第240話 経験値が不足しています
キョウイチが逃げた。
いや、彼の名誉のために正しく言えば、大混乱を避けるため、一時的に姿をくらませたと言うべきなのだろう。ファティマに見られた以上、既に状況が全員に知れ渡っており、ここにキョウイチが混ざれば、1人ずつと向き合って話すことなどまず不可能だ。
だから私は、彼の判断を責めようとは思わない。ただ、寝不足のダルい身体を引きずる朝食の席で、集中攻撃を受けていることに関しては、いくら最初に受け入れてもらえたからといっても、後でしっかり取り立てたいと思う。
隣から耳と頭にキンキン響く、ポラリスの声に関しては特に。
「キョーイチは私の旦那さんなのに……シューナいいなー! ずーるーいーなー!」
高級品な果物で口を膨らませながら、彼女はさっきから、いいな、と、ズルい、とを繰り返す。無論、私は無表情を意図せず貼り付けて聞き流していたのだが、他の全員から視線の圧力まで加えられては、流石に沈黙を貫いて居られるはずもない。
とはいえ、何を言えばいいのかもわからず、口から零れるは言い訳じみた一言だ。
「は、早い者勝ち、という話、だったはず」
「その調子でよくアポロニアのこと言えたわね……」
昨日、アポロニアに対して圧を放ったのは、祭りの夜を予定していた自分の求婚に、アポロニアが先んじたことに対する嫉妬が主な原因である。
ただ、その理由を説明するわけにはいかず、そもそも自らが投げた石に躓いたことは代わらないため、マオリィネの冷たい笑いに対して、自分にできるのは押し黙ることくらい。
無論、沈黙したところで攻撃の手が止むはずもなく、それどころか一層苛烈な一撃が加えられる。
「それで? 初めての口づけはどんな味だったのかしら?」
「けほっけほっ!? そ、それは言わないとダメ? ファティだってしたはずだし――」
あまりに直接的な言葉に、司書の谷では主食であるレーカ粥――キョウイチ曰く、コメガユというものに似ているらしい――が、喉の変なところに入ってむせる。顔が熱くなるのも、咳き込んだことが理由ではないだろう。
ただ、追及から逃れようとファティマの名前を出したところで、彼女は特に興味もなさそうに長い尻尾をブンブンと振る。
「血の味しかしませんでしたし、そんなにいい物でもないですよ」
「だそうで、ぜーんぜん当てにならないんスわ。それにせっかく1番手取れたんスから、これぐらいは覚悟してほしいとこッスね」
退路は完全に塞がれた。これは今朝の時点で、ファティマに場を譲って同罪となる者を産みだせなかった自分が悪い。その上、彼女は半ば頭突きのような口づけを行った結果、それがキスの味と信じているのだから、現時点では手の打ちようが無かった。
おかげで私は観念するしかなく、いつか風呂で経験した茹で上がるような感覚になりながら、言葉を喉の奥から押し出していく。
「そ、の……凄く、頭がふわふわした……何も考えられなくて……気持ち、よかった?」
言うだけで朝の感覚が唇に戻ってきたように思え、私は無闇に暴れ出したくなるのを必死に堪える。
しかし、自分が羞恥心に悶え苦しむ一方で、何故か質問者であるはずのマオリィネはごくりと唾を飲み下し、アポロニアは強く拳を握りこんで唸りを上げていた。
「こ、これが経験の力、なの?」
「ギギギギ、本気で羨ましいッス」
感情が乱れるのなら、聞かない方がいいのでは、とは流石に言えない。自分も彼女らの立場なら、興味本位で追及していた可能性が高く、聞いてしまえば悶々とするのも否定できないのだから。
「んー、わたしもドキドキしたけど、やってもらうとちがうのかなぁ」
「えっ?」
「ん?」
一瞬、本気で自分の耳を疑った。
視線の先に居るのはポラリスであり、先ほどの、わたしも、という声もまた彼女のものだったようには思う。あるいはポラリスだからこそ、空気を凍らせるほどの極大魔術を一瞬で行使した可能性も、否定は出来ないが。
「ちょ、ちょっと待ってポラリス! 貴女、どこかでキスの経験が、ある、の……?」
「うん。キョーイチにしたよ? 今度はキョーイチからっておねがいしたら、逃げられちゃったけど」
走る衝撃、壊れる世界。
キョウイチは、過去にストリという恋人が居たことから、初めてのキスということはないだろう、と思ってはいた。それはどことなく残念なようにも思えたが、歳上の彼に頼りたい、手を引いて貰いたいという願望も強かったため、納得することもできていたのである。
ただ、最年少のポラリスに先んじられているとなると、やはり多少の悔しさ自然と膨らみ、堪えきれなくなって口の隙間から零れ落ちた。
「わ、私がはじめてじゃなかった……」
「えっーと、じゃあ何ッスか? 残ってるのはもう自分と御貴族様だけってことッスかね?」
「も、弄んでくれるじゃない……ちょっと自信無くなって来たかも……」
自分でさえ、先を越された、という感覚に胸が苦しかったのだから、最年長のアポロニアや貴族としてのプライドを持つマオリィネが、虚無の表情を浮かべるのも当然だろう。
「だから血の味しかしませんって」
「ファティがやったのはキスというより衝突」
「そんなに違うものですか?」
唯一何も思わなかったのは、破城槌のような口づけが初体験となったファティマくらいである。何がそんなに羨ましいのかという視線を全員に投げかけ、運悪くバッチリ目が合ってしまったマオリィネがあたふたしていた。
「わ、私に聞かないでよ。したことないんだし……気になるけど」
「んー? みんなで一緒にキョーイチにチューしてもらえばわかる?」
「フ、フフフ、フフフフフフフ……ポーちゃぁん、ご主人の口は1つしかないッスよぉ。だから――」
ゆらりと影のように立ち上がるアポロニア。その迫力は言うまでもない。
成人後において最年長というのは、最も結婚適齢期から早く離脱してしまうことを意味している。子どものように小柄なアステリオンでありながら、彼女がギラリと目を輝かせるのは、ある意味当然と言えた。
ただ、勢い勇む彼女に対し、冷や水を浴びせる者が現れる。
「おう、おはようさん。飯中に悪ぃな。白藍への積み込み作業が終わったんだが――あれ? あのスケコマシはどこ行った?」
時間切れを告げる無慈悲な骸骨の声に、アポロニアが硬直したのは言うまでもない。
■
タブレットに表示される物資の品目は多岐にわたる。
その中でチェックが点けられている物は、主に個人携行火器と玉匣用の弾薬類だ。今までも使用経験がある自動小銃や対戦車ロケット弾発射器をはじめ、付け焼刃ながらアポロニアに仮想空間訓練を施した
「こんなにあったのかい」
「陸軍は物資をそこそこ突っ込んでたみたいでな。これでマキナがなくても、ミクスチャに泡吹かせてやれるかもしれねぇぜ。カッカッカ!」
白藍を前にした乾ドックの中、今度見かけたら挽肉にしてやる、とダマルは笑い声を響かせる。よほど、最初にミクスチャと戦った時、玉匣の行進間射撃では連続被弾させられず、撃破に至れなかったどころか、装甲に体当たりされたことを根に持っていたのだろう。
ただ、骸骨がどうだと胸を張る一方、それらを直接扱うアポロニアの表情は微妙だった。
「強力な武器があるのは嬉しいんすけど、このタイセンシャロケットダン? だけでもまだ慣れてないのに、ミサイルとかなんとかは流石に使いこなせる自信がないッスよ」
あくまで数日ばかり仮想訓練をしただけの彼女は、覚えることが多すぎて困惑したのだろう。隣から画像の表示されたタブレットを覗き込む頭では、分厚い耳がぺったりと伏せられていた。
「無理に使わなくていいさ。そっちはダマルが使える――んだよね?」
「おう、使い方は理解してるぜ。実際にぶっ放したのは訓練だけだがな!」
「……まぁ、うん。選択肢は多い方がいい、ということにしとこう。翡翠の状況は?」
忘れてはならないが、ダマルは前線で戦う歩兵ではなく、後方支援にあたる整備兵なのだ。機関拳銃やら対戦車ロケット弾発射器を扱えるだけでも、十分に有能な骸骨であり、それ以上を求めるのは酷と言えよう。
半ば
「あぁ、悪いが翡翠はもうちょいかかるぜ。武器も機体も、今まで酷使してたのをリフレッシュしてるし、他の秘密兵器についてもやっときたいことが多くてな」
マキナに関しては、リッゲンバッハ教授の手も借りて、随分大規模な整備調整になっている。そんなプロフェッショナル2人のおかげで、僕は調整に呼び出される以外にできる手伝いすら存在しない。
それでも時間がかかっていることをダマルは気にしていたようだが、ここまで心強い後方支援もないため、文句を言えるはずもなかった。
「いや、それは仕方ないだろう。この時間を得るために皆には先に戻ってもらうんだから、むしろ君が働きすぎで倒れないか心配なくらいだ」
「カカッ、後でボーナスと休暇はたっぷり貰うさ。俺もお前と同じようにやりたいことがあるんでな」
「そりゃ戦果次第だが、まあそれなりに期待しててくれ」
やけに含みのある言い方で、ダマルは顎をカタカタと鳴らす。
別に雇われて戦争をしているわけではないのに、骸骨の希望はなんとも職業軍人らしいもので、僕は妙なところで生真面目なものだと苦笑しながら、1つ約束を交わした。
その一方、少々不服気な表情を浮かべたのはファティマである。
「あの、ボクの剣はまだできてないんですけど、それはどうするんですか?」
ファティマは自身の剣が完成してから、王国に戻ることを期待していたのだろう。だが、リッゲンバッハ教授からあと1日はかかると伝えられたことで、プレゼントを取り上げられた子どものようにむっつりと膨れていた。
とはいえ、ファティマをこちらに残すことは、物資を輸送することにおいて不利益が大きすぎるのだ。
「僕らが戻る時に一緒に持って帰るよ。楽しみにしてるところ悪いとは思うんだけど、ファティが居てくれないと降ろせない荷物もあるから」
「むー……しょうがないですね。ボクにもあとでご褒美くださいよ?」
「勿論。皆にも色々苦労をかけると思うが、将来の平穏な生活を掴むために、どうかよろしく頼む」
いい子だ、とファティマの頭を撫でてから、全員に向き直って頭を下げる。
ただ、そんな自分のお願いに対して、シューニャを除く女性陣は顔を見合わせると、複雑そうな笑みを浮かべたり、ため息をついたりと微妙な反応だった。おかげで、口から言葉を吐いて早々に、訳の分からない大きな不安が込み上げてくる。
「えーと……僕ぁ何か変なことを言ったかい?」
「別に変って訳じゃないんスけど、ねぇ?」
「けれど、私たちが聞きたい言葉はそうじゃない、っていう話よ」
「極まった鈍感さんですからね」
「ぐっふ……ッ!?」
言葉の刃はレーザーより貫通力が高く、精密誘導のミサイルより正確に、弱点を射抜いてくる。
シューニャとの密会がファティマによって全員に伝播したのは間違いないが、その勢いだけで纏めて全員と話すことは避けようと、僕は敢えて今日は下手な話を口にしないよう努めていた。ただ、彼女らの言葉から自分の判断が裏目に出たのは明らかである。それどころか、重婚の話さえ先に回っているのではないかとさえ思えてきて、僕は話を知っている2人に視線を投げたが、シューニャは静かに視線を逸らし、アポロニアはピーピーと口笛を吹くだけで答えは見つからない。
しかも、自分が顔を向けた意図が分かったのだろう。マオリィネに深い深いため息をつかれてしまった。
「そんなに気にしなくていいわ。キョウイチがそういう人なのは知ってるし、今は時間が惜しいのでしょう? ほら、荷物を纏めに行くわよ」
号令一声。マオリィネについてキメラリア2人も廊下へ向かって歩き出す。
ポラリスはそんな彼女らを追いかけようとしたものの、何か思いついたようにその場で回れ右をして自分の方に戻ってくると、呆れかえったような声を出した。
「キョーイチはオトナなのに、オンナゴコロがわかってないなぁ」
軽い足音が遠ざかっていく。10歳の少女に言われたのでは、最早頭さえ上げられない。
その様子をダマルは呆然と眺め、珍しく同情的な声を出した。
「やっぱ、あのおチビが誰より侮れねぇわ。クリティカルじゃねぇか」
「わかってる、わかってるんだ……だが、その、こう、雰囲気とか、あるじゃないか」
「たまには強引に行けってこった。あんまり我慢させすぎたら、とんでもねぇ利子がつくぜ?」
「……努力、します」
涙が零れなかったのは、我ながらよく耐えたと思う。少なくとも塩を塗り込まれた心の傷は浅くない。
だからこそ、隣から聞こえてきた控えめな声が、今の自分にとっては癒しだった。
「あの、キョウイチ、ちょっといい?」
「なんだい……?」
今朝のことがあるからか、シューニャはいつもより躊躇いがちに身体を揺する。
だが、僕が静かに答えを待っていると、小さく袖を引きながら口を開いた。
「……家族に出立を伝えに行こうと思うから、その、また一緒に来てほしい」
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