狭間にて

佳原雪

1.沼地の荘園

季節は冬の初め。窓から透かし見る空は暗く、夜を迎えようとする頃合いの温い闇があたりに満ちている。雲行きはあやしく、外にはもう誰もいない。頬を寄せたガラスには自身の青い目が映った。『ポラリス』はつまんでいた厚い起毛のカーテンを元のように整えて部屋へと向かう。廊下は長く、暗闇には人の気配がある。カンテラを携えた彼が暗がりに足を踏み入れることはない。絨毯は厚い。靴音は吸い込まれていく。年若い次期領主は誰もいない廊下を進んでいった。



俺は部屋のすみに腰を落ち着け、本を広げる。やるべきことはたくさんあって、できることは一つも無かった。ここには俺のすることはない。俺は本を広げて文字を追っている。そこへ当代領主のカレンがやってきて、ふんぞり返って椅子に座る。いつもの事だ。これが何も変わりない俺と姉貴の『普段通り』で、俺は鋳造された彫り物をなぞるみたいに同じ事を繰り返している。今日も俺は本のページをめくってカレンがしゃべり出すのを待っている。用事があると言って呼びつけられた。だからそのようにした。なにも問題は無い。そう、何も。

「ねえ、話聞いてる?」

破られた沈黙の中、真っ先に聞こえてくるのはイラついた声だ。半ば恫喝めいたそれに、ページから目を外し、聞いている、と返す。同じ肌の色。同じくらいの背丈。俺と同じブラウンの髪は、自分のものよりずいぶんと長く、剣呑な色を孕む目は俺と同じか少し暗い。カレンは指先で机を引っ掻いている。もったいをつけているようにも見えるし、何か言葉を欲しているようにも見える。がり、と塗った爪が机を囓る音がした。カレンは馬鹿だ。馬鹿なのだ。だから補佐の俺がいる。姉貴、と俺は言った。

「用があって呼んだんじゃないのか」

不機嫌そうに口元を歪めていたカレンは鼻を鳴らした。話はこれで進む。はずだ。

「そう、わかってんじゃない。ぼーっとしちゃって、心ここにあらずって感じ。私がしゃべってんだから話くらいちゃんと聞きなさいよ」

カレンは、ほかでもないこの私が、と言外に含ませる。姉貴は何も言ってはいなかったし、俺はずっと聞いていた。いつもながら機嫌が悪いな、と思う。天気のせいか、それとも虫の居所が悪いのか。どちらにせよすることは同じだ。俺はカレンと目を合わせる。カレンの表情が僅かに動く。青色の目の中に俺がいる。俺は息を吸って、軽く握った手を胸に当てる。

「……偉大なる姉上様のお心に沿えず申し訳ありません、この愚弟にどうかお慈悲を」

「は、わかればいいのよ」

慣れたやり取りだ。俺が何を考えていようと、この身が折檻を受けることはない。少なくとも、こうして機嫌を取っているかぎりは。俺は目を細める。カレンはそれをじっと見返してくる。通じ合うことない内心は視線に一つの感情も乗せてこない。いっそ冷たいほどの相互不理解がここにある。カレンはおもむろに口を開いた。

「ねえ、ポラリス」

「……なんだ?」

「例のアレ、斬首が決定したわ。近いうちに広場を押えるよう言っといて」

「……承った」

本題はこれか、と思った。俺は目を伏せ、重々しく頷く。カレンがそれを望むから。

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