第8章 終焉 その1

 鮮やかに赤く燃える夕暮れの空と、その光に色付く最後の柱。

 その傍らには太陽の茜色を照り返す銀髪のエルティスが宙に浮いて立っている。

 彼女はこちらを真っ直ぐ見下ろしていた。涙を流したまま、エルティスはひどく嬉しそうに言う。

「<器>を連れてきてくれたのね」

 一瞬自分に向かって言われているのかと思ったが、デュエールはそうでないことに気がついた。

 エルティスのその視線はミルフィネル姫に注がれている。彼女はミルフィネル姫に礼を言ったのだ。


 神殿を囲みエルティスの様子を伺っていた神官たちも、その言葉でデュエールとミルフィネル姫の存在に気付いたらしい。エルティスの視線を追い、神官たちの目がこちらに集中した。

「<結界>を壊すには、<器>の力が必要だったのよ」

 ミルフィネル姫は何を思っただろう。そのとき、デュエールには前にいる彼女の表情は見えなかった。だが、動揺していることは確かだ。

 デュエールにはエルティスの言葉の正確な意味はわからなかったのだが。<結界>とは何のことだろう。

 エルティスが――<アレクルーサ>がルシータを滅ぼすには<器>の力が不可欠だという。どうやらそれはある程度物理的な距離の近さが必要になるらしい。

 デュエールをエルティスに近付けない。昨日の夜から神官たちが散々行おうとしていた対処方法は確かに有効だったのだ。

 おそらくは巫女姫も同じことを考えていたはずだ。ミルフィネル姫が<アレクルーサ>と<器>の繋がりを逆手にとってエルティスを抑え込もうとしていただけで。

「ミルフィネル様が……」

「後ろに<器>を連れているのは何故だ!?」

 突き刺さるような視線の向こうから、鋭い声が聞こえてくる。ミルフィネル姫が彼らが必死でエルティスから遠ざけようとした本人を連れていることは、少なからず神官たちにも動揺を与えているらしかった。



 陽光の緩んだ夕暮れの風は、涼しげだ。水を被り一度冷えた身体には少し冷たい。

 エルティスがミルフィネル姫から視線を動かし、デュエールを見た。涙で潤んだ銀色の瞳がこちらを見つめる。

 デュエールも自分を見ていることが分かると、エルティスはにっこり微笑んだ。神官たちやミルフィネル姫に向けたのとは明らかに違う、優しい笑顔。デュエールがよく知っている表情だった。

「……?」

 同時に、デュエールは何かが身体に入り込んでくるような奇妙な感覚を味わった。デュエールを押しのけて入り込んでくる異質なものではなく、空っぽの入れ物に水が流れ込むようにごく自然にデュエールの中にある隙間に流れ込んでくるのだ。

 戸惑ったのは、ほんの一瞬だった。

 ひどく奇妙で表現しがたい感覚ではあったが、体の中に流れ込んでくるものがエルティスが呼び出している膨大な魔力の一部であることをデュエールは理解した。


 かつて神々から<柱の結界>を与えられたばかりの時代に世界中の人々がそうであったように、彼にも魔力を受け入れるだけの余裕があり、そこに魔力の源となるものが満たされているのだった。

 限界まで魔力が流れ込み、そしてエルティス自身にも魔力が集まったとき、それらは同時に解放され、強力な魔法を発動させるのだろう。おそらく柱を破壊するためのものであるはずだ。

 ――あなたなら<アレクルーサ>を止められる。

 さっきまではわからなかったミルフィネル姫の言葉の意味も、今なら分かる。

 デュエールの中に満たされている力は、エルティスに呼び出され解放されるまでは彼の支配下にある。もちろんデュエール自身はその力を魔法として使うことはできないが、自分の意思でエルティスへ流れていく魔力を調整できるのだ。うまく抑え込めば、すべてをデュエールが抱えたままでいることも可能になる。


 デュエールへ満たされる力の流れが止まり、いよいよエルティスに向かって流れようとしたとき、デュエールは川の流れをせき止めるように抑え込んだ。

 誰に教えられたわけでもない。この状況を目の前にして、デュエールはごく当たり前に行うことができたのだ。どうすればエルティスの力を止められるか。

 生まれたときから、知っていた。



 誰も動かない。エルティスも、デュエールも、神官たちの誰一人として。

 そして、何も起こらなかった。

「デュエール、大丈夫? どうしたのですか?」

 振り返ったミルフィネル姫が沈黙を破りデュエールに話しかけてくる。だが、デュエールは答えることができなかった。

 抑え込んだ力は今にも抑えを破りあふれ出そうで、デュエールはそのために集中していなければならなかったのだ。声を出すどころか身動きもできなかった。

 今デュエールがしていることは、<器>である彼の本来の役割から逸脱していることだから。ルシータを滅ぼす<アレクルーサ>の使命のために、<器>は補佐をしなければならないのだ。流れ出そうとする魔力を抑えつけることは、その対極にある行為だった。

 こちらへ近づいてきたミルフィネル姫が服の裾で額を拭ってくれたことで、デュエールは自分が汗をかいていたことに気がついた。それだけ力を入れなければ、止めていられないということだ。

「デュエール? どうしたの、何をしているの?」

 困ったように尋ねてくるミルフィネル姫に瞳だけ見つめ返していると、ふと外に出ようとする魔力の流れの勢いが緩んだ。



 誰かに見つめられている気がして、デュエールは気配を追い空を見上げる。こちらを見ていたのはエルティスだった。

 デュエールははっと息を呑み、一瞬抑える力を緩めそうになった。

 エルティスの顔から笑顔は失われ、何の表情も浮かんでいない。先ほどの微笑みが嘘のようだ。そこからはどんな感情も読み取れず、こちらを見下ろす瞳だけが硝子のように空虚に煌めいている。いつのまにか涙も乾いていたようだ。

 何か間違ったことをしたのかもしれないと、デュエールは眉をしかめた。取り返しのつかないことをしたような気がして、デュエールはエルティスを見上げる。しかし、エルティスからは何の応答もなかった。



「デュエール?」

 自分を呼ぶ声に、デュエールは視線を下ろす。心配そうな顔で、ミルフィネル姫がこちらを覗いていた。

「突然、どうしたというの?」

「……エルティスが、柱を壊そうとしています……。俺の中にある魔力を、使わせないようにするだけで精一杯なんです……」

 途切れ途切れのデュエールの言葉に、ミルフィネル姫は目を見開き驚いた様子を見せる。一瞬背後のエルティスを見上げた後、申し訳なさそうな声で彼女は詫びた。

「ごめんなさい、貴方はもう戦っていたのね……」

 自分の服が汚れてしまうのもかまわずに、ミルフィネル姫はデュエールの顔を流れる汗をぬぐってくれる。

 そのミルフィネル姫の顔に、影がさした。

「な……!」

 デュエールが影の持ち主に気付いたときには、遅かった。横から近付いてきた神官が棍棒のようなものを振り上げ彼に襲い掛かってくる。他のときならともかく、今の彼では避けることすら危うい。

 足元がふらつくデュエールに気がついたのか、ミルフィネル姫がかばうように神官とデュエールの間に割り込んできた。

 神官の動きが止まる。さすがに次代の巫女姫と呼ばれるミルフィネル姫に武器を振るうのは躊躇したらしい。だが、手に握る棒の先端がかすかに揺れている。怒りのぶつけ先を失い、葛藤しているに違いない。

 デュエールを背後にかばいながら、ミルフィネル姫は二人を囲む神官たちに訴えかける。

「デュエールは<アレクルーサ>の力を止めてくれているのよ! 私たちのために戦ってくれる彼を傷付けるの!?」

 ミルフィネル姫の言葉にデュエールは心の中で苦笑した。


 エルティスの力を抑え込むのは、別に神官たちを救うためではなかったから。結果としてルシータを守ることになるのだとしても、デュエールの目的は違うところにある。

 次代巫女姫の言葉に、いくらか包囲の輪が退いた。

 たとえ傷付けなくとも、デュエールがエルティスの魔力を抑えることから意識をわずかでも逸らせば、その瞬間に全てが発動するだろう。しかし、デュエールがわざわざエルティスの魔力を抑え込まなくても、<アレクルーサ>を無力化する方法はあるのだ。

 神官たちの誰かが耐え切れずにその方法を選ぶ前に、エルティスを止めなければならなかった。


「ミルフィネル姫様」

 神官の輪の中から、壮年かと思われる男性の静かな声がして、デュエールはエルティスの方へ向けかけた視線を元に戻した。

 デュエールたちと神官たちの間にできた空間に一人の神官が進み出てくる。その手には何も持っておらず、丸腰だ。彼本人に何かをされることはないだろう。

「クーデン様……」

 ミルフィネル姫はルシータの神官を統率する神官長の名を呼んだ。厳かな雰囲気をまとう神官長はその長衣を揺らしながら二人の前で立ち止まる。

「私とデュエールは婚約いたしました。デュエールは私の一族になる者です。その者を傷付けるのですか」

 やや怒りを帯びた声音でミルフィネル姫が問いかけた。その質問に、クーデンと呼ばれた神官長は首を振る。

「いいえ、そのようなことはございません。この度のご婚約、我が都市の繁栄のために誠に喜ばしいことです。……ですが、繁栄を脅かす<アレクルーサ>がここにいることも事実なのです」

 言葉を切り、クーデンは静かにデュエールを見た。目が合った瞬間に、予感のように背筋に寒気が走る。

 デュエールが振り返るのと、背後に殺気が閃き空気が動くのは同時だった。

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