第281話 小さな染み

 赤い光が地形に隠れてもなお、ロックピラーの空気は暑く乾いている。

 だというのに、小さく吐いた自分の息が、こうも冷たく感じるのは何故だろう。


 ――耳がいいってのは、あんまり褒められたことばっかりじゃないッスね。


 当人たちはもう居ない。わざわざ見計らって入ったのだから当然だ。けれど、部屋の中にはまだ何か残滓が残っているようで、自分は指の形に削られた埃をなぞりながら、細長い狭間から薄紫色の空を見上げた。

 別に自分はご主人や猫を探していた訳でも、どこかから前情報を得て聞き耳を立てていた訳でもない。

 単なる偶然。しかし、アステリオンたる自分の優れた耳には確実に届き、心の中に小さな染みを産んだ。

 ご主人が重婚を望んでいることは知っている。だからこそ、ご主人と他の誰かの関係がどう動いたところで、順番がどうだったかというだけで、自分には関係のない話に過ぎないはず。

 そう思っていたのに、長く幸福なぬるま湯に浸かっていた自分の心根は、想像以上に醜い姿となっていたのだろう。


「なぁにが、ッスか。これじゃ自分、色ボケの大阿呆ッスよ」


 でこぼこした壁に掌を当てれば、自然と自嘲的な笑みが零れる。

 これがご主人を好きになってすぐ、あるいは揃ってフラれた夜鳴鳥亭の夜くらいだったなら、いけ好かない猫なんかに先んじられた、と心置きなく叫べただろう。

 だが、今はそうじゃない。

 相変わらず性格的に気に食わない部分は多いし、小憎らしい態度には腹も立つ。しかし、そんな部分があってもなお、今は背中を預けられる仲間であり、シューニャたちと変わらない大切な妹分なのだ。

 それが見事初恋を成就させたというのに、姉のような立場を自称する己の心中に浮かぶのは、行き場のない悔しさとやるせなさばかり。

 やっぱり猫だったからいけないのか。それとも、自分に対し真っ先に重婚を宣言しておきながら、まだ声をかけてくれないご主人のせいなのか。


 ――どちらも違う。違うったら違う。


 噛み締めた奥歯がギッと鳴る。

 ポロムルにおける戦いの最中、自分のことをアポロニアと呼んでくれた彼女を、今更どうして憎めよう。

 不器用で鈍感でいつも苦笑いばかりしていても、自分を温かく抱きしめてくれた彼のことを、今更どうして疑えよう。


『英雄様との関係で、シリェーニィの御手が包んでくださるように祈っとくがな』


 唐突に頭を掠めたのは、先日マルコが口にしたとある女神の名前。

 別に女神様自身に興味があった訳じゃない。ただ、その言葉は今、強く結んでいた自分の口から、思いを零させるには十分な力を持っていた。


「……ご主人を3年も待ち続けたなんて、ストリさんって人は凄いッス」


 はるか太古という世界の中にあった、ご主人の恋愛事情など、浅学な自分には想像もつかない話である。

 だが、少なくともこの身には、待ち続けるという選択ができないことだけはハッキリわかった。

 白い服に染み汚れがついた時、自分にはそれを擦り落とす手があるというのに、川水に晒すだけで自然に消えていくのを待とうとなど思わない。

 たとえどうするのが最善かが分からずとも、こんな感情を腹の中に溜めたまま過ごしたくはないのだ。

 自分のことを、本当に一山幾らのアステリオンとしてでなく、特別な存在だと言ってくれるのならば。


 ――自分から1番になろうとしても、いいッスよね。



 ■



「やぁれやれ、英雄殿はよっぽどシトリオドラ運の神に気に入られてるらしい」


 練兵場に張られた天幕を眺めながら、タルゴはそう言ってため息をつく。

 僕にはその、シトなんとか、という言葉に聞き覚えはなかったが、彼がげんなりしていることだけは理解できる。何せ、表情の分かりにくい鳥の顔からでさえ、ハッキリと疲労の色が読み取れるくらいなのだから。


「……す、すみません。奴隷たちへの対応を丸投げしてしまって」


「ま、今回の手間賃は帝国のボケ共につけとくさ。何せ、連中がミクスチャなんぞ作ってなきゃ、奴隷の面倒なんて見る必要なんざなかったんだからな」


 ラルマンジャが連れていた奴隷の総数、実に100人以上。それを保護するだけの準備など、10人に満たないチームの玉匣でできるはずもなく、さりとて檻から出したキメラリア奴隷たちをそのまま野に放つわけにもいかず、結果として偵察隊の長であるタルゴに丸投げする以外に選択肢が無かったのだ。

 受け入れ作業のために走り回ってくれた、実働部隊のヴィンディケイタたちもさることながら、いきなりその指揮を執らされた彼の苦労は計り知れない。ただでさえ、要塞の占領維持にも頭を悩ませていた最中だったのだから。

 その功労に、僕は腰を折って頭を下げることしかできなかったのだが、それでも鳥男は黒い羽毛に覆われた腕を軽く振り、大きな嘴を薄く開けて笑った。


「それに、俺のことはともかくとして、保護した連中はこの後どうするんだ? 今のところ、食料は奴隷商の持ってた奴をかっぱらった分で持ちこたえられてるが、それにしたってこの先、クロウドンまでずっと飯を食わせながら連れ歩くわけにもいかないだろう」


「それはそうなんですが、彼らへの対応に関しては、本隊到着まで一旦保留にしておくつもりです。僕の一存で決められる問題じゃないですし、シューニャも何か気になることがあるようなので」


「あぁ、それでまたブレインワーカー殿は執務室の書棚をひっくり返してたのか。俺にはただのキメラリア奴隷から、何か使えそうな情報が出てくるとは思えんが」


「その辺に関してはなんというか、シューニャなので、としか」


 彼女が気にしている内容については、まだ自分も何1つ聞いていない。

 何せ、キメラリア奴隷を保護したことを報告した途端、シューニャは何を思ったのか、少し奴隷商の話が聞きたい、と言ってマオリィネと共に出ていってしまったのである。

 その後、マオリィネだけが夕飯時に戻ってきたため、シューニャの動向を聞いてみれば、何でも執務室に籠って書類を漁っているのだとか。余程気になることがあるらしい。

 おかげで自分は、シューニャが何を考えているかサッパリわかっていなかったのだが、その癖のほほんとしていたからだろう。タルゴは、ほぉ、と濁った声を出しながら、不思議そうに頭を直角に傾けた。


「今更だが、随分と娘たちを信頼しているんだな。まぁ、英雄殿の判断に口を挟めるような頭は持ち合わせていないが――ふはぁあ……っと、悪い。流石にそろそろひと眠りしておいた方が良さそうだ」


 突然大きく開かれた極彩色の大嘴に身構えてしまったが、どうやらただの欠伸だったらしい。黒い円らな目をしょぼしょぼさせながら、これじゃあペンもクロスボウもまともに使えん、と肩を竦めて見せる。

 ただでさえ、今朝方までは敵の姿が見当たらないフォート・サザーランドの警戒監視を続け、今日の日中は要塞の調査と仕事の割振り、更に奴隷への対応とてんてこ舞いだったのだ。たとえ熟練の戦士たるヴィンディケイタであっても、睡魔が襲ってきても不思議ではないだろう。


「色々と無理をお願いして申し訳ない。今日の不寝番には自分も立ちますので、ゆっくり体を休めてください」


「すまん。本来は俺たちの仕事なんだが、今日ばかりはお言葉に甘えさせてもらおう」


 そう言って軽く頭を下げると、タルゴは解放奴隷キャンプの警備に立つヴィンディケイタたちに声をかけつつ、建物の中へフラフラと消えていった。

 彼の背を見送ってから、僕も軽く伸びをしつつ玉匣へ向かって歩きだす。

 ただでさえ徹夜の警備は久しぶりである上、つい数時間前にあんなことがあったばかりである。翡翠を着装するついでに、濃い珈琲でも飲んでしっかり意識を切り替えておきたかった。

 そう思ってハッチを開ければ、真っ先に目が合ったのはマオリィネである。


「あら、お帰りなさい」


「ただいま――あれ、アポロは?」


 ぐるり車内を見回してみても、寝台上段でポラリスとファティマがくっついて眠り、マオリィネが座席に腰を下ろしているだけ。シューニャが見当たらないのは多分、要塞で読み物にふけっているからだろうが、アポロニアの姿がないのは意外だった。

 はて、と自分が首を傾げれば、それに答えるように運転席の辺りで、白すぎる手がヒラヒラと振られた。


「アポロならさっき、朝飯の支度がどうのとか言ってたから、厨房じゃねぇか?」


「こんな夜中に、何か用事でもあったの?」


「いや、珈琲を頼みたかっただけだよ。しかし厨房か、まだ警備の交代までは時間があるし、行ってこようかな」


 要塞施設の中にある厨房までなら、歩いていっても一息つくくらいの余裕はある。

 そう思って踵を返せば、何故か背中に不思議そうな声が投げかけられた。


「ねぇ、前から不思議だったのだけれど、珈琲ならキョウイチだって淹れられるのに、どうしてわざわざアポロニアに頼むのかしら? 彼女、お酒は好きだけれど、珈琲はほとんど飲まないでしょう」


「あぁ――いやこれがどうしてか、アポロに淹れてもらった方が確実に美味いんだよ。前に何度か、彼女の淹れ方を真似てみたんだが、どうやってもダメでね。多分だが、あれはセンスの違いだ」


 ドアノブにかけた手を離しつつ、マオリィネを振り返って苦笑する。

 確かに自分は昔から珈琲が好きだったが、その淹れ方に関してどうのこうの、と言える程の技術や知識は持ち合わせてないない。

 挙句、現代の珈琲は味こそ似ているとはいえ、古代のそれとは名前が同じなだけの別物、いわば代替珈琲的な存在であるらしく、荒布でドリップして飲む、という以外のことはチンプンカンプンなのだ。

 それでも知らないなりに、自分で淹れたものが美味しければいいのだが、結果は先ほど述べた通り。情けないながら、ほとんど飲まないアポロニアの淹れてくれた物の方が、確実に美味しく薫り高いのである。

 だが、そんな自分の説明に対し、マオリィネはどうしてか訝し気な表情を浮かべたままだった。


「そういうものなのかしら……? 正直、珈琲って誰が淹れても同じ味な気がするのだけれど」


「好きで飲んでればわかるようになるもんだよ。マオの舌がお子様じゃなければ、だが」


 たった一言で納得できた。

 ようするにこの黒髪御貴族様は、珈琲の奥深さが理解できていないらしい。

 別にだからどうした、という話である。ただ、冗談半分で小さく肩を竦めたのは失敗だったらしい。彼女は僅かに顔を赤らめながら、琥珀色の瞳をキッと釣り上げた。


「ちょっと! 年頃の乙女に向かって、舌がお子様ってどういうことよ!? 私これでも一応、れっきとした子爵令嬢なんだからね!」


「カカカ。貴族家の御令嬢だからこそ、甘ぇモンばっかり食ってて複雑な味がわからないとか、結構あり得そうな話じゃねぇか」


「こ、んのクソ骸骨……いいわ。そこまで言うなら、私がキョウイチより美味しい珈琲を淹れてあげようじゃないの」


 寝ている少女らを気遣ってか、姿を隠したまま小声でカタカタと笑うダマルが、余計に腹立たしく感じられたのだろう。

 烈火のごとくと思われたマオリィネは、急に顔から表情を消すと、静かに立ち上がって荷物室を漁り始める。


「い、いや別にマオの舌を本気で疑ってる訳じゃ――」


「いいから。黙ってそこに座ってなさい」


 なんとなく背筋を這い上がってきた嫌な予感に、全部冗談だから、と宥めに入ったものの、やけに柔らかい微笑みの圧は凄まじく、僕は何も言えないまま、また玉匣から出ていくこともできないで立ちすくむ。


 ――い、いや、信じるんだ。マオは何でもできる器用な娘じゃないか。珈琲を淹れるくらい、造作もない、はず。


 そうだそうだ、と僕は何かを振り払うように頷き続ける。

 そんな努力にもかかわらず、頭の片隅からはどうしても、特大の対装甲地雷を踏み抜いたような予感がこびりついて離れない。

 そんな時、背後でギィとハッチが鳴った。


「えっと、ただい、ま……?」


「あ、あぁ、お帰り」


 そこに立っていたのは、相変わらず無表情なシューニャである。

 彼女の声がいつも以上に小さかったのは、時間を忘れて読み物に没頭していたことが少し恥ずかしかったのか、あるいは皆が眠ってしまっているかもしれないと思ったからかだろう。

 ただ、車内に漂う不穏な空気と独特な珈琲の香りには、流石に金紗を湛える頭が大きく傾げられたが。


「……こんな時間に、一体何をしてるの」


「あぁその、不寝番に立つ前に珈琲が飲みたくてね。色々あって、マオが淹れてくれている、ん、だが」


「これに布をつけて、挽いた粉をその上において、後はお湯を注ぐだけ……これくらい簡単よ簡単……見てなさい。子爵令嬢たる私が、本物の美味しさを教えてあげるから……!」


 ブツブツと呪詛の如く呟かれる言葉から察するに、マオリィネは珈琲を淹れた経験がないらしい。というのも、彼女も好むのは地元の名産である果実酒か、貴族に連なる者でなければ口にできないお茶の類がほとんどなのだから、ある意味想像通りだったが。

 だから、背中から発される謎の気迫も、貴族としてのプライドだったに違いない。僕はそれに気圧されて、これ以上余計なことを言って刺激しないよう、黙って珈琲の完成を待っていたのだが、シューニャは先ほどの言葉が気になったらしい。給湯器のコックを捻ろうと手を伸ばしたマオリィネの肩越しに、彼女は暗がりの手元をそっと覗き込んだ。


「待ってマオリィネ。その状態でお湯を注ぐと、多分濾布ろふが落ち――」


「えっ?」


 刹那、静寂の車内へ響いたのは、パサッという何かが落ちた音と、ゆらりと立ち上がる湯気。

 自分の位置から、マオリィネの手元を覗くことはできずとも、何が起こったのかは想像に難くない。ついでにその珈琲が、酷く粉っぽいものになった事も、ほぼ間違いないだろう。

 僕の愛用するマグカップを持って立ち上がったマオリィネは、唇に酷く力が入っており、何なら全身が微かに震えていたように思う。


「……笑いなさいよ」


「い、いや、その――」


 事故だろう、と言おうとしたものの、それは彼女に対して何の慰めにもならないだろう。

 だから僕は言葉による対応を諦め、マオリィネの手からマグカップを奪い去ると、中身を見ることもなく一気に煽った。


「えっ!? きょ、キョウイチ、何を――!?」


「ヒュー、やるねぇ」


 ギョッとしたマオリィネと、目を見開いて固まるシューニャ。ついでにいつから覗いていたのか、またどうやっているのか、遠くからダマルの口笛まで聞こえてくる。

 熱い珈琲を一気に飲み下したことで、口の中はきっと何か所か火傷したことだろう。その後にはとんでもない異物感もしっかり残っている。

 だが、元々の原因は自分の軽口なのだから、これくらいの代償で彼女の笑顔が守れるのならば、など安いものだ。


「……い、いい気付けになったよ。これなら、一晩中起きていても問題なさそうだ」


 とはいえ、あまり平静を保っていられる自信はなかったため、僕は2人を押しのけて整備ステーションに歩み寄ると、沈黙した翡翠に素早く身を包んだ。


「ちょ、ちょっと、貴方さっきのアレ――」


『警備、行ってくるよ』


 おろおろするマオリィネに対し、できるだけ明るい声を返した僕は、重い機体を揺らして玉匣の外へ出ると、素早く後部ハッチを閉じた。

 それで視線が途切れてしまえば、後は何かを堪える必要もない。自分が警備に立つべき防壁を無視して、水を湛える井戸へ一直線に駆ける。

 ある意味で、元々珈琲を欲した目的である、意識の切り替えはしっかり達成できたと言っていいだろう。

 ただ、アポロニアが淹れてくれる珈琲のありがたさを、改めて実感することにもなっていたが。

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