ボタン

@JacOR

第1話

人生を劇的に変えてみたい。

心に留めるにしろ、オープンに主張するにしろ、そう考える人はきっとそんなに少なくないと思う。

さて、ここにひとつのボタンがある。ボタンには「送信」と書かれている。このボタンを押せば、僕の人生は劇的に変わるだろう。学生時代に寝る間も惜しんでのめりこんだ部活も、社会人になって神経すり減らして築き上げた人間関係も、努力に見合うほどの変化にはつながらず、ただ緩慢に、単調に、少しずつ変わっていくだけだった。

「積み上げるのは一生、壊すのは一瞬」という耳馴染みのある言葉が脳裏に浮かぶ。腑に落ちつつも、どこか皮肉めいて感じた。事実、今まさに指先ひとつで人生がひっくり返るかもしれない状況で僕は2時間、このボタンを押せずにいる。スマホが節電モードに切り替わり消灯する度、ボタンの横の何もない空間を慎重にタッチしては再点灯を繰り返していた。人生の中の2時間は一瞬かもしれないが、送信ボタンと見つめあう2時間は人生で最長だ。


幼少期から僕は引っ込み思案な性格だった。社会のせいにはしたくないが、環境は最悪だったと思っている。とにかく目立つな、わめくな、調子に乗るな、出る杭は原型がなくなるまでぶったたくぞ、という感じだった。小学校4年生の課題で母の日の絵を描く授業があった。僕は母の顔を水色に塗った。母はいつも貧血気味で血色が悪かったからだ。別にきらいだったとか、悪意があったわけではない。僕としてはリアルに再現したつもりだった。担任の先生はその日のホームルームで僕の絵を黒板に張り付けこういった。「みなさん、これはたかし君の描いた絵です…」僕はてっきり褒められるのだと思って机から少し身を乗り出し、隣の女の子にドヤ顔を晒した。しかし続いた言葉は辛辣なものだった。「いいですか、皆さん。これは授業参観で披露する絵ですからふざけて描いてはいけませんよ。たかし君のお母さんは宇宙人じゃないでしょう?」というお叱りの言葉だった。先刻ドヤ顔を晒した女子がこらえきれず吹き出すと堰を切ったように教室が笑いに包まれた。かくして僕は宇宙人(みたいな肌)の息子として、当時テレビで話題になっていた爬虫類型宇宙人「レプタリアン」から名前をいただきレプタンというあだ名を賜った。もともと他人とは少しばかり違う趣味嗜好で素養のあった僕に、レプタンの称号は思いのほか定着した。そんな環境から逃れたくて遠隔地の中学へ進学、高校はさらに他県へと逃げ続けたが、結局そこでも「ど天然」「不思議ちゃん」と見抜かれてしまい、扱いはさほど変わらなかった。学生時代に学んだことは多くあるが、ひとつだけ言えることは「個性は人前で出すべきではない」ということだった。

大学はさらに遠方の、田舎の、これと言って特徴のない学校を選び、進路について親を説得するのが一番の難関だった。ところがどうだろう、これだけ遠くに来れば文化が違うのか、8割が大学デビューなのか、進学先の世界はまさに大個性時代である。アニメのような蛍光色の髪をした兄ちゃんがウェイウェイしているなか、完全にスタートで詰んでしまった。

如何に個性を殺すかという命題を実践し続けた僕に、これは酷じゃないかな、神様。もはや個性=悪が定着してしまった僕は個性を嫌う側になってしまっていた。「人前で学生らしからぬ格好と言動をする恥ずかしい人たち」というレッテルで蔑んでいた。といってもここでもまたマイノリティであるわけで、半年もたたずにバラ色のキャンパスライフをフェードアウトし、半引きこもりになりつつも、作業の様に大学に通い続けた。5年かかってなんとか卒業し、また別の県で就職した。

灰色のキャンパスライフだったが、それなりに収穫もあった。インターネット世界との出会いだ。僕の家はあまり裕福ではなく、親の方針もあり、高校までガラケーだった。大学に通いつつバイトして買ったスマホが寂しい夜を少しだけ癒してくれた。まぁそれが引きこもりに拍車をかけたのは言うまでもない。

ネットの世界はいい。「誰でもない誰か」になれる。時には集団の中の「ひとり」だったり、時には名前のついた(といっても仮名だが)「ダレか」になることもできた。不思議なことにネットの世界ならずっと心にしまっていたはずの「個性」をさらけ出すことも抵抗はなかった。なんなら僕よりもっとぶっ飛んでいておかしなヤツらがごまんといる。実はみんな素の自分を隠して、居場所を求めていたんじゃないだろうかと思うほど生き生きしている。

ネットの世界はお世辞にも良い面ばかり、とは言えないが少なくとも社会に押しつぶされそうなときの避難所としては最高だった。適度な距離感を保っていれば無駄に傷つくこともない。しかしそれは逆に深入りすると途端に面倒になるともいえる。人間関係はもちろんそうだが、なにより自分の中に欲が生まれてくる。これはとても厄介だ。


僕の所属するSNSのコミュニティは主に絵画や音楽などの芸術について見識や批評を通わす集まりだった。意識したわけではないが、その方面に惹かれたのはおそらくレプタンのトラウマが根底にあることは想像に難くない。僕はずっと誰かに「人間の肌は水色だっていい。表現は自由だ」と言ってもらいたかったのだと思う。事実そのコミュニティでは様々な人が素人ながらの作品を披露していて、どれも個性的でどれも自由だった。僕は初めて素の自分でいても心地よいと思える場所を見つけたのだ。その中でもとくに「ヒソカ」と名乗る女性と知り合ったときは衝撃的だった。好きな絵画や音楽に限らず、あらゆる彼女の主張は僕がずっと心の中で思っていた、考えていた、「この世の在り方」みたいなものを僕よりも上手に表現し、言葉にしていた。ずっと殻に閉じ込めて孤独だった僕の感性に「それでいいんだよ」と救いを差し伸べてくれた気さえした。当初はもう、憧れというよりも畏怖の感情に近かったと思う。最初に僕の論評にコメントをもらったときは、嬉しすぎて居ても立ってもいられず大学から5kmの道のりを走って帰ったくらいだ。

それがきっかけになって、徐々に交流が生まれ、時間をかけてお互いを知ることとなる。エビが嫌いで、お酒がすき。掃除が苦手で料理が得意。僕と正反対な面もたくさんあるけれど、同じものをみて、感じて、一緒に笑える。一緒に嫌悪できる。共感できる仲間がいるってすごいな、と思っていた。「すごいな、と思っていた」っていうのは当時「幸せ」なんてもの自分には備わっていない感情だと思っていたからだ。だいぶ時間がたってからある日突然、「あ、これが俗にいう幸せというやつではないのか?」と思った瞬間、それは色づき、形を成した。なんの脈絡もなく、唐突に。なんなら吉野家で牛丼を食べているときだった。何もこんな時に気が付かなくても…と自分のタイミングの悪さに笑ってしまった。


そして

手放すのがすごく怖いと思った。


そのときもうひとつ、気づいたことがある。出会った頃、神格視していたヒソカが、いつのまにか「仲間のひとり」になっていたことだ。恐れ多くも、親しくするうちに、彼女も生身の人間であり、手の届く範囲にいるのだと、勘違いしてしまったらしい。僕のような矮小な人間に彼女のような崇高な精神の持ち主を「同格に見る」なんて傲慢甚だしい。


でも、僕はもう確実に、ネット社会との距離感を見誤ってしまっていた…そして人間に堕としてしまった女神がいつか去っていくことを恐れた。神聖なままであればいつか去っていっても天界に還るとでも思えたものを…



そして今僕はベッドでスマホを見つめている。天界に還れなくなった女神を少しでも自分の人生の近くに繋ぎとめるために。しかも自分の欲に裏打ちされたおよそ僕らしくない方法で。

「積み上げるのは一生、壊すのは一瞬」

的を射た言葉だ。ある意味真理なのかもしれない。

ただ僕は思う、「積み上げたものってなんだ?」

「個性を殺して生きている自分か?」

「主張せず空気を読んでいい子でいることか?」

「レプタンと呼ばれて、変人扱いされた学生時代?」

「壊したほうがいい積み重ねだってあるんじゃないのか?」

そもそもよく考えたら大したもの積み上げてないじゃないか?そう思うと自分の過去がちっぽけで、悩むことも馬鹿らしく感じた。


彼女のダイレクトメッセージへとつながるその送信ボタンはベッドで4時間葛藤する僕の一押しをずっと待っている。いい加減カーテンの向こうも少し明るくなってきていたが、自分を表現することに不慣れな僕は悪いイメージに捕らわれ、未だたったひとつのボタンを押せていない。

不意にスマホが電力不足を通知し、シャットダウンの準備をしている。悶々としている間に、事前通知が頭に入っていなかったらしい。慌てて枕元からコードを引き出しつなごうとすると、勢い余ってスマホを落としてしまった。ドンッ!朝方の安アパートの床に低い音が響く。急いで拾ってつなげるも、電源は切れてしまった。自分自身に呆れつつも電源を入れなおし、再びアプリを起動させる。

前回入力した文章は残っていなかったが、予測変換に文字列が残っていてあっさり再生することができた。そして不思議なことに今度はそのままの勢いで送信ボタンを


押した。


長年付き合ったカップルが破局まもなく他の人と電撃婚をするような、妙な覚悟があったのかもしれない。僕の人生を左右するかもしれないデータを乗せたダイレクトメッセージは無機質に送信完了を表示して仕事を終えた。


寝不足で思考能力が落ちていたのか、4時間葛藤した挙句のあっさりした決断に自分でも驚き、少し放心したあと、倒れるように枕に顔を埋めた。


指先一つで変わる人生。

そんな都合のいい話、あるわけないよな…


このあと少しだけ寝て、支度を整えて、多分気怠そうに会社へ行く。

いつものルーチンにいつもの日常。


世界はまったく呆れるほど昨日と同じで、

他人から見た僕の人生はこれっぽっちも変わることはない。


でもなぜか心は踊るのだ。

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