第259話 猫、その刃、鋭利につき

 体のあちこちから滲む血の痛みすら気にならない程張り詰めていた心が、何の前触れもなく聞こえたその声に、ふわりと弛緩した気がした。

 間違えようはずもない、優しい優しい彼の音。

 別に状況が変わった訳ではなく、目の前からはおぞましく恐ろしいミクスチャの群れが迫っている。しかし、ボクは異形の隙間から覗く暗い空だけを眺めていた。

 ケットは夜目が効く、と教えてくれたのはシューニャだったと思う。ただ、自分以外がどう見えているかなんてわからないから、それが特別優れたものだと感じたことはない。

 けれどもし、薄闇の中で天高く舞い上がる木片を見つけられたのが種族特有のものだとするのなら、ボクはケットに生まれてよかったと思う。

 方角からしてそれは海の上。となれば、船の破片であることは確実で、残念ながら王国にはまともな船が残っていないことから、吹き飛ばされているのが帝国軍の船団であることは疑いようもない。

 それから遅れること一息、雷鳴のような轟音が吹き抜ける。

 相変わらず耳が痛いし身体がゾワゾワするため大嫌いなのだが、神様以外でそんな音を鳴らせる存在など、ボクは2人しか知らない。

 一方、流石のミクスチャも突然響き渡った凄まじい音には驚いたのか、腕を突き出そうした姿勢のままで硬直した。

 それはほんの一瞬に過ぎなかったが、躊躇ったような攻撃を躱すことなど造作もなく、ボクは大きく後ろに飛んで距離を取る。

 ただ、せめて今まで散々やられた分、1発気持ちよくぶん殴ってやろうと拳を構えたところで、真正面に居たミクスチャは空から落ちてきた黒い四角形に叩き潰された。


「おにー、さん?」


 体液を撒き散らす肉塊の向こうで浮かび上がったのは、箱と同時に着地したであろう、橙色の細い光をあちこちに走らせる水色の輪郭。

 それはミクスチャと自分たちの間でゆっくり立ち上がり、今までには無かった鳥のような翼をゆっくり畳む。同時に四角形の向こうで肩越しにボクのことを見てくれた気がした。

 だが、直後に自分が感じたのは途轍もない恐怖である。


『なるほど……そんなに死に急ぎたいか化物共』


 いつもと違って低く冷たく、地の底から響くような声。

 これまでの戦闘で荒れた通りの敷石を踏み砕き、背中から長剣をゆっくりと引き抜いて刀身に赤い光の束を迸らせる。


『キョウイチ……?』


『ご、ご主人――もしかしなくても、怒ってる、ッス、か?』


 レシィバァから聞こえた2人の声が震えていたのも無理はない。少し離れたタマクシゲの中からでも、その雰囲気は十分感じられただろうから。

 ただ、ミクスチャは普通の生き物と違い、恐怖に退くことはないらしい。その勇気だけは、本気で称賛に値する。

 だが、言い方を変えればそれは無謀でしかないだろう。

 真っ先に鋭い腕を構えて飛び掛かった3匹は、たった一振りで身体を両断されて体液をあたりに撒き散らしながら宙を舞い、びちゃりと水音を立てて地面に転がった。

 仲間を殺されたことは異形にもわかるのか、たちまちミクスチャは次々と翡翠に襲い掛かっていく。

 正面からひたすら突進する奴が居れば、大きく跳躍して勢いをつけて貫こうとする奴も、刺突ではなく殴りかかろうと振りかぶる奴も居た。

 だが、影のように揺らめく翡翠は、正面から迫った奴を光る剣で焼き斬り、跳んできた奴の腕を左手で掴むと、その体を殴りかかってきた奴に叩きつけて団子にし、そのまま胴体を蹴っ飛ばして硬質な腕を根元から引きちぎる。

 ボクはその振付が決まっている舞のようにさえ思える動きを、ただただ呆然と眺めていたのだが、戦闘には予期せぬ事態が付き物であることを忘れてはならない。


「おー……っとぁ!?」


 ガツンと音が聞こえた途端、ボクの目に映りこんだのは勢いよく吹き飛んでくるミクスチャである。

 おにーさんが相当な力で殴りつけたのだろう。慌てて四角形をした柱のような物の影へ転がり込んだため、なんとか直撃は避けられたものの、辺り一面には体液の雨が降り注いでいた。


「も、もー! 気を付けてくださいよぉ! ボク、一切武器もってないんですからね!」


『あぁ、武器ならコンテナの中だ。それを取ったら、玉匣まで下がって身を守りなさい』


 プルプルと頭を振っていたからか、ボクは一瞬何を言われているかわからず、ふにゃりと首を傾げてしまう。

 記憶違いでなければ、こんてな、とは箱のことだ。ロガージョの巣穴にあった大きな鉄の箱を、骸骨がそう呼んでいた記憶がある。そしてそれに似た物となれば、ちょうど自分がもたれかかっているこの黒い四角形だろう。

 いきなりミクスチャを叩き潰したものだから、ボクはヒスイの装備だと思い込んでいたのだが、よく観察してみると確かにヒンジのようなものを見つけられた。


「と、いうことは……こっちから開く、んですかね」


 これもまた古代の品なのだろう。見たことのない金具の構造などわかるはずもないので、とりあえずカリカリと引っ掻いてみれば、2箇所ついていたそれは思ったよりも簡単にパチンと音を立てて外れ、蓋が僅かに浮き上がる。


「――これ、って」


 戦いの喧騒が響いている中だというのに、ボクは一瞬でそれに釘付けとなった。

 傍目に見れば、不思議な形をした鉄板でしかない。それこそ色々な武器を知っている戦士や鍛冶屋が見れば、きっと揃って笑うだろう。

 けれどボクにとってそれは、この世界にある何より素敵な物だった。

 柄を握ればズシリと重い。

 長く分厚く重くというのは、壊れないようにという自分の希望を叶えるために。鉄板を抉ったように逆向きの反りを持つ刃は、最大の力を伝えられるような作りにと、おにーさんとおじーさんが考えてくれたもの。扇のように広がった切先は、ボクが気に入っていた斧剣の雰囲気を残そうとしてくれたから。

 身体が疼く。

 怪我の痛みなんてどこにもなく、冷たい潮風に晒されているはずが滲む血はひたすらに熱い。

 懐かしくも新しい手応え。暗闇の中で鈍く光って見える銀色の刃。


『ファティ? 一体何が――』


 シューニャの声が聞こえた気がしたが、何を言われているのかなんてもうわからない。

 ガマンなんて、できるはずがなかった。

 流れたミクスチャの体液にぬめる地面を蹴っとばし、ボクはヒスイに向かっていく1匹を目掛けて駆け、石畳を蹴って大きく大きく跳んだ。


「たぁぁぁぁぁっ!」


 全身に力を漲らせ、ありったけの体重を乗せて上から逆反りの剣を叩きつける。

 これまでに握った武器では、どんなに力を入れても、また何回叩きつけようとも、ミクスチャの硬い表皮を傷つけることはできず、刃が零れ柄が刀身がひしゃげるばかりだった。

 だが、不思議な形をした剣が異形にぶつかった途端、手に伝わってきたのは今までと大きく異なる感触である。

 それは引っ掛かる事すらなくまるで滑るように進み、異形の身体にはなめらかな断面が顔を覗かせ、そこから赤黒い体液が水音を立てて流れ落ちていく。

 たった一振り。それだけで、ボクはおにーさんに抱き締められた時のように、心臓が高鳴った。


「アハ、アハハハハハハハハッ!! なんですか、なんですかコレ! こんなの持ってきてくれたなら、最初から出してくださいよおにーさん!」


 ぴっちり服が補助してくれているからか、重さなどちっとも気にならない。

 だからボクも、今までおにーさんがしていたように、激しくくるくる舞い踊る。

 仲間が殺されたことで、ミクスチャは自分のことも脅威だと思ったのだろう。何匹かがこちらへ向きを変え、すぐに鋭い腕を突き出してきた。

 けれど、ボクはもうそんなもの怖くない。


「とぉっ!」


 板剣ならば受け流しても刃が零れたミクスチャの刺突。

 だが、この剣は火花を散らすだけで傷つく事すらなく、軽く一振りぶつければ、硬く鋭い槍のような腕は半ばから音を立てて千切れとんだ。


『なっ!? こら、下がれと言ったろう! 前に出るんじゃない! 君は怪我を――』


「こんなの痛くなんてありませんし、おにーさんがボクを守ってくれるんでしょ?」


 さっきまでとは違い、慌てたようなおにーさんの声がヒスイから漏れる。

 だが、たとえ雇い主であろうとも、想い人であろうとも、今のボクは止められない。

 自分の心は単純なのだ。ついさっきまで燻っていたモヤモヤなんてどこにもないし、今はとにかく目の前の敵を切り刻みたいという衝動だけが迸っている。

 それを声から察してくれたのだろう。おにーさんはミクスチャを肉塊に変えながら、ボクの背後へ回りこんでくれた。


『――ええいくそ、全く無茶な甘え方してくれるな! シューニャ、玉匣を下がらせてくれ! アポロ、防御戦闘を任せる!』


『はぁ、まーたご主人はそうやって猫を甘やかすぅ。余計な傷増やしても知らないッスからね』


『……言っても聞かない』


 ムセンキ越しの2人は、揃って呆れたような声を出す。

 普段なら犬に一言噛みついてやりたいところだが、それ以上に今は彼の言葉が嬉しかった。


「おにーさんがボクのことわかっててくれて嬉しいです。それに――」


 周りを囲むように広がるミクスチャを見ながら、ボクは暑い吐息を漏らしつつ、ニィと口の端を釣り上げた。

 今まで散々苦渋を舐めさせられた敵を撫で斬りにできる上、ずっと願ってやまなかった大好きな人と一緒に立てる戦場なのだ。これが興奮せず居られるはずもない。


「もう身体のムズムズが収まらないんです。今おあずけなんてされたら、ボク狂っちゃうかもしれません」



 ■



 走る2対の剣。

 かたや赤い光を帯びて、かたや鈍く銀に光りながら、そのどちらもが容易く異形を切り裂いていく。

 帝国軍はこのイモムシのような下半身をもつ小型のミクスチャを、積めるだけ船に積んで連れてきていたに違いない。ただでさえ現代人たちでは歯が立たない化物を、これだけの物量で上陸させれば町の1つや2つ、容易く制圧できたことだろう。

 だが、その目論見は自分が運んできた剣のために、少女をひたすら楽しませるだけのエンターテイメントに変わっていた。

 ファティマは身軽に跳んで自らミクスチャへ躍りかかり、次々とその体を細切れに変えていく。その背中を守る僕は逆に最小限の動きで、敵の注意がファティマにだけ向かぬよう意識しつつ、向かってくる敵を確実に潰す。

 僕は最初、ファティマを傷つけられたことに対する怒りで武器を抜いた。だが、はしゃぐようにミクスチャを切り刻む彼女を見ていると、次第に自分の中でも怒りとは異なる興奮が沸き上がってくるのを感じる。

 何せ、翡翠は今までにないほど滑らかな動きを見せてくれているのだ。


 ――うちの整備班長は、本気で天才なんだろうな。


 オーバーホールを終えた翡翠は、収束波レーザーフラ光長剣ンベルジュの一振りだけでも、ハッキリわかるほど滑らかに自分の動きをトレースする。弾薬の消耗を抑えられることも含め、数時間に渡って海上を飛び続けた体をほぐすには、最高の体操だった。


「手応え最高ですねこの剣! ボクとっても気に入りました!」


 ゴォンという音が1つ響けば、ファティマの隣へ異形が力なく倒れ込む。

 マキナなどの装甲材である自動修復合金を成形して作られた特殊形状の剣は、斧剣よりも更に分厚く重く長く、生身の人間が武器として扱うことなど到底不可能である。だが、パイロットスーツに補助された彼女はそれを軽々振り回し、強靭なミクスチャの肉体をも容易く抉り取ってみせた。

 しかも異形共は味方が殺されてもなお逃げることなく、むしろ仇を取れと言わんばかりの愚直さで集まってくる。おかげでこちらとしては探す手間が省けた。


『次っ!』


 高出力レーザーの刃を横薙ぎに走らせ、数匹纏めて溶断すれば、おかわりはその亡骸を飛び越えて刺突を繰り出してくる。それを腋にガッチリとつかまえ、胴体に前蹴りを叩き込めば、その衝撃に硬いミクスチャの身体が千切れて地面へ転がっていき、最後は跳びかかりながら振り抜かれたファティマの剣に体液を撒き散らして動かなくなった。

 ただ、所詮は船によって輸送されてきた上陸部隊である。それも損害すら気にせず、物量をもって積極的に自分たちを目指してくるのだから、散らかった死肉と体液で溢れる大通りから、動くものが無くなるまでそう時間はかからなかった。


『敵反応消滅。これで、ひと段落か――うぉっ!?』


 レーダーの反応を確認して息をつくや否や、機体に走った小さな振動に慌てて踏ん張る。

 ただ、視界一杯に映り込んでいたのは敵の不意打ち等ではなく、ヒマワリのような笑みを浮かべるファティマの顔だったが。


「えへへ……やりました。ボク、頑張りましたよ」


 掴みやすくもなければ硬くて触り心地もよくないだろうに、彼女は正面から翡翠に飛びついたらしい。それも返り血で汚れた頬をぐりぐりとこすりつけてくるのだから、僕にはどうしていいかわからなかった。


『ちょ、ファティ!? 戦えるようになって嬉しいのはわかるが、マキナ着装中は危ないから!』


「ヤぁですよぉ。やっとおにーさんが来てくれて、新しい剣にも触れたんですからぁ」


『そう言われても、ほら、今はまだ何かと落ち着かないから、ね!?』


 引き剥がそうにしても振り払おうにしても、翡翠の手でファティマに触れれば怪我をさせてしまうかもしれないため、僕は直立不動のままなんとか納得してもらおうと必死に言葉を考える。

 ただ、彼女とて戦闘継続中なことは不服ながらよくわかっていたようで、翡翠にしがみ付いたままの姿勢で少しだけ頭を離すと、頬を膨らませながら金色の瞳を向けてきた。


「むー、じゃあせめて、この剣なんて呼んだらいいか考えてください」


『あ、あぁそれの名前かい? 教授はクレセント・ハチェットって呼んでいたが』


「くれ……?」


 ファティマの不思議な要求に、数時間前に聞いた気がする名前を思い当たるまま口にすれば、大きな耳を揺すって首を傾げられてしまう。

 とはいえ、自分でさえ馴染みのない単語なので、彼女が頭上に疑問符を浮かべるのも不思議ではない。


『クレセント・ハチェット。三日月型の刀身だから、そう名付けたんだろうね』


「あっ、そっちにしましょ、ミカヅキ。意味はよくわかりませんけど、くれなんとかは長くて呼びにくいですし――おにーさんがつけてくれた名前ですしね」


 何か納得したらしく、ファティマは軽やかに跳躍して離れると、鼻歌を口ずさみながら血だらけになった夜明け前の大通りを歩きはじめる。

 一方の僕はと言えば、リッゲンバッハ教授のつけた銘が一瞬のうちで消滅したことに、ポカンとしてしまっていた。


 ――もしかして、呼び方を教えろ、ではなく、考えろ、と言ったのはこれが理由か?


 ミカヅキという銘は、決して自分が考えたものではなく、ただ形状を別の言葉で表現しただけに過ぎない。

 だが、ファティマとしてはこちらの経緯などどうでもよかったのだろう。こだわりがあるのかないのか微妙なところではあるが、嬉しそうに尻尾を伸ばす後ろ姿を見せられては、今更彼女が納得した名前に口を挟もうとは思わなかった。


『……話がついたのなら、今後の動きについて聞いておきたいのだけれど』


『あ、あぁ、すみません、はい』


 無線越しに聞こえてきた冬の風より冷たいシューニャの声に、背中を冷や汗を静かに伝う。

 ただなんとなく、作戦継続中だから、という理由ではないような気がしてならなかったのだが。

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