでマウスを動かし、最後のセリフを書き込む。

農村生まれの少年が村を滅ぼした魔王との戦闘を前に言い放つ。


「どうして私の部下にならない。苦しむことなく、何もせず一生遊んで暮らせるのだぞ。それのどこが不満なのだ。」


「そんなこと決まっている」


「なに!?」


「人間らしく生きるためだ」

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人間らしく イシカワ @kubinecoze94

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