3-5 私たちの住まい

 車が停まる。運転席のドアが開くのに続いて、私とカナも後部座席のドアを開けた。荷物を持って外へ出る。

 エンジン音がしなくなったおかげで、辺りは静まり返っていた。周囲にはここと同じようなアパート、或いはもう少し背の高いマンションが見えたが、思ったよりも少ない。その分見晴らしが良く、そこそこ遠くにあるはずの『特区』の外壁が、暗闇の中でぼんやりとその輪郭を浮かび上がらせていた。

「さあ、ここが僕の『すいせん』だ」

 目の前のアパートを見上げながら、心なしか得意そうに胸を逸らして大河内さんが言う。私たちは並んで彼の傍まで歩み寄った。

 大河内さんはズボンのポケットから出した手に鍵を握っていた。二本の鍵がリングで繋がっているが、一目見た限り同じもののように見える。彼はその手を私の方へ差し出した。

「そして、これが君たちの部屋の鍵だよ。場所はすぐそこ、一階の端。駐車スペースのすぐ隣なのは申し訳ないけど、朝早く動かしたりはしないようにするから」

「そんな、お気遣いなく」

「言ったじゃないか。君たち住人の生活がより善いものになるよう心掛けるのが、管理人である僕の仕事さ。気遣いがなきゃ、管理人をやってる意味が無いよ」

 遠慮するカナに、しかし大河内さんは気さくに笑って言った。思わず「なるほど」と唸ってしまう理屈である。

「さて、中も確認してもらっていいかな。一応僕も事前にチェックはしてるけど、不備があるといけないから」

「はい、分かりました」

 促されて、私はカナと顔を見交わした。頷き合い、足並みを揃えて示された部屋の前へ。ごくりと唾を飲み、私は手にした鍵をドアノブに――

 がちゃり、と音を立てて隣の部屋のドアが開いたのはそのときだった。不意を突かれて、弾かれたようにそちらを見る。部屋の中から出てきたのは、一人の男性だった。

「あれ、傑さん? チッス」

 覇気のない声で大河内さんに挨拶したのは、見た感じ二十代前半か半ばといった雰囲気の青年だ。寝ぐせの残った髪と寝ぼけ眼はいかにも無気力に映る。背丈も大河内さんと同じくらいなのかと思いきや、かなり猫背だった。

 彼の姿に軽く苦笑した大河内さんは、ちらりと私たちの方に目をやって、

「そういう君は寝起きかい、根岸ねぎしくん?」

「ッス。もうちょいしたらバイトなんで」

 平坦な声で喋っていた青年が、その途中で私たちに気づいたようだ。彼は驚いたように丸く見開いた目を一度、二度と瞬いた後、急にぽんと手を打った。

「ああ、隣に越してくる子たちって、今日の予定でしたっけ」

「丁度今着いたところだよ」

 彼の台詞にそう応じた大河内さんは、もう一度私たちの方へ視線を走らせ、青年との間を空けるように一歩身を引いた。同時にカナが私の真横に並ぶ。二人同時に小さく頭を下げ、私が先に口を開いた。

「初めまして。今日からお世話になります、上杉紗良といいます」

「サラと同じ部屋で暮らす、小鳥遊香奈江です。よろしくお願いします」

「ああ、ご丁寧にどうも。根岸ねぎし晴臣はるおみッス。よろしく頼んます」

 恐縮したように何度も頭を下げる根岸さん。彼は顔を上げると、ちらりと腕時計を確認した。ついさっき、「バイトが」と言っていたのを思い出す。

「すいません、呼び止めてしまって。バイトの時間、もうすぐですか?」

 私が尋ねると、根岸さんは首を振り、

「や、そうでもないッスよ。近いし」

 そう軽い口調で嘯いたかと思うと、肩を竦める仕草をして、

「ただまぁ、そんなに自己紹介するようなことも無いし――それに二人とも、大分疲れた顔してるッスから、早く部屋に案内して、休ませてあげた方がいいんじゃないッスか?」

 と、途中からは大河内さんの方を見て告げた。

 指摘されて、私とカナは思わず顔を見合わせた。自分たちでは気づかなかったが、初対面の人間にも容易に見て取れるほど疲労の色が濃く出ていただろうか。それか、境遇を察してそう言っただけかもしれないが。

「それは確かに。気が利かなくてごめんね、二人とも」

 途端、心底申し訳なさそうに大河内さんが身を縮めた。そこまで気遣われては逆にこっちが申し訳なくなってしまうところだったが、私が何か言おうとするより先に、気を惹くように足を踏み鳴らして根岸さんが言う。

「あ、そうだ。オレはこれから朝までバイトで帰って来ないし、二人の上の部屋は、余所に住んでる人が物置きにしてるだけだから、人住んでないんスよ。なんで、多少うるさくしても大丈夫ッスよ」

「……?」

 今一つ意図が分からない助言に、眉根を寄せて首を傾げる。根岸さんがそれに気づかなかったはずもないと思うのだが、彼は手を振り足早にその場を去ってしまった。

 腑に落ちない。そしてそんな状態の私に構わず、大河内さんが促してくる。

「さ、気を取り直して、部屋を確認してごらん」

 そう言われれば、従わない理由もない。疑問を頭の隅に追いやって、私は手にしたままだった鍵を、今度こそ鍵穴に差し込んだ。小気味のいい音を立ててロックが外れ、ノブを回すと軋む音一つなくドアが開いた。

 当然中は真っ暗だったが、大河内さんが後ろから手を伸ばして壁のスイッチに触れた。玄関とその奥のキッチン部分の照明が点く。照らされた壁やフローリングの床は、想像していたよりも綺麗だった。

「そっち側が洗面所とトイレ、風呂場になってる。先に見てみて」

 キッチン台の向かい側を指さしながら、大河内さんが私たちに先行して言った。遅れて入ってきたカナが私と並ぶ。言われた通り洗面所の先を覗いてから、私たちは大河内さんに続いてリビングの方へと足を向けた。

 私たちが追いつくや、大河内さんは場所を示すようにリビングの照明のスイッチを操作し、明かりを点けた。蛍光灯に照らされたリビングには、ほとんど家具らしい家具はない。ただ、窓にはシンプルな白いカーテンが引かれていた。

 そしてもう一つ、いや正確には二つ。部屋の隅に、畳んだ布団が並べて置いてあった。

「流石に、外からこっちへ来るときに布団は持ってないだろうと思ってね」

 驚きの目で自分を見る私たちが面白かったのだろうか、笑いを堪えているようにも見える表情で彼は言った。

「ひとまず、落ち着くまでは使ってくれていいよ。あまり汚さないでくれると嬉しいけどね」

「ありがとうございます。助かります~」

 心底安堵したようにカナが言う。私も同じ気分だ。深々と頭を下げる私たちを見る大河内さんは、面映ゆそうに顎を掻いた。

 ぐるりと視線を巡らせて部屋の様子を改めて確認した大河内さんは、私たちに柔らかな視線を向けて、

「うん、ここまで見て、特に気になるところは無かったかい?」

「はい、特には」

 すぐさまカナとアイコンタクトを交わし、互いに不満点がないことを確認する。私が頷き告げると、大河内さんは大きく頷き返した。

 ただ、一瞬踵を返そうとしたように見えた彼は、足を止めるともう一度私たちの方を見やって、少し悩む素振りをしてから口を開く。

「君たちは本当に仲がいいんだね。通じ合ってると言ってもいい。そうやって表情だけで会話ができるっていうのは、本当にすごいと思う」

 突然そんな風に褒められるとは思ってもみなかった。面食らう私たちにもう一度笑みかけ、今度こそ大河内さんはリビングを後にした。

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